scene1-1:ボクとAライン
病院のICUで働くボクの話。今日はボクと後輩のAラインという動脈に入っている点滴の話。
「そう、…いいっ、いいよ。もうちょっ…と、そこ。」
僕は、褒める。けれど、褒め方が下手くそすぎて、いいとしか言えない。
だって、いいのだから。
「…緊張、しますね。初めてなので。こういうの、慣れますか?」
彼女は緊張しながら問いかけてきた。
「すぐ慣れるよ…大丈夫、大丈夫。」
何をしているのかと問われれば、僕は今、女性をじっと見つめている。
女性は白衣で、くるりと睫毛が上を向き大きな瞳で、真っ直ぐに目の前のものを見つめている。そんな僕も白衣だ。その瞳で、僕の目つきが悪いとよく言われる眼を見つめられたら、僕だってドキッとはしてしまうのだろうな…という想いが脳裏に浮かんだ。…いけない、いけない。
僕は今、後輩がAラインを作成する工程をじっと見つめている。
ここは病院で、ICUで、今は日勤の勤務中で、今日の僕のペアスタッフがこの後輩で、後輩は看護師4年目のICUに異動してきたばかりの彼女だ。状況を一つずつ飲み込みながら馬鹿な思考に蓋をする。言い方や態度を誤ると、このご時世はすぐセクハラだのパワハラだの言われてしまう。
しかし、ICUに異動したばかりの頃は、慣れないことばかりで自信をなくしがちになる。それは、ICUという場が少し特殊なためかもしれない。病棟での勤務と違い、多くの機器管理もしなければならないし、体の状態がよくない方も多いし、緊張感は高いだろう。だからこそ、緊張している彼女の少しでも出来ていることを褒めようとしたけれど、自分の言葉の拙さに毎回うんざりする。
そんなことを考えながら、Aラインの気泡を抜く後輩を見つめている。
Aラインとは動脈に挿入されている管だ。それは患者さんに使用する点滴のような、違うようなもの。点滴は静脈に入っているがAラインは動脈に管が入り、血圧を見ることができて、採血ができるものだ。モニターに接続すれば血圧の数値や波形が出てくる。
いつもAラインを患者さんに説明する時には、何と説明したらいいのやらと悩む。最終的には動脈に入っている点滴だから、抜いたら血が出てしまうので、触らないでください…というお決まりの言葉でしめている。看護師としてはAラインが抜けてしまうことは大大大事件なので、是が非でも避けたい。Aラインが抜けるということは、動脈から出血するということだから、出血量も多く危険なのだ。
ちなみに、Aラインを留置するのは医師や診療看護師、特定看護師といった資格のある者だ。僕みたいな一般看護師や、目の前の後輩がAラインを留置することはできない。一部の限られた者にしかできないこと…。 そんな響きに憧れ、貪欲に知識や経験を追い求め、その学をひけらかしながら、自分の思考過程とは違うアセスメントや治療・看護ケアを繰り出す若手医師や年配看護師に対して、いきり散らしていた時期もあった。今ではそんな特別なスーパーマンナースなんてどうでもいい。いかに自分が実施したことや、指導したことが、目の前の患者さんや他のスタッフも実践してくれるのかが気になって仕方がない。誰にでもそんな時期があるものだ。
そうこうしていると、後輩はAラインをほぼ作り上げていた。このAラインというものは実に厄介なのだ。点滴の管と類似したラインの隅々にまでヘパリンという血が塊りにくい薬剤の入った生理食塩水を満たす必要がある。後輩は慎重にその作業を終え、大きく深呼吸をした。出来上がったAラインとボクを交互に見つめながら真剣な面持ちで問う。
「藤原さん、どうです?入って…ます?」
「…んっ、…入って…る。」
「えぇ?」
何が入っているかと言えば、空気・気泡・エアだ。Aラインは動脈に入っているが故に、空気が入ってしまうと空気塞栓といって、正しい波形が表示できなくなってしまう。その回避のためにライン内の気泡混入は厳禁だ。後輩の作成したラインの接続部分には気泡が紛れ込んでいた。
「ここエア入りやすいんだよ、ちょっと貸して」
僕は自分で見本をみせながらAラインの気泡を抜いていった。正しく準備し使用することで、Aラインは血圧測定・採血だけでなく、他にもアセスメントにも活用できて便利なものだ。
ボクがICUに異動して初めてのAライン作成の時に、先輩のクニさんがボクに近づいて『藤くん、気をつけないと気泡が患者さんの体のなかにはいっちゃうんだよ。塞栓だからね。…できた?見せて…はい、よくできました』と笑顔を見せながら、とてもいい香りがしたことを覚えている。香りは余計だけど、ボクのAラインの思い出だ。自分でも、そんなことばっかり考えているだなんて、実に不真面目だと感じる。
気泡が全部できったところで後輩にAラインを渡す。最後に彼女は再び出来上がったものを見つめて、眉間に皺を寄せていた。
「んー難しいですね」
「大丈夫。よくできました」
あの時のクニさんのように微笑みかけた。果たしてそれが、後輩に対してあの時のボクのようにちょっとした自信と、ちょっとした違う緊張をもたらしたのかは分からない。