ショート 弱い祟
連作の3作目。
母から聞いていた絵は三枚だけのはずだった。一枚は出会った当初のもの、もう一枚は結婚当日、もう一枚は妊娠が分かった時に描かれた。しかし、アトリエ内を撮影したこの写真には……三枚の後ろに隠れたもう一枚が写っている。父の残した絵は全て高値で売れた。きっとこの一枚も揃えば……未発表作としてオークションにでもかければ、一生遊んで暮らせるだろう。
絵に意思はない。誰の手に渡ったとしても、文句は言えない。ただの物質に過ぎないのだから、遺された者が有効活用するべきだ。私を放り出してまで絵を描こうとした、父へのささやかな復讐を遂行する。成人してからの生きる糧となっている、私の中の揺るがぬものはもうすぐ実現しようとしている。
まず、複数の科学者・技術者の中から頼みを断らないであろう人物をピックアップした。調査機関によれば、資金難で研究が行き詰まっている人間なんて簡単に洗い出せるそうだ。政府への申請、組合や協会に向けたメッセージ。これらを一つずつ繋ぎ合わせ、目の前にカネをチラつかせるだけで簡単に食いつく。決断から一年以内に揃えたプロジェクトメンバーは互いに協力しあい、5年という驚異的な期間で完成まで漕ぎ着けた。
臓器は物を言わない。だから、喋らせる。眼底に出来た腫瘍はサンプルとして冷凍保存されていて、それ以外のものは破棄された後だった。つまり、父のオリジナルはここにしかない。4枚目の絵を手にできるのは、私と……プロジェクトに携わったものだけのはずだ。誰にも渡すもんか、私のカネには指一本触れさせない。私達を浪費したあの男の作品を、私が浪費する。
「準備が整いました。実験室までお越しください」
ショートメッセージでの呼び出しに応じるつもりだったが、声はほぼ出ない。テキスターを通じてそちらに向かう旨を読み上げさせた。咽頭ガンの進行は加齢のせいもあり緩やかではあったものの、確実に体を蝕んでいる。痛みこそ薬の力で消しているが、思うように体が動かないという精神的な苦痛までは和らげてくれたりしない。もっとも、彼にお願いすれば器官ごとの全置換手術はすぐにでも出来るのだろうが、今の体力では適応する前に力尽きるだろう。
机の横に立て掛けておいた一本の杖を見る。忌々しい、あの男の残したイーゼルを削り出して作らせた杖。恐らく地獄に堕ちたであろうあの男へ復讐を見せつけるためにわざわざ設えた。この呪いの杖を手に取り、実験室へと向かう。廊下を歩くだけで、魂を消耗しているような錯覚すらする。リノリウム張りの床へと叩きつけながら、一歩ずつ、最後の舞台へと進んでいく。
生体リーダーへと右手をかざして、電子錠をアンロックする。研究の途中報告は受け取っていたものの、ほとんど興味が無かった。完成するかしないか、しないのであればいくら足りないのかだけを端的に報告すれば良いものの、科学の進歩がどうとか下らない事を一々喚く彼らには……うんざりしていた。それも今日で終わるのだから、こんなに喜ばしい日はもう来ないだろう。
ドアが開き実験室内の装置が目に入る。その周辺で何かのケーブルを繋ぐ男と、モニターを観察している男。呼び出した張本人であるクローン技師が、その様子を見守っている。
「ついに、完成したのですね」
「ええ、長い間お待たせしましたが……こちらがその完成品です」
金属製のラックの上に置かれたガラス瓶を中心として、色々な機器が接続されている。スピーカーのようなものから、私の聞き出したい情報が流れるのだろう。簡素なパイプ椅子がその前に一脚だけ置かれている。どうやら、特等席のつもりらしい。
「いつ、聞けるのかしら」
「お望みとあらばすぐにでも」
ガラス瓶へと電極のようなものを取り付けて、義肢のエキスパートが立ち上がる。その様子を横目でみながら、用意された椅子へと腰を下ろした。
「仕組みの説明は後で。話しかける方法だけを伝えて」
「……かしこまりました」
クローン技師と入れ替わるように、言語学者が私の前まで歩いてきた。こいつの話は長過ぎるから先手を打ったつもりだったが、どうやら下らないお喋りをしてくれるようだ。
「臓器に宿る記憶、これはクローニングした細胞でも同様に呼び起こせると考え――」
「能書きは後にしろと言ったつもりなのだけれど?」
そんな事を聞きたいのではない、という意思は伝わったようだ。言語学者が若干の苛立ちに頬をひくつかせながらも、手順を説明し始める。
こちらはマイクを通じて呼びかけ、それに反応した電気信号を解析し、スピーカーから出力する。10秒もあれば説明できるような内容を、回りくどく伝える天才たちがここに3人も居る。もう1人は自分の領域を研究し終わると同時に、予算のいくらかを返納した上でプロジェクトから脱退した。一番賢明な判断をしたのは、彼だったのかもしれない。
「マイクを」
「……こちらです」
第一声はなんと呼びかけるべきだろうか。恨み辛みを聞かせて重要な部分を聞けなくなるのは本末転倒でしかない。
何の感情も持ち合わせていない、彼らに任せるべきなのかもしれない。差し出されたマイクを受け取ろうとした右手は、何も掴まずに膝の上へと再び収まった。
「……代わりに聞いてもらえるかしら」
「宜しいの……ですか」
思わず楽しみにしている部分を譲ってもらえた、彼にとっての幸運が巡ってきたとでも勘違いしたのか、その表情は晴れやかなものに切り替わる。期待に胸を膨らませているような、興奮気味に見開かれた眼が、私とマイクの間を行き来する。
「ふさわしい言葉で、聞いてもらいたいの」
「……絵、について、でしょうか」
無言のまま、うなずく。やはり喉の調子が悪い、こんなやり取りをしていて喋れなくなる……あの男へと言いたい一言が言えなくなるのは、望ましくない。
「それでは……始めます」
ガラス瓶の中央に浮いた眼球……培養液の中で育った腫瘍の一部へと、言語学者が語りかける。
最初は、応答できるかという簡単な質問だった。聞こえている旨が合成音声で流れ、彼らが横で喜んでいるのが聞こえる。瞬きすら出来ないこの醜い肉塊から、目線を逸らすことが出来ない。
その後もどんな人生を歩んできたのか、どんなものを見たのかという質問が続く。段々核心へと迫りつつあるが、それと同時に焦燥感とは別の感情が浮き上がり始めた。
この眼球は、自分の子供のことなど一切見ていない。母が出産した時の話は語ったものの、その後には私の名前すら出てこない。母が亡くなるまで、私が8歳になるまでの記憶は語られていない。端から、眼中になかったのか。沸々と湧き上がる黒い感情に震えた腕が、杖を取り落とす。
「絵の在り処を聞き出しなさい」
――――――
アトリエの屋根裏を捜索させた業者が、布にくるまれた板状のものを手にしながら降りてきた。枚数は……4枚だ。全て揃っているのであれば、これがあの男の最後の作品のはず。
手切れ金がわりの報酬を現金でそのまま、何も包まずに手渡しすると、礼など言わずに飛び出していった。好都合ではあるものの、それだけの品が眠っていると分かればすぐに戻ってくるかもしれない。麻紐を解きながら、布の中身を確認した。
それぞれ、母の優しい表情が描かれた物だった。雑誌に載っていた写真と全く同じ、3枚のカンヴァス。
4枚目の覆いを外して、現れたものを見る。
年老いたお母さんと、成長した私の姿だ。他の3枚に比べるとお世辞にも上手いとは言えない出来だった。遠近がおかしくなり、輪郭も歪んでいる。見たものを描くことしか出来なかった父は、まだ見えていない物を見ようとして、これを描いた。
自分の担当だけを終わらせて消息をくらませた、視神経の接続に携わった医師の一言を思い出す。見えていない間の記憶は、残るものでしょうかと。カルテや通院歴のコピー、切除した組織片の状況から、既に何かを察していたのかもしれない。
こんな駄作に、値段がつくはずがない。
端末を操作してテキスターを起動する。宛先はプロジェクト全体、読み上げさせたい内容を入力していく。
「目的は達成されました。お疲れさまです。予算の余りがあれば好きに使ってください。本プロジェクトは解散と致します」
"存在しなかった未来"を胸に抱える。
葬儀で流した涙の続きが、床に水玉を描いた。