scene4−2ボクと胃管
カルテを閉じて、次の患者さんのところへ行こうとする先生を僕は小走りに追いかけた。
「胃管入れ替えません?もう少しで二週間経つし、HCUで経管続けるなら入れ替えた方が」
「おー…詰まってからじゃ、だめ?詰まったら入れ替えるよ」
胃管とは、鼻から胃にまで入っている太いチューブのことだ。チューブの種類や用途に応じては胃であったり、腸にまで入れる場合もある。
ちなみに胃管は点滴と並んで、患者さんが誤って抜いてしまったり、意図的に抜いてしまったりと、【抜いちゃダメだけど抜かれがちな管ランキング】というものがあれば確実に上位入選する管だ。それだけ違和感は強い管なのだ。
ちなみに、僕が看護学生の頃。今の看護学生だったら絶対やらないだろうけど、胃管を入れてみるという体験があった。もちろん任意だから、やりたい学生だけやるという決まりだった。
僕はせっかくの体験だからと率先して体験して、とんでもなく後悔したことを覚えている。まず、鼻に入れ始めた時点で痛みと鼻水と涙が止まらない。そして、太い管を飲み込む違和感と、さらにはそれがずっと喉にあり続ける違和感がたまらなく嫌だった。胃管の見た目は太いうどんくらいなのに…きしめん以下なのに…こんなに喉に居座って主張していく奴だったのか…と驚いた。
さらに、その時は胃管から飲み物を入れてみるという体験までした。
看護学校の自動販売機で売っていた、ごま豆乳ミルクみたいな飲み物を女子が奢りだなんだと言って買ってきてくれた。普段は、男子だからという謎の理由で、面倒なことは押し付けられがちなのに、こんな時だけやたら奢りを主張されても…という気分ではあったけど。
そのごま豆乳ミルクが鼻の管を通っていく瞬間は、なんとも気持ち悪いものだった。管から冷たさが伝わり、口や舌で味わってもいないのに、ごま豆乳ミルクの風味が感じられたのだ。それ以後、僕は卒業するまでごま豆乳ミルクは飲まなかった。
だからこそ、他のスタッフより胃管の苦痛さは分かっているつもりだ。管が太ければ太いほど、違和感も増すだろう。
「んー、先生。これ太いサンプチューブなんですよ」
「あ、なんか前言われた。なんかがダメなんだよな」
「そう、硬くなってダメなんです。抜く時に傷ついたらまずいですし。太いし。」
「そーなんかぁ」
篠崎先生は、うっすら目を細め眉間に皺を寄せながら考えていた。
「嚥下は?胃管、抜いちゃったらだめー?んっ?」
「まだとろみ水程度ですね。今日ゼリー試してみる予定です」
「じゃ、STさんに聞いといて。いけそうなら胃管抜いちゃう。無理なら入れ替えるわ」
「はいー」
足早に先生は去っていった。時間でいえば、これから病棟の患者さんの創処置を行ったり、今日手術の患者さんの方にいかねばならない時間だろう。朝は忙しいのだ。
その一連のやりとりを見ていた三山さんが、僕に声をかけてきた。
「藤原さん、あの」
「おー、どうした?」
「私全然分からないんですけど、教えてもらっていいですか?」
久々に篠崎先生に会ったから、三山さんを置いて話してしまっていた。 今日は三山さんのフォローだった。三山さんは僕からみると、とても勉強熱心に見える。また、分からないことを分からないとちゃんと言葉に出して伝えられる点は強みだと思う。
僕は新人の頃、分からなくても先輩がやってくれるからいいか…分からなくても今はまだ必要な知識じゃないからいいか…なんとなく分かるからいいか…という思惑を理由にして、先輩に「分かりません」と伝えられなかった。伝えたら、怒られるかも!?という気持ちと、こんなことも分からないの?と幻滅されるのも嫌だったからだ。
僕がちゃんと分からないことを聞けるようになったのは、2年目くらいからかもしれない。早く変な不安とプライドと意地と怖さも捨てて、聞いておけばよかったと未だに思う。
「あ、ごめん。なになに?」
「胃管の入れ替えが基本は2週間っていうのはルーチンじゃないですか。様子でやらなかったり早めにやったりはあると思いますけど」
「うん」
「で、サンプ?チューブってどういう?」
「種類のこと?」
たしかに、うちのICUは考えてみれば新人さんに胃管のことを伝える場がなかった。その場で経験しながら伝えていっているのが現状だ。
「私は今まで胃に入ってるのは胃管で、腸に入ってるのは経腸で、イレウスの時に入ってるのがイレウス管だと思ってたんですけど」
「あ、大丈夫。それで合ってる。んー。せっかくだし、チューブの種類の話していい?」
「お願いします」
三山さんは小さいメモ帳を取り出した。
「そんなメモするほどの大層な話じゃなくてごめん」
「え、そんな」
「じゃ、そのメモにちょっと落書きしてもいい?」
サンプチューブの仕組みを描くために、三山さんのメモを借りた。