第12話 一ヶ月が過ぎ
オリノコに常駐して約一ヶ月。そろそろ八十八夜だ。“夏も近付く八十八夜”と茶摘に歌われるころである。
八十八夜とは立春を一日目として八十八日目のことで、グレゴリオ暦だと五月二日(閏年は五月一日)あたり。立春は冬至から数えて八分の一年。八十八夜はその立春から四分の一年弱。つまり今年ももう八分の三が過ぎようとしている。光陰矢の如しだ。
そしてこの八十八夜はこの時季までは遅霜があるという注意喚起の為に作られたらしく、日本独特の節目となっている。太陰暦だと最大半月の振れ幅があるので八十八夜は冬至を起点とした日数で固定されていて太陽暦的な節目となっている。
遅霜のリスクがかなり減ったので畑はそろそろ播種時季になる。
一ヶ月では大した面積の畑は造れていないが、オリノコの男衆も使って開墾した。俺らでやってやれない事ではないが、連作障害回避のため輪作するには六枚ほど畑を造らなければならないから造り方を教える方向で動いている。
現代だと土壌改良剤とかで回避もできるので連作している所も多いけど、ここには土壌改良剤は無い。奈緒美は“それほど神経質にならなくても良い”とは言っているが、念の為にと頼んでナス科→イネ科→アブラナ科→マメ科→芋類→ユリ科と回す案を授かっているので合計で六枚造るつもり。
ナス科はジャガイモ、イネ科はトウモロコシ、アブラナ科は大根、マメ科は大豆、芋類はサツマイモ、ユリ科は玉葱あたりを考えている。今春はジャガイモ、大豆、サツマイモの三枚とし、秋までに同面積の開墾を行う。
粟と稗は最終的には飼料兼救荒作物としてどこか適当な場所に焼畑を造って蒔いとけばって思っている。だから今春は畑の端っこの方で栽培するけど来年以降どうするかはまだ決めていない。
“馬鈴薯はともかく粟や稗は初めてだから心配”とは美結さんの言。
そうだよな。稗、粟、黍などの雑穀は現代だとほとんど栽培されていない。だから奈緒美のように作った経験がある方が珍しい。他の作物を作る方が費用対効果が良く、農業としては割が合わないらしいけど。
粟はまだマシなのだが黍なんて祭事用に作られる程度。雑穀類の栽培面積の九八パーセントは蕎麦で、ただでさえ少ない耕作面積のそのまた二パーセントでしかない僅かな面積を粟、稗、黍、ハトムギ、その他雑穀類で分け合っている。
ハトムギはムギと付いているが麦よりもススキとかに近い植物なので主要穀類(麦)ではなく雑穀類に分類される事もある。
麦類は一番狭い定義だと小麦、六条大麦の皮麦、六条大麦の裸麦の三つで三麦という。三麦に二条大麦(別名ビール麦)を加えた四麦あたりが正真正銘の麦と言える。まぁぶっちゃけると大麦と小麦だわな。
更にライ麦や燕麦などを加えた広義の麦類というものがあるが基本的にはイネ科イチゴツナギ亜科に属する。ハトムギはイネ科キビ亜科にいる例外。
ライ麦は黒パン、燕麦はオートミール(燕麦は英語でOatというのでオートミールは“燕麦の食べ物”の意)などで食糧として一定の地位があるが大麦小麦に比べるとね。
“粟稗は保険の予備で念の為だから出来は気にしないで良い。それより本命に注力して欲しい”と美結さんに言い含めている。
当面の本命はジャガイモとサツマイモ。保険が蕎麦で、粟稗は更に予備。全部に成果を出そうとして虻蜂取らずにならぬように注意しないといけない。
優先順位を付けて選択と集中ができないのが美結さんの欠点らしく、その辺りは注意して欲しいと彼女のご両親から頼まれている。でもね、何にでも手を出してどれも極められない奴にどうしろと?俺が言っても説得力に欠けるんだよね。
◇
即効性のある漁業については黒岩さんの尽力もあって早々にエリ漁が稼働している。筌(仕掛け筒)も順調に準備が進んでいるので良い進捗といえる。
エリは分類すれば定置網の一種なのだが、定置網は基本的には網を固定するのに対してエリは杭を並べて魚の動きを誘導する。
現代だと簀立としてや常設だと琵琶湖に残っているが決して主流とは言えない漁法である。しかし歴史は古く縄文時代の遺跡にエリの跡と思われる杭孔の列があったりする。
杭の間隔や網目が比較的広く小物はすり抜けるので獲れる魚は最低でも十センチメートルはある。思ったよりも獲れていて約束どおり魚が食べられる状態になっている。一昨日なぞ四十センチメートル超の鯉が掛かっていて吃驚した。
去年は辰川でアマゴが釣れていたから、もう少ししたらサツキマスが獲れるかもしれない。実に美味なので期待している。
サツキマスの河川残留型(陸封型とも言うが必ずしも陸に封じ込められている訳ではなく、降海型の子が居残ったり居残りの子が降海したりがあるそうだ)がアマゴなのでアマゴが居ればサツキマスもいる可能性が高い。
サツキマスは皐月の頃に遡上する事からその名がついたとされ、桜の開花時季によく獲れるサクラマスと遡上時季に違いがあるが、生物学的にはサツキマスはサクラマスの亜種の一つに分類される。つまりサツキマスは学問上の種はサクラマスである。ただ、市場や釣り人は区別する方が一般的だ。ちなみにサクラマスの河川残留型はヤマメ。
瀬戸内海沿岸から四国、伊豆半島以西の本州南岸がサツキマス・アマゴで、残りがサクラマス・ヤマメというのが基本的な分布だった筈。ここらが山陽地方という傍証の一つ。
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農具としてエンピ、鋤、鍬。工具が伐倒斧、鋸、鉋、腰鉈、剣鉈、楔と玄翁も要るか。調理用具が采切包丁、牛刀、小出刃包丁、鰻裂包丁……三徳包丁にまとめてもいいかな?
「何書いてるんですか」
必要になるだろう道具の発注書を書いていたら美結さんが話しかけてきた。
「ラブレター」
そう言って発注書を見せる。
「えっ?……エンピ??……鋤、鍬……え?」
「佐智恵にね、俺はお前を必要としてるぞお前の特技で俺を助けてくれって。リスト見て何か足りない刃物とかある?」
「……鎌。大鎌と草刈鎌と稲刈鎌。細工用にナイフや彫刻刀とか……あと刃物じゃないけど鍋、ヤカン、フライパンとフライ返し……それとツルハシ」
「おぉ……結構あるな」
「でも何で刃物なんですか」
「そりゃあ佐智恵の興味の八割が爆発物と刃物だからさ」
「……何か危ない人ですね」
「否定はしない」
「助長してません?何でですか」
「傍から見ると疑問に思うかもしれないけど佐智恵は自己評価が低いんだよ。だから頼って肯定するの。佐智恵は何ていうか才能を特定のパラメータに極振りしたって感じのピーキーなキャラなんだ。だから天才的にできる事もあるけど、できない事は本当に簡単な事でも彼女にはどうやってもできない事がある」
「それがコンプレックスと?」
「うん。それでね“できない事で自己評価を下げるのは馬鹿らしい、長所を伸ばす事で欠点はカバーできる。欠点を埋めて長所を殺したら何の価値も無くなってしまう。お前は誰にも真似できない凄い才能を持ってるんだ”って言い続けてきた。角を矯めて牛を殺すなんて愚行は俺はやらないし誰にもさせない」
「角を……なんですか?」
「故事成語なんだけどやっぱ知名度が低いのか……角を矯めて牛を殺す。矯めるというのは歯の矯正とかの矯って漢字で、曲がったものを真っ直ぐにするといった感じの意味ね。牛の角が曲がってなかったら完璧と思って真っ直ぐにしようと矯正している内に牛が弱って死んでしまうっていうこと。要は欠点を直そうとして全体を駄目にしてしまうって意味の故事成語」
「へぇ……東雲さんは天馬さんの凄い理解者なんですね」
「あいつは天才だよ。偉人伝とかでもそうだけど天才ってそんなもんじゃないの?天才をスポイルしてどうすんだよってね。斜め上な事もよくされるけど悪意は無いんだよ。まぁそれだけに性質が悪いとも言えるけど……ハハハ」
「悪意がないってのは何となく……でも偶にストレートに抉ってきますよね」
「すみません。デリカシーを母親のお腹の中に忘れてきたんです。堪えてやってください。申し訳ありません」
「裏表が無いところとか嫌いじゃないですよ」
本能が聞くなと主張したので聞かなかったけど何を言ったんだろう。
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オリノコの民との関係も悪くは無い。約束どおり川魚が獲れていて有言実行ができているのも大きい。
基本的にはこちらからアプローチする事が多いがハツ村長から相談される事もある。
ただこの間の相談は参った。
近々二人ほど成人予定なのだが入れ墨はしない方が良いかって相談だった。どういう事か訳を聞くと俺らが誰も入れ墨をしていないから倣った方が良いという意見がでたそうだ。
これが俺らに入れ墨しろって話なら別だが、彼らの文化風習の話なので俺らが口出しする話じゃない。
そう思ったので、無理に俺らに合わせる必要は無く俺らはそれで態度を変える事はないと伝えた。他の集落との関係もあるので婿入りする男については止めるのは難しいんじゃないかとも。
でも何か煮え切らない態度だったので詳しく聴くと、何人か亡くなっている事もあって前々から疑問を持っていたそうだ。声が出なくなったり痙攣したりといった症状から破傷風と思われる。たぶん針や墨などの衛生状態に問題があるのだろう。
そして入れ墨をしていないと獲物が獲れないとかのお呪いのようなものがあるらしいのだが、その反例が目の前にいる事で疑問が大きくなったようだ。彼女らは一年に鹿を一、二頭ぐらいしか獲れなかったのだが――走って追いかけてでよく獲れたと思うが――俺らはここ一ヶ月で(文昭が蹴倒したのを別として)猪と鹿をそれぞれ一頭づつ獲っている。
本人が希望しているなら俺らは止めないが迷っているなら止めなさい。後から入れる事はできるのだから。そしてやるなら衛生的な方法を教えるから知らせるように。
そう伝えるとうんうんと満足気に頷いていたから背中を押して欲しかったのと後ろ盾が欲しかったのだろう。
俺らの成人の儀礼を聞かれたが、年齢か結婚のどちらかだと答えておいた。
誰かに扶養されず独立した家計を営めるとか、一人前の大人の定義は色々とあるが極論を言えば周りが大人として扱うなら大人なのだと思う。
平成二十八年の日本の成人は満二十歳だが『婚姻による成年擬制』という物があって未成年でも結婚していたら成人と見做して成人同等の法律行為ができる。要は結婚したら独立した家庭だから契約とかができなきゃ駄目だろって事。成人と見做すだけなので酒煙草ギャンブルや選挙権は二十歳になるまで駄目だけど。
二十歳で成人といっても全ての権利を有するようになるわけではなく参議院議員や都道府県知事の被選挙権(立候補する権利)が満三十歳なので完全な参政権を得るには満三十歳までかかる。
日本は加齢とともに徐々に保護がなくなり権利を有していくが十八歳と二十歳が大きな節目となっている物が多く、現状では二十歳だが十八歳で成人となるかもしれない。
成人予定の子の年齢を聞いたら数え年なのか満年齢なのかは分からないけど十二歳と十三歳だそうだ。中学生あたりで大人にされるのか……昔の元服だと十代前半が普通だったからそんなものか。
それにしても入れ墨の風習ってどうなっていくんだろうか。
さっそく文化触変が起きたのかな?
双方にとって悪いことではないと思おう。思いたい。