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文明の濫觴  作者: 烏木
第3章 幕間
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幕間 第6話 早乙女奈緒美の野望……元年秋

日本酒は寒造り(かんづくり)といって寒い時期に造るイメージがあるけど、元々は暑い盛りを除けば、今年の稲を刈り取るあたりで前年の米で造る新酒(しんしゅ)に始り、初秋の間酒(あいしゅ)、晩秋の寒前酒(かんまえさけ)、冬場の寒酒(かんしゅ)、春先の春酒(はるざけ)と造られてきた。


この内、寒酒が寒造りとして残った訳だが、米を消費する酒造が制限されたときに一番良い造り方を残した名残とも言われている。

日本酒造りを科学的に解明していくと気温が低い方が造り易い事が分かってくる。だから冬場に仕込む寒造りは理に適っているし、冬場でもそれほど気温が下がらない地域で日本酒を造るのはそれだけ難しい。南国の高知で銘酒が造られているので絶対条件ではないが、あれは土佐人の酒への思い入れのなせる業だと思う。

私も土佐人に負けない情熱でもって美浦の酒を造るんだ。


まぁ冬に仕込むといっても冬になってから準備するのではなく、秋分を過ぎた辺りから色々と用意していき、稲刈りなども終わった農閑期に入ったら準備を本格化していき、冬至の頃に酒母を造って仕込み始め、春にできあがるというのが大雑把な流れ。


だから秋分を過ぎたので色々と動き出そうと思ってるのだけど、できあがりの形を設定しないと何を準備すれば良いかが分からなくなる。行き当たりばったりで上手くいく筈がないから最初に今年造る量を決めようと思う。


まず需要と供給の供給から確認していこう。

今年の酒造適合米の収穫量は三百キログラムを超えたので二百五十キログラム以上使っても来年の種籾は確保できる。


精米歩合六割の純米吟醸酒という比較的お米をたくさん使うお酒で理論上は玄米一キログラムから十五度のお酒を一.〇~一.四リットルぐらい造れる。

もっともこれは精米時や仕込み時の歩留まりを含んでいないので実際にはこれよりも少なくなるのが普通。私の実績だと精米歩合六割のときに五合(九百ミリリットル)ぐらいだった。竪型(たてがた)精米機で腕の良い職人が精米すれば歩留まりが良くなってもっと成績は上がったのだろうけど……


ここには竪型精米機も無ければ腕の良い精米職人もいないので精米歩合六割ってのは夢のまた夢。山田錦を精米歩合三割五分まで磨き、きょうかい九号酵母で醸したYK三五なんて到底できない。

山田錦はあるよ。

きょうかい九号酵母も持っている。

だけど精米歩合三割五分は無理。

現状だと精米歩合は八割ぐらいが限度だと思う。江戸時代の水車式精米機で精米歩合は八割程度って准教授が言ってたし、タクさんもそんなもんだって言ってたから精米歩合は()()()()諦める。精米歩合が高いって事はその分白米の量が多くなるので多くのお酒ができると慰めよう。


使える酒米を全部使ったとしたら……精米歩合からすると三石程度造れる計算になる。石は容積の単位で一石=十斗=百升=千合=約百八十リットルで、一石はドラム缶、一斗は約十八リットルで一斗缶や灯油のポリ容器、一升は約一.八リットルで一升瓶や二リットルのペットボトル、一合は百八十ミリリットルで調理用カップあたりと思えば大過ない。農地もそうだが日本酒の酒造の世界も尺貫法がまだまだ現役だったりする。


五百石造れる酒蔵が極小規模と言われ著名な大手なんて数十万石という規模だから三石なんて小規模なんてものじゃない。本当にママゴト規模でしかない。

第一、仕込み桶自体が昔々の酒蔵の小さい木桶でも五石とか十石はあるし大桶なら二十石とか普通にある。現代のホーロータンクだともっと大きいものも……


なので、三石だと桶一つあればお釣りがきてしまう量でしかない。

三石でき上がったとしても、二十歳以上の大人が二十九人いるので全員が舐める程度の晩酌でも四ヶ月で尽きてしまう量でしかない。それにも関わらずここから更に酢と味醂の分を加えると……全く足りていない。


日本酒造りでよく言われる言葉に「一麹(いちこうじ)二酛(にもと)三造り(さんつくり)」という物があるが、麹と酒母(酛)を上手く造るには酒米を使う事が望ましいというかほぼ必須に近い。

対して、(もろみ)を造る「造り」に使う米を掛米(かけまい)と言うがこちらは必ずしも酒米が使われる訳ではない。そして米の使用量の七割前後が掛米だったりする。


だから麹と酒母を酒米にして掛米をその他の米にすれば十石ぐらいにはなるが、ここらが供給から観た限度だろう。食用米も常時不足しているから潤沢に使う訳にはいかないから、飼料用とか赤米とかも数に入れないと無理だろうけど……


誤解しないで欲しいんだけど、飼料用ってのはデンプンが多くて、人間の味覚を刺激する糖(甘味)やアミノ酸(旨味)などの成分が乏しいから人間が食べても美味しくないだけの話で、酒米も炊いたご飯は食用米と比べると美味しくは無い。

バーボンウィスキーはトウモロコシが主原料だけど飼料用のデントコーンが使われている事が多いし、食用のスィートコーンを使うより酒が美味くなると聞いた事がある。


続いて需要なのだが、飲むのは際限が無いので一先ず置いておいて……

酢と味醂用のお酒の必要量を検討しよう。

歩く百科事典のノリさんなら分かるかな?


「味醂と酢の消費量ってどれ位見積もれば良いのかな」

「藪から棒……でも無いか。結構地域差があって多いところと少ないところは倍半分って感じだけど」

「平均的にはどんな感じだっけ」

「岸本さん。悪いんだけどちょっとブックリーダー使わせて……えっとこれじゃない……おっあったあった。一人あたりの年間消費量が……酢が千四百ミリリットルで味醂が八百ミリリットル……あぁこれ家庭内消費だな……外食や加工食品とかを勘案しないと……統計資料あったっけなぁ」

「いやざっくりで良いよざっくりで」

「そうか?……そんじゃぁ……ブツブツ……全員だと酢が十四斗、味醂が六斗で合わせて二石。美浦だけなら半分って感じかな。これ年間消費量な。ただ他の調味料がないからこれだとキツイかも知れん」

「ありがと。酢は醪酢(もろみす)も含めて検討するよ」


やっぱり二石は使うか……お酒が八石とすると……三日で二合か……まだまだ不足だけど今よりはマシ。よし。仕込み量は限度一杯の十石にしよう。

現代とは衛生面が全然違うから腐造がでる可能性があるからワンロットでは造りたくない。三石二つと四石一つって感じ……いや二石を五つにしてリスク分散しよう。


造る量とロットを決めたのでタクさんに道具の発注だ。

仕込み桶は五石の桶と酒母造り用の一石の桶、それと酒母の湯たんぽにする樽をそれぞれ五つ、それから半切り桶というたらいの様な形状の桶を二十個って言ったんだけど材料と期間の関係で半切り桶は十個となった。


現状で速醸酛(そくじょうもと)とかは無理だから生酛(きもと)系にするつもりだけど、生酛系の造り方をするにはこの半切り桶が作業上必要なのだ。それと実はそれ以外にもこの半切り桶が有用なのだ。最大手と言っていい規模で、なおかつ生酛造りをしている酒造メーカーの半切り桶は木製に拘っていて修理や補修をしながら何十年と使い続けている。ステンレス製の半切り桶が一般的にも関わらず頑なに木製を墨守している。

この木製の桶が実は「蔵付き乳酸菌」の棲息場所の有力候補で、そのメーカーが造った酒母にいる乳酸球菌と半切り桶から採取した乳酸球菌のDNAパターンは何十年もの間、ほぼ同一と言って良いぐらい酷似しているというデータがある。

乳酸桿菌は類似性が乏しかったけど……


何が言いたいかと言うと……

桶も育てないといけないから沢山の桶が要る。

タクさんも無い袖は振れないから止むを得ないけど……

来年はもっと作って頂戴ね。醸造量も増える筈だし。


■■■

米、麹、酵母といった原料と桶や櫂といった道具の目処は立ったけど、重要な原料が手付かずのまま残課題として残っている。それは何かというと「水」


日本酒造りにおいて良い水というのは鉄分とマンガン分が少ないというのが最低ラインとしてある。除鉄手段が無い訳では無いし美浦で除鉄が不可能では無いがそれでも取り除く量は少ないに越したことはない。


里川と大川の水の鉄分をサッチに測ってもらったら里川が〇.〇八ppmで大川が〇.一九ppmだった。日本の水道水の基準が〇.三ppm以下だから飲料水や農業用水としては問題ないが日本酒というか麹を使う醸造には鉄分が多すぎる。


日本酒醸造では〇.〇二ppmが上限と言われているが、これは麹が繁殖するときにデフェリフェリクリシン(DFCY)という物質を作るのだが、これが鉄と反応するとフェリクリシン(FCY)という褐色の沈殿物になってしまう。さらにFCYがアミノカルボニル反応という糖とタンパク質の反応を促進してしまい、着色したり香りを損なったりしてしまう。鉄分が多いとDFCYの産出量が増えてしまうあたり面倒この上ない。


酒蔵では現代でも鉄製品は使っていない。ステンレス鋼は鉄がでていかないので使う事もあるが、長く接触する場所だとアルミにしたりホーローにしたりして鉄分の混入を防止している。


DFCYは抗酸化作用から消炎剤としてやメラミン抑制による美肌効果から化粧品として、そして鉄と結合したFCYは優秀な鉄分補給方法として貧血予防薬などの研究開発が進められているぐらい有用な物質ではあるのだが、日本酒醸造では邪魔者でしかない。


アミノカルボニル反応はメイラード反応と言った方が通りが良いかも知れないけど、これはお肉を焼いたりタマネギを炒めると褐色に変わり芳香を放つ反応と同じ物。料理では狙って起す反応だったりするのだが、こちらも日本酒醸造では邪魔者になる。


鉄分以外の条件としては酵母が必要とするミネラルが豊富というのがあるけどこちらは鉄分ほどの重要度はない。現代だと色々な技術があるので水に応じた造り方や調整方法があるにはある。ただそれでも灘(兵庫)、伏見(京都)、西条(広島)といった酒所は良い水がある所でもある。


灘五郷で有名な灘の酒は「宮水」という日本の飲料水の中では比較的硬度の高い水で造られ発酵期間が短めで酸味がかった辛口のお酒ができやすく「男酒」とも言われる。一方伏見は「伏水(ふしみず)」や「さかみず(酒水や栄え水の転訛との説が有力)」とも呼ばれる中硬水で長めの発酵期間を要して酸が少なめで淡麗なお酒が造り易く「女酒」とも言われている。そして三大酒造地の残りの一つ吟醸酒のふる里酒都西条は軟水ということからも分かるように、水の硬度は重要なファクターではあってもそれは個性の範疇で造れるかどうかには余り影響はない。もっともミネラルが多い硬水寄りの水の方が造り易いのは事実で、軟水で日本酒を醸造する技術が確立されたのは明治の頃だったと記憶している。


そんな訳で、鉄分の少ない水を探してそれに含まれるミネラルの組成を測り、その水に応じた醸造をしなければならない。お酒の為の苦労なら幾らでも買ってやる。


そうは言っても私に水脈を見つける能力はないので、ありそうな人に協力を求める事にする。自分ができない事は他の人に手伝ってもらうし、自分ができる事なら他の人を手伝う。ギブアンドテイクは大事。


「ノリさん水のあたりは付いた?」

地図と睨めっこをしているノリさんに聞く。建設は地下水との闘いでもあるので水脈探しはこの中では一番期待できる。


「基本的にはあるかないかが関心事で水質はなぁ……ココとココ……それとここいらなら水はでるだろう。水質は掘ってみんと分からんけど」

地図上で恵森と永原のある点と留山の麓の里川沿いを指差しながら答えてくれる。流石は何でも屋だね。


「試掘はできそう?」

「ボーリングマシンは無いからなぁ……まぁやるだけやってみるけど一箇所で十日は掛かるんじゃないかな。どこ試掘したい」


分かる訳ないじゃん。えっと……

「考えるだけ無駄。直感で決めろ。考えるな感じろ」

うっさい。私がアホの子みたいに言うな。

「じゃぁココとココ」

私の指は里川の取水口の少し下流側の留山の麓と永原を指していた。

理由は無い。

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