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ランドール領は、ガルメンディア王国と国境を接するレッドメイン王国の領地で、ヘッセニアが生まれ育った土地だ。
父は和平の証としてオリバレス領から嫁いで来た母と共に良き領主としてその地を治めている。
しかし二人の婚姻が結ばれるまでは、国境が接するが故にガルメンディア王国と長く衝突を繰り返し常に緊張した土地であり、ガルメンディア王国のオリバレス領と同様にヘッセニアの祖父が休戦交渉を持ち込むまでは、長い間戦地として知られていた。
休戦がなってからは、ヘッセニアの祖父母達の努力によってそれぞれの領地は豊かな農地へと姿を変えたが、あくまでも休戦であって戦いが終結したわけではない。
だからこそヘッセニアを、ランドール領の令嬢をガルメンディア王国の王室に嫁がせる意味がある、とディオニシオはこの婚約の正当性を主張していた。
それをオリバレス侯爵の隠し子として公表したのは、レッドメイン王室の決まったばかりの婚約者を拐ったかのような婚約であることを隠すためだった。
なのにランドールと剣を交えるなど、それが仇となったのだろうか。
さっと表情を翳らせたヘッセニアを宥めるように、エクトルは優しくその頭を撫でた。
「今年はどこも収穫が良くない。…オリバレス領を除いて」
今年は天候の不順もあって、農作物の成育があまり芳しくなかったという話はヘッセニアも聞き及んでいた。思いがけず戦が長引いているため、何度かの税の引き上げがあったために更に物資が不足しがちになっている、とも。
オリバレス領は、祖父や伯父の努力の甲斐あって、長年の品種改良が実り多少の天候不順でも豊作とは言えないものの収穫量を落とさずに済んでいた。
そしてそれは、ヘッセニアの生まれ故郷であるランドール領も、気候が近いオリバレス領と頻繁に農作物の育成について情報交換を行ってきたことで同様であった。
「戦が長引いたせいでこれ以上税を上げることはできない。だからと言って侵略なんて馬鹿が打つ博打でしかない筈なんだがな」
エクトルは悔しげに唇を噛んだ。
恐らく、エクトルの諫言は退けられたのだろう。
「それどころかヘッセニアがいる以上、有利だとすら抜かす始末だ」
それはつまり、ヘッセニアを人質とするということで。
レッドメインのランドール領に戦をしかけるのだろう。
そのランドール領を治めるのは、ヘッセニアの父親。
娘の命を盾に、ランドール領主に侵略を受け入れるよう迫るということらしい。
「それなら私のことなど切り捨てて貰えばいいわ」
ヘッセニアは迷うこと無くそう答えた。
多くの領民の命や、彼らの努力の結果である農地や農作物とヘッセニアを天秤にかけるまでもない。
ヘッセニアの父親は、娘を愛し慈しんで育ててくれたが、その一方で冷静な判断を下す賢明な領主でもある。
ヘッセニアの為だけに領民を危険に曝すようなことをするはずがない。
「それにもう、戻ることなどできないでしょう?」
かける言葉を探すエクトルに畳み掛けるように、ヘッセニアは微笑んだ。
フレドリックとの婚約は、ディオニシオによって破棄されてしまった。
今さらディオニシオとの婚約が無くなったとしても、二度も婚約破棄された令嬢の貰い手など現れないだろう。
それならば、盾の振りをしてでも有効なカードとなれるのならば本望だ。
────フレドリックは、悲しんでくれるかしら。
国の諍いの露と消えた令嬢を少しでも思ってくれることがあればいい、ヘッセニアはそう思うと、愛しい人の面影を思い浮かべて静かに笑みを浮かべた。
ディオニシオの肝いりで任命されたエクトルを指揮官とした騎士団が組織され、ランドール領への攻撃の命令が下ったのは、それから間もなくのことだった。
◇◇◇
ガルメンディア王国によるレッドメインへの攻撃は、宣戦布告されることなく開始された。
攻撃開始は、新年を祝う休暇が始まって間もなくのことで、たとえ交戦状態であっても戦闘は避けることが世界の不文律となっている期間のことだった。
ガルメンディア王国による突然の攻撃と同時に停戦合意は破棄を宣言され、両国は戦争状態へと突入した。
交戦中ですら休戦する休暇とあって、ランドール領の自警団も最小限の警備のみ残して休暇に入っているという目論見であったがしかし、ガルメンディア王国の勢いはそこまでだった。
レッドメインは一度攻撃を受けると、ランドール領主が指揮する、休暇中とは思えない規模の自警団により反撃。
さらに間を置くことなくレッドメイン王都より第2王子が率いる援軍が到着し、奇襲と数で圧倒しようとしていたガルメンディア側の目論見は脆くも崩れ去った。
また、レッドメインの援軍の到着により不利を悟ったエクトルは、ディオニシオに援軍を要請したが、ディオニシオは既に抱えている国境での戦争状態を理由に兵を動かすことはできなかった。
レッドメインが王子を大将に据えて援軍を出したとなれば、その威力、レッドメインの本気度は考えるまでもない。
援軍が投入されては勝ち目はないと判断したエクトルは、ディオニシオの判断を仰ぐことなく早々に降伏を宣言し、兵を引きレッドメインの騎士団へと単身捕虜としてその身を投じたのだった。
ガルメンディア王国はエクトルの独断を追認し正式に降伏を申し入れ、将来を嘱望されていた若き騎士の身柄の返還を求めた。
レッドメインもランドール領の自警団の働きもあって大きな損害を被ることがなかったことを鑑みて、改めてレッドメインの主導によって新たな停戦合意を結ぶことを条件にガルメンディアの要請を受け入れた。
こうして、行き当たりばったりとしか言えないガルメンディア王国の自滅劇は早々に幕を下ろすことになる。
攻撃開始から降伏の正式受諾まで、わずか10日の出来事であった。
◇◇◇
ヘッセニアは、一人ホールへと足を踏み入れた。
それまでざわめいていた囁きに一瞬だけ、静寂が落とされたものの、新たなざわめきが生まれて広いホールを包んでいった。
招かざる客みたいだわ、とヘッセニアは誰にも気づかれぬようそっと息を吐いた。
そもそも、夜会にパートナーもなしに訪れることそのものが貴族の常識外の行いなのだ。
しかし正式な婚約者であるはずのディオニシオは、ヘッセニアのエスコートはできないとたった1行の文を寄越したのみである。
────招かざる客みたいではなく、実際に歓迎されていないのね。
婚約が発表されたにもかかわらず、これまで公の場に姿を現すことのなかった王太子の婚約者の姿を目の当たりにして、ホールにいる貴族の誰もがヘッセニアに注目をしているが、その婚約者が王太子のエスコートもなしにたった一人で王宮の夜会に訪れるなどというありえない事態にお互いに出方を窺っている。
そもそもガルメンディア王国に知り合いなど殆どいないヘッセニアには、声をかけるものなどいないのだが。
まとわりつく視線や不愉快に耳を打つざわめきを気にすることなく美しい姿勢を保ったまま、ヘッセニアがホールの中ほどへとその歩みを進めた時、ひときわ大きな呼び声とともに、夜会の主賓の到着が告げられた。
楽団が奏でる美しい旋律とともに王族専用の扉が開かれると、その扉から正装したディオニシオと、彼の影に控えたエクトルとともに騎士服を纏った男性が颯爽と現れた。
ディオニシオを従えた彼は伸ばしたらさぞ美しく輝くであろう鮮やかな金の髪を実用性を重視して短く刈り込んでおり、夏の青空を写し取ったような美しいブルーの瞳がホールを睥睨する。
その視線がホールの中ほどで立ちすくむヘッセニアの姿を認めたが、すぐに何もなかったかのように流れていった。
主賓の登場に、ホールに集っていた貴族が皆膝をつき頭を下げる。
ヘッセニアも同様にその場に膝をついて目線を下げるが、足が震えないよう必死にこらえていた。
「みな、楽にしてくれ」
凛とした落ち着いた声がホールに響く。
それを合図に、それまで頭を垂れていた貴族達が次々と立ち上がっていき、楽団も緩やかな曲を奏で始め、ホールに走った緊張が段々と緩んでいく。
ただ登場しただけで、目線を走らせただけでこの場にいる全てのものを屈服させた男の姿を、ヘッセニアは眩しいものを見るかのように目を細め、そっと視線を下げた。
「今宵は休戦の祝いだ。みな楽しんでくれ」
彼に続いてディオニシオが宣言すると、夜会の開会を告げるダンスが始まる。
王宮で開催される夜会のダンスは、最も位の高いものからとされる。
この場合は、王太子であるディオニシオか、それとも彼を従えている、あの男性か────
「ヘッセニア・オリバレス」
いつの間にかホールへと降りてきていたディオニシオが、ヘッセニアの名を呼んだ。
「はい」
ヘッセニアは目線を下げると膝を折る。
通例であれば、ディオニシオとその婚約者であるヘッセニアのファーストダンスをしない限り、他の貴族達は踊れない。
────彼の前で、踊るのかしら…。
恋しい人の前で、他の男と婚約者としてダンスを踊らねばならないのだろうか。
ヘッセニアは、顔を伏せていられて良かったと思う。
あれだけ会いたいと願った人だけれど、今だけは彼がどんな表情をしてるかなど見たくない。
彼を────フレドリックを、忘れることなどできないのだから。
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