幕間 第10話 早乙女奈緒美の野望……二年春
タラタラと垂れて壷に溜まっていく無色透明の液体。
竃にかけた鍋の上に樽というか筒を乗せ蓋には水を満たした丸底の鍋。そして樽から突き出た管の先から無色透明の液体が滴り落ちている。
そう、これは“ちんたら”の語源という説もある“ちんたら蒸留器”という単式蒸留器の一種。タラタラ垂れているのはもちろん米焼酎ちゃん。
蒸留器や乾留器は基本構造だけなら簡単なので古くから使われていて多種多様な蒸留器や乾留器がある。
蒸留と言えば蒸留酒が有名だけど、原油を精製してガソリンや灯油やアスファルトなどを得る石油精製も蒸留(分留)だし、香水やエッセンシャルオイルの製造も水蒸気蒸留を使っている事も多い。船舶で真水をえるのに海水を減圧蒸留しているケースもあるらしい。乾留もコークス炉やセメントを作るロータリーキルン、木炭を作る炭焼き窯も乾留器と言える。もっともこれらは文昭くんやノリさんの受け売りも多いけど……
まぁ目的やリソースに応じて蒸留器の種類は数多あるのだけど、蒸留酒造りでは大きく分けて単式蒸留器と連続式蒸留器が使われる。
蒸留器といえばモルトウィスキーの蒸留に使われるフラスコっぽい形の銅製のポットスチルが有名だけど、ポットスチル自体に単式蒸留器という意味が含まれている。
有名なお酒は単式蒸留器を使っている事が多いのだけど、それは連続式蒸留器で造られたお酒が単体で市販される事があまりないのが要因としてある。もちろん、ウォッカや焼酎甲類など単体で売られる例もあるけど、連続式蒸留器で蒸留されたお酒の多くはリキュールなどの混成酒の原料であったり単式蒸留器で蒸留したお酒とブレンドされたりといった用途で使われる。単式蒸留器で蒸留したモルトウィスキーと連続式蒸留器で蒸留したグレーンウィスキーをブレンドしたブレンデッドウィスキーとかね。でもモルトやブレンデッドの銘柄はたくさんあるけどグレーンの銘柄は数が少ない。
そうなるのは連続式蒸留器の精製能力が単式蒸留器に比べて非常に高い事に由来する。やろうとすれば九〇度以上の高純度なアルコールを得られるぐらい精製能力が高い。だから連続式蒸留器で蒸留すると蒸留物には水とアルコール以外の不純物がほとんどない状態になり、こう言っちゃなんだけど味も素気もないお酒になりやすい。味も素気もないのは単体で飲むには欠点になるけど、リキュールやサワーなどに使うのなら他の素材の邪魔をしないという事でそれは長所と言える。要は適材適所が大事なのよ。
精製能力が高いという事は粗悪な酒でも連続式蒸留器で蒸留すれば一定の品質のお酒にする事ができるという事で、製造コストを低くする事が可能な手法でもある。
対して単式蒸留器では不純物が多い蒸留酒になり、この不純物が味や香りに多大なる影響を与える。モルトウィスキーだと蒸留器の上部(兜)の形状はストレート、ランタン、バルジなどの型があり不純物の種類や量が変わる。それが味や香りに変化をもたらしている。そして単式蒸留器は素になるお酒の特徴を反映し易く、粗悪な酒を原料にすると粗悪な酒になり良いお酒を原料にすると良いお酒になりやすいのでどんな酒でも良いという訳にはいかない。
単式蒸留器と連続式蒸留器について、偶に“単式は蒸留が一回で連続式は蒸留器を連結して何回も連続して蒸留する”って誤解している人がいる。
単式蒸留器を使うモルトウィスキーは通常は二回蒸留(三回蒸留する事もある)するし、連続式蒸留器で一回しか蒸留しない事もある。
連続式蒸留器で何が連続するのかというと原料供給を連続して行えるという事。連続式蒸留器の蒸留塔の中にたくさんの段があって段の一つ一つが単式蒸留器に相当して云々という人もいるけど、それだったら多段式蒸留器と名付けられたと思う。
単式蒸留器は原料を入れて蒸留し終わったら残滓を取り出して新たな原料を入れるのに対して連続式蒸留器は原料を供給し続けると同時に残滓も排出し続け蒸留物を得続ける構造になっている。これも連続式蒸留器の利点で、大量生産に向いていてコストダウンに繋がる。
今回作ってもらった“ちんたら蒸留器”は単式蒸留器に分類されるもの。単式蒸留器にしたのはお酒の品質とかではなく連続式蒸留器を作れるリソースが無いから単式蒸留器しか選択肢がなかった。
単式蒸留器は紀元前からあって簡単な物なら日曜大工でも作れるけど、連続式蒸留器は産業革命後の一八二六年にスコットランド人のロバート・スタイン氏によって原形がつくられた事からも分かるように産業革命以降レベルのリソースが無いと作成と運用は難しいのよ。作成は何とかなるかもしれないけど運用は絶対できない。連続式蒸留器の運用にはボイラーが必要だから蒸気機関が運用できないと正直しんどい。
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うーん。そろそろ仕舞いかな?
今垂れてるのを味見したけどこれ以上やると駄目っぽい。
焼酎蒸留の終わりの方は“末垂れ”と言ってアルコール度数が低く雑味が酷くなったり酒質を劣化させる成分が多くなる。初めの方は“端垂れ”と言って度数も高くて旨味成分も多いため、末垂れを除いたり端垂れだけを集めた(分割蒸留とも言う)高級な焼酎もある。
モルトウィスキーでも二回目の蒸留(再留)の最初の方をヘッドとか前留と言い、最後の方をテールとか後留と言って、ヘッドとテールを除いた部分をハートとか中留とか言ってハートの部分を製品にする。取り除いたヘッドとテールは捨てることもあれば次の再留のロットに戻す事もあるらしい。やっぱり真理は古今東西変わらないらしい。
そりゃ分割蒸留して良い焼酎は造りたいけど、現状でそれをすると量が足りなくなる。末垂れもギリギリまでねばって量の確保を目指す。次回以降はもうちょっと何とかしたいな。愚痴っても仕方が無いので火を引いて釜が冷えるのを待とう。後は再蒸留が必要かどうか……
モルトウィスキーが二、三回蒸留するのは最初のウォッシュが単行複発酵なので度数が六~八度と低いからというのも理由の一つ。一回目の蒸留でローワインとか初溜液と呼ばれる約二〇度のお酒にし、二回目で六〇~七〇度ぐらいまで濃縮する。
対して焼酎や泡盛は平行複発酵で一五~二〇度の醪からスタートするので一回で十分濃縮できる。一回で終わらすと不純物も多くなるけど、泡盛が壷という何も溶け出さない容器で古酒に熟成できるのは不純物が多いかららしい。
多くの蒸留酒の熟成に樽が使われるのは樽の成分が溶出してくるからというのも理由の一つ。樽での熟成には年数に限度があるからある程度まできたらボトルなどに詰めての熟成に切り替えないと天使の取り分もあるけど樽から溶出したリグニンとかで飲めたものじゃなくなる。
焼酎は普通なら一回の蒸留で十分なんだけど、今回はまだ濃縮が甘い感じがする。醪の度数が低かったのか、蒸留器の問題か、蒸留の仕方が悪かったのか、末留を粘り過ぎたかは定かではないけど、私の舌は“薄い”と言っている。たぶん三〇度ぐらい。
……よし。再蒸留しよう。そしたら七〇度ぐらいにはなるだろう。度数を下げるのは加水して薄めればいいんだからそうしよう。不純物は少なくなってしまうが、熟成は考えて無いというか飲みきってしまうからいいや。
泡盛は長期熟成させて古酒にする事もあるけど焼酎は長期熟成しない。これは酒税の関係でそうなっている面がある。仮に麦焼酎を樽で長期熟成させたとしたら、ウィスキーとの差異がほとんど無くなってしまう。いや、もちろん糖化工程が麦芽と麹で違うとか泥炭香の有無とか色々違いはあるけど、蒸留酒の中で焼酎だけが税率が異なる理由が無くなってしまう。焼酎は長期熟成せずに出荷するからウィスキーやブランデーより低い税率になっている。日本の税制上は未熟成でもウィスキーを名乗ればウィスキーとして取り扱われるから焼酎を低い税率にするための屁理屈みたいなものだけど。
蒸留酒の酒税は一キロリットルあたり度数掛ける一万円が基本になっている。二〇度の物なら一キロリットルで二十万円、四〇度だったら四十万円って感じ。ただ、焼酎は二〇度までは度数に関わらず二十万円で、ウィスキー、ブランデー、スピリッツは三七度までは三十七万円となっている。三七度を越えたら同じ税額になるけど、三七度未満なら焼酎の方が酒税は安い。
これでも外圧がかかっての結果で、昔は焼酎は庶民の酒としてウィスキーなど他の蒸留酒(洋酒)より税率は抑えられていた。というか他が非関税障壁だと洋酒生産国から批判されたぐらい異様に高かった。もっともビールは外圧があまりかからなかったので高止まりしていてアルコール度数あたりの酒税は他のお酒の四倍ぐらい課税されている。
日本の酒税法というか酒類に対する政策は異様さが目立つ。
私には酒類産業を破壊したがっているとしか思えない。
地元の名士つまり大地主が議員の多くを占めていた頃に地税の引き上げができない代わりに酒税を引き上げる事になった。その時に酒造業者の反発を抑える為に新規参入ができないような規則を作り、一般家庭で造られていた濁酒や(アルコールが増える訳ではないのに)梅酒などの混成酒の製造まで酒造業者以外は禁止にしてしまった。この結果、廃業する業者があっても参入する業者が無い業界になり、粗悪品でも売れてしまうという意欲がスポイルされた先細り状態に陥っている。
また、ちゃんとした造りのお酒を高級品・贅沢品として高い税を課し、粗製乱造の酒の税は低く設定している。まぁ売れ出したら高い税を課すんだけどね。
そうすると真っ当な物を造るより紛い物を造った方が儲かるようになり、研究開発の行き先が品質の向上に向けることが難しくなる。十のコストで十の品質であった物を十のコストで十一の品質にするより、五のコストで八の品質にした方が遥かに儲かるのだから営利企業としては後者を選択するのが誤りとは言えない。しかし、悪貨は良貨を駆逐するではないが嘗ては十の品質が標準だったものが八の品質が標準になり今後も品質が下がる方向に向っている。そうなると飲酒人口や飲酒量が減りマーケットも縮小傾向になってしまう。品質を磨く事が困難で新規参入が無く市場が縮小している業界が健全と言えようか。
お酒はね、食糧が十全でなかった頃から造り続けられてきたんだよ。時の政権が食糧不足を理由に酒造禁止を叫んでも造られてきたんだ。食糧が足りないのに食糧を使ってお酒を造るという狂気の沙汰とも言える事をやってきたんだ。
お酒は人類の業であるし喜びでもある。
私はそんなお酒がとても愛おしい。
そして日本の酒類政策がとても哀しい。
ま、農政もたいがいだけど。
私だったらこうするって酒類政策を真面目に考えてみよう。
欠陥があったらユヅやマサさんやノリさんが指摘してくれるだろう。
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釜が冷えたら残滓を濾してクエン酸を含む醪酢を取り出す。
クエン酸は不揮発性の物質なので蒸留しても揮発せず残滓に残るから蒸留後の醪だったものを圧搾してやれば水溶性のクエン酸を豊富に含む液体が得られる。これが醪酢。
クエン酸の他にもアミノ酸やオリゴ糖なども含まれる実に健康的な物で、調味料や清涼飲料にもなる。飲む場合は酸っぱいから適度に薄めないとキツイけど、揮発性の酢酸であるお酢と違い咽ることはない。もっとも絞りたてはアルコールを含んでいるので煮切るとかしてアルコールを飛ばさないと子供にはあげられないんだけどね。
圧力をかけて絞る事を圧搾と言うのだけれど、清酒や油(ごま油、エゴマ油、ヘンプオイルなど)それから今後は醤油とかでもそうだけど、布袋などに入れて搾り出すのは手作業だと結構大変なので圧搾機を使う。
樽の底にスノコ状の板を敷いて圧搾する袋を入れて板で蓋をする。その蓋を梃子の原理を使って押し下げると樽の底から液が迸る。
樽の方は圧搾する種類別にしておかないといけないけど蓋と梃子は共通して使える。何れ梃子ではなくネジ式にしたいと思っているし、木製の樽ではなくもっと頑丈な物にしたいとも思っている。現状だと力を掛け過ぎると樽の底が抜けそうで怖い。
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清酒と米焼酎は曲がりなりにもできたのでここからお酢と味醂を造る事になる。
味醂は仕方が無いがお酢についてはできるだけお酒は使わない方向で頑張る。
具体的には“赤酢”に望みをかける。
赤酢というのは粕酢ともいって、酒粕に残っているアルコールや生存している酵母が生成するアルコールを酢酸発酵して造るお酢の事。酒粕の糖とアミノ酸によるメイラード反応によって色味が赤っぽいので赤酢と呼ばれる。
赤酢は化政時代にミツカンが初めて造ったもので、米酢より安価で寿司酢として使うと味もよく寿司酢といえば赤酢というのが化政時代から終戦直後ぐらいまでのスタンダードだった。酒粕から造られているので糖分が含まれており赤酢と塩で寿司酢が作れるが米酢だと砂糖も加える必要がある。
何で現代ではほとんど見ないかというと、戦後の食糧難時代に起きた黄変米事件が関係している。黄変米というのは要はカビが生えて変色した米の事で、毒性が高い物質が含まれるので飼料にも原料にも使えないので焼却処分すべき物。
当時の状況なら致し方ないかもしれないけど、輸入した米に大量の黄変米が発生してしまった。困った政府は一定の割合までの黄変米を配給に出そうとして大騒動になった事件を黄変米事件という。
そして赤酢で作った酢飯は赤酢の色が移って色が着き、それが黄変米と誤解され……いわば風評被害的な物で赤酢は一気に廃れてしまった。もちろん、何社かで業務用として生産されていて老舗の寿司屋などで使われ続けてはいるけど、赤酢が市販される事はあまりない。黒酢ならCMとかで知られているかもしれないけど赤酢は知る人ぞ知るって感じだから仕方が無いんだけど。
ともあれ、お酒の消費量を少しでも抑えるために米焼酎の酒粕からは醪酢を、清酒の酒粕からは赤酢を造る。醪酢は直ぐに造れるけど赤酢は三ヶ月とか下手すれば年単位の時間がかかるからあれだけど調味料にお酒を取られるよりはマシってもん。
あっ、調味料といえば醤油や味噌も必要か……
麦の出来次第って感もあるけど、播種する分を除いた大豆と麦の一定の部分を使わせてもらおう。たぶん反対意見は無いでしょう。
誰かが麦茶に気付くかもしれないけど黙っとこ。