転移する理由が見つからない 075
マンション最上階、中央付近の部屋に侵入しています。
転移する理由が見つからない 075
踏んで滑ったりしない様に、避けて通る様にして落ちたものを目にする。
クレヨンなのか色鉛筆なのかわからないが、それは原色が鮮やかな絵だった。
子供が描いたであろう、構図もバランスも無い拙いもの。
髪の長い女性が沢山の子供たちに囲まれた絵は、それでも微笑ましさを感じさせる。
子供たちが笑顔だからだろうか。
何故か女性は笑顔ではなかったが、エプロンに笑顔のヒマワリらしきものが描かれている。
上の方には不恰好だが大きな字が書いてあった。
いつかせんせー、だろうか。
先生になることを夢見る子供が書いた絵か。
そう思いながら、俺の手は絵を拾いあげていた。
なんとなく大事なものの様な、懐かしいものの様な、そんな感じを覚える。
何が懐かしいのかわからず、つい考え込んだ。
マンション近くに保育園があったことを思い出すが、子供も妻もいない俺には縁は無い。
「子供を投げる乱暴な保育士がいるから、辞めさせなきゃ」
とか、井戸端会議していたおばちゃんが喧しく騒いでいたくらいしか記憶にない。
背景のないこの絵がその園の子供が描いたのかはわからないが。
拾ってしまったものを捨てる気にならず、畳んでリュックへとしまう。
何故、こんなに気になって足を止めていたのか。
再び揺れが起きた瞬間に後悔したが、どうしようもなかった。
気がつくと視界が真っ暗になっていて、いつの間にか目を閉じて横になっていたことを知る。
何が起きたのかわからず、変に頭が痛むのを感じながら立ち上がると、目眩がした。
揺れた拍子に壁に頭でも打ったのだろうか。
壁に手をついて、まっすぐに立とうとするが、立てない。
「…マジ?」
バラエティ番組で、ビー玉を転がして手抜き建築か確認するというのを思い出した。
俺の方へと向かって、バランスボールが転がって来る。
緑の球形が弾みながら転がってくるのを見て、息を呑む。
どこに置いてあったのか、と思い視線を巡らせると、玄関寄りの部屋から転がり出たらしい。
横を通り過ぎたバランスボールは、割れた窓の外へ去っていった。
壁にすがる様にしながら、緩い傾斜となった家の廊下を進む。
ガラスを踏んでも平気な様に履いてきた靴だったが、踏ん張りが利くというのはありがたい。
右脚が動かないため歩きにくいが、どうにか部屋の前まで来て、そちらを見る。
あまり物が多く無いのは、運動がしやすい様にするためか。
壁にかけられた姿見はヒビが入り、留め具が外れて傾いていた。
そこに映っているものを見て、息が止まる。
黒く長い髪。
その隙間から見える瞼を閉ざして、気絶している女性。
俺と同様に壁に叩きつけられたのか。
そんな風に思いながら、そちらへと向かう。
「早く逃げろ。構っている場合か?」
暗い嘲り声が聞こえた気がする。
全くもって言う通りだ。
自分の命が危険な状況で、わざわざ助けに行く理由は無い。
そう思いながらも、俺の足は迷わずに彼女の元へと進んでいく。
不思議な事に彼女が死んでいるかもしれないとは、全く思わなかった。
転がっている健康器具や、ウェイトなどを避けて、隣へとしゃがみこむ。
手をかざすと、吐息を感じた。
「この程度で死ぬ様な女じゃないよな」
つい口を出た呟きだったが、何故か確信を持てた。
彼女が、そんなに柔な女では無い事を知っている様な気さえする。
会ったことは無い筈の女性だが、不思議な気分だ。
だが、気絶したままここにいては、流石に死んでしまうだろう。
どうにか担いで、避難できるだろうか。
そう思い、部屋にある窓の外を見る。
防犯用に窓を覆った格子越しに見える空は、若干の煙越しでも青く見えた。
どうやらここまでは火は来ていないらしい。
バランスの崩れた拙いひらがなで書かれた「りっかせんせー」という言葉でしたが、大慈は「りっか」という名前を想起できなかったため、「いつか」と読んでいます。
おばちゃんが話していた保育士は立花のことです。
いたずらしたり悪さをすると高速で振りまわされたりして怖い思いをさせられますが、子供大好きで面倒見の良い人なので、子供たちからは慕われています。