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文明の濫觴  作者: 烏木
第12章 北へ
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第16話 本物のRTA

「そういや、どうやって六〇〇キロも作ったんだ?」


六〇〇キログラムのANFOとなると、最低でもアンモニアが一三〇キログラムぐらいは必要だし、アンモニアから硝酸を作ったなら同量いるから合わせて二六〇キログラム以上のアンモニアが必要になる。

どうやってそれだけのアンモニアを入手したのか気になって佐智恵に問う。


「消費エネルギーや収率を無視したらハーバー・ボッシュ法と同様の合成はできる。効率が悪すぎて工業化は無理だけど」


ハーバー・ボッシュ法は工業的に窒素と水素からアンモニアを合成する方法。

他の方法でもアンモニア合成はできるが、合成に要するエネルギーやコストはハーバー・ボッシュ法と比較するのが烏滸(おこ)がましいぐらい多大になるのでハーバー・ボッシュ法の発明以降はほぼ使われなくなった。


空気中の窒素をアンモニアや硝酸などの生物が利用できる形態にする事を窒素固定というのだが、二十一世紀初頭だと地球上で行われる窒素固定の三割から四割ぐらいがこのハーバー・ボッシュ法によるものと考えられている。


分子生物学のセントラルドグマから考えると生物を生物たらしめているのはタンパク質合成であり、タンパク質はアミノ酸の集合体で、アミノ酸には必ず窒素原子があるので、窒素固定量は生物の総量の最大値を決めているとも言える。


現代ではハーバー・ボッシュ法で合成されたアンモニアのほとんどが化学肥料として出荷されているので、現代人の身体を構成しているタンパク質に含まれる窒素の三分の二ぐらいはハーバー・ボッシュ法で合成されたアンモニア由来の窒素という説もあり、仮にそれが正しいのならば化学肥料を全廃すると三分の二の人間が死ぬということでもある。


「となると、オストワルト法も?」

プラチナム(白金)が無いから多大なエネルギーがいるし効率も度外視だけど」


オストワルト法は工業的にアンモニアを酸化して硝酸を合成する方法。

反応の順(アンモニア+酸素→窒素+水 窒素+酸素→一酸化窒素 一酸化窒素+酸素→二酸化窒素 二酸化窒素+水→硝酸)を考えると別に窒素源がアンモニアである必要はないのだが、アンモニアは窒素酸化物を生成する高温高圧にする熱源として使えて必要になるエネルギーが少なくて済むのと反応前と反応後を全部取りまとめると 『アンモニア(NH3)+2酸素(O2) → 硝酸(HNO3)+水(H2O)』になるので工業的にはオストワルト法が使われる事が多い。


このオストワルト法ではアンモニアを酸化して一酸化窒素を得る反応(アンモニア+酸素→窒素+水 窒素+酸素→一酸化窒素)の活性化エネルギーを低減して効率よく一酸化窒素を得るための触媒にプラチナが使われる。

プラチナ触媒がないと、せっかく窒素固定したアンモニアを窒素と水に分解するだけに終わる無駄な反応が結構な割合で起きてしまう。

これが佐智恵が効率度外視と言っている要因と思われる。


ハーバー・ボッシュ法で合成したアンモニアとオストワルト法で合成した硝酸を反応させて硝酸アンモニウムを合成できるのだが、オストワルト法の原料のアンモニアは当然ながらハーバー・ボッシュ法で合成したアンモニア。


「アンモニアはどれ位使った?」

「……全部で五〇〇キログラムは使った」


使用したアンモニアは五〇〇キログラムぐらいで、硝安のアンモニアが一三〇キログラムぐらいだからオストワルト法には三七〇キログラムのアンモニアを使った計算になる。

酸化してアンモニア一分子を硝酸一分子にするのだから理想状態なら一三〇キログラムのアンモニアを硝酸にすれば良い事になるが、それが三七〇キログラムということは三五パーセントぐらいしか硝酸にできなかったという事か……確かに収率が悪い。


それに、ハーバー・ボッシュ法もオストワルト法も高温高圧だから合成が促進されるので反応部分を高温高圧にするためのエネルギーは考えたくないな。

エネルギー消費と効率を度外視したら合成できるとはいえ、どれだけの資源その他リソースを消費したのやら……


ん? そういやハーバー・ボッシュ法で使う水素はどうなっている?

現代の工業的な水素ガスの一般的な製法は、化石燃料(炭素(石炭・コークス)炭化水素(石油・天然ガス))と水蒸気を反応させて水素と一酸化炭素が混合したガスである水性ガス(シンガス・合成ガスとも)を合成する水蒸気改質(水性ガス反応とも)で得た水性ガスから一酸化炭素を除去して得ている。


ちなみに水性ガスを触媒で炭化水素を合成するフィッシャー()トロプシュ()法を用いればガソリンや軽油を作ることは可能で、石炭を水蒸気改質で水性ガスにしてそれをFT法でガソリンにするのを石炭液化と言ったりするが、石油価格が上がると注目され、下がると忘れ去られる技術だったりする。


これに似た物に二酸化炭素と水素を反応させて水性ガスを作るのを温暖化ガス削減の一助にしようという研究(技術的には可能だがコストと規模と成果物のバランスが取れていない)もある。


水蒸気改質だけなら現状であっても何とでもなるが、ハーバー・ボッシュ法での触媒毒になる一酸化炭素の除去は……


「水素ってどうやった?」

「AWE」

「そうか」


AWE(Alkaline Water Electrolysis)はアルカリ性水溶液の電気分解の略で、水酸化ナトリウム水溶液のようなアルカリ性の水溶液が多いが、電気分解すると水素と酸素に分解される水溶液を電気分解して水素や酸素を得る方法の事。

ここで得た酸素ガスはオストワルト法で使う酸素か。


水の電気分解で得た水素ガスや酸素ガスは不純物が非常に少ないという特徴がある。

実験室レベルなら水道水から不純物を除去した超純水を使えばよいし、工業的に水の電気分解で水素を得るとしても電解槽にイオン交換膜などを配してやれば検出できるほどの不純物はほぼ出ない。おそらくイオン交換膜を配した方法なら海水であってもかなり純度の高い水素を得られると思う。


しかし、電気分解は電力を要するので工業的な量になると化石燃料からの製法よりコストがかかるという欠点がある。


そうはいっても現代では太陽光発電や風力発電などの再生可能エネルギーで発電した電気で工業的に水を電気分解して水素ガスを得ている例はある。

この製法なら(設備構築時は別として)製造過程の全てで二酸化炭素が発生しないので『グリーン水素』と呼ばれている。


ちなみに化石燃料から水素を生成して二酸化炭素を排出する製法で作られた水素ガスは『グレー水素』と呼ばれ、基本製法はグレー水素と同じでも二酸化炭素を固定化して環境に排出しない処理を施した製法の水素ガスは『ブルー水素』と呼ばれる。


このように製法によって呼び名を分けているのはグリーン水素やブルー水素がグレー水素に比べてコスト高である証左ともいえる。


また、他所で発電された電気で水を電気分解するのではなく、光を吸収して水を電気分解する光電池と電解槽を兼ね備えたような物質を作って水と光で直接水素を得る研究はされている。

いわゆる光触媒と呼ばれるもので、そういう物質はあるのだが、二十一世紀初頭だと非常に効率が悪い。


これは二十一世紀初頭現在で作成できる光触媒が吸収できる光は限られた帯域の紫外線だけだからで、それよりも広域の光を吸収して発電できる光電池で発電してその電気で水を電気分解した方が圧倒的に効率が良い。


もっと広域の光を吸収して水の電気分解ができる光触媒が開発されたらエネルギー革命が起きる気がするが、現代の段階の光触媒は透明で親水性がとても高いという特徴があるので、自動車のドアミラーや道路のカーブミラーなどに施して雨水が水滴にならずに薄膜になるので視認性を向上させるとか水がある状態で日光があたると酸素を放出するので汚れが分解するのでメンテナンスの手間が減るといった使い方もされている。

他にも家屋の外装に施して外観を保つといった用途もあるにはある。


「ちなみに窒素ガスはPSA擬きである程度精製した」


PSA(Pressure Swing Adsorption)は圧力スイング吸着の略で、高圧時に不要な分子の吸着率が高く低圧時には吸着率が低くなる(吸着していたら放出する)吸着剤(吸着する物質に合わせて造った活性炭の一種のCMS【Carbon Molecular Sieving:分子(ふるい)炭】が多い)を使って不要物を除去して純度を上げる製法の事。


CMSを入れた吸着塔を高圧にして不要物を吸着させて別の吸着塔に送り、不要物を吸着させた吸着塔を低圧にしてCMSから不要物を放出させたものは捨てる。

これを二つの吸着塔の間を行き来させていけば不要物が取り除かれていく。


CMSの種類によって特定の物質の分離ができるので、酸素を吸着するCMSをいれた吸着塔に除湿した空気を入れれば高純度の窒素ガスを得られる。

現代日本だとPSA方式の窒素ガスの純度は九九.九九パーセント以上までいける。


「よくCMSを作れたな」

「数撃ちゃ当たる。それと別に純度九九パーセントなんて求めてない。水素を過剰に入れれば何とかなるけど多少でも酸素除去はした方が良い」


数撃ちゃ当たるって……そんな簡単にできたら誰も苦労しないって。

あと、空気の組成は窒素は約七八パーセント、酸素が約二一パーセントでその他は合わせても約一パーセントなので、水素を過剰に入れて酸素と化合させて水にすれば何とかなる……のか?


「さすがに液体窒素で分離は諦めた」

「当たり前体操」


空気を圧縮すると熱を持つが、この熱を除熱してから開放すると断熱膨張で超低温になり液化する。

液化した空気から沸点の違いで液体窒素を得るということは現代日本でも普通に行われていて、液体窒素は工業利用や研究利用などで市販もされているので一応は個人でも入手は不可能ではない。


実際、秋葉原のマニアックなPC専門店がCPUやGPUを液体窒素で冷やしながら限界まで演算させる新製品のベンチマークテストのデモンストレーションをやっていたこともあったように、個人で入手できうる液体窒素なのだが取り扱いはかなり難しかったりする。


窒素の沸点は氷点下一九六度という極低温なので革手袋(軍手は絶対ダメ)などの防寒処置をして取り扱わないと凍傷になる可能性がある事、どれだけ断熱していても蒸発は防げないので密閉すると容器が破裂する可能性が高い事、空気と接触すると沸点が氷点下一八三度と窒素より沸点が高い酸素が表面で結露して液体酸素(液体酸素は反応性が非常に高く有機物などと接触すると爆発する事がある)が混じってしまう事(液体酸素は青色を帯びているので青くなった液体窒素の使用は危険)、蒸発した窒素が酸素濃度を下げるので酸欠を起こす可能性がある事など、結構危険な物質だったりするので興味本位で手を出していい代物ではない。


「あと、義教が気になるだろうから言っておく。化学肥料としての分はちゃんと残してある」

「なっ! 何だって!」

「アンモニア換算で五〇〇キログラムはある」

「嘘だろ……」


窒素肥料は肥料の三要素の(窒素)(リン酸)(カリウム)の一つである重要な肥料の一つ。


単位面積あたりの使用量はそれほど大量なわけではないが、圃場面積を考えると結構な量になる。

大半が復旧中ではあるが、美浦には水田が二〇町歩(二〇〇反)程度はあるし、畑も合わせると三〇町歩ぐらいになった筈だから一反あたり一.六キロぐらいか。

化学肥料だけでなく魚粉とかの有機肥料もあるから良い線をいっているのか?


アンモニア換算で五〇〇キログラムはあるという事は、硝安にしたものと合わせると一トンものアンモニアを合成したことになるのだが、アンモニアの分子量が一七でアンモニア分子一つに含まれる水素原子は三つだからアンモニアの重量の約三〇パーセントが水素の重量だから一トンのアンモニアには約三〇〇キログラムの水素原子がある。

全く無駄が無い理想状態でも約三〇〇キログラムの水素が必要だから、おそらくは水素を四〇〇から五〇〇キログラムぐらい、あるいはもっと作ったんじゃないかな?


確かAWEで水素一キログラムを得るには六〇キロワットアワー前後の電力が必要だった覚えがあるから、仮に五〇〇キログラムの水素だと三万キロワットアワーの電力をつかったことになる。

現代日本の一家四人の一箇月の電力使用量がおおよそ三〇〇から四〇〇キロワットアワーだから、おおよそ九〇軒分の月間使用量に匹敵する。


何それ怖い。


一応、発電はしていたさ。

ただ、電源の質が悪いというのもあって使用先が限られていたため、それ程の発電量は必要なかった。


「……なぁ、そんな電力どうやって」

「芹沢さんの総力を挙げたバックアップがあった。あと(たっくん)も頑張った」


何でも降灰後に家畜用に急造した水道水の配管を造り直して一〇〇キロワット級のマイクロ水力発電機を設置したそうだ。

ジェネレータ(発電機)で発電した交流をコンバータ(整流器)で直流にしてレギュレータ(電圧調整器)で整えて鉛蓄電池に充電という方法で安定的な直流電源を確保したとか。


ジェネレータ・コンバータ・レギュレータの設計を将司がして、製作は匠と佐智恵が受け持ったそうだ。

ハーバー・ボッシュ法やオストワルト法の器具もあるが、そちらの設計は佐智恵(後進のために義佐を助手にしたそうだ)で製作は匠と義弘という分担だったそうだ。

うん。匠は頑張った。


復興のためには農業生産力の立て直しが必要で、NPK(肥料の三要素)の確保は強力な支援になる。

そこで効率やら何やらを全部ぶん投げて取り掛かったと……


「それと銅資源はほぼ底をついたからこれ以上の規模拡大は難しい」


電気部品は結構な銅を使う。

発電機や電気モーターなどのコイルを多用している装置は特にそうなる。


銅鉱石が無いわけではない。

ホムハル集落群の中に孔雀石(マラカイト)藍銅鉱(アズライト)という銅の二次鉱物は存在している。

孔雀石や藍銅鉱は、銅の含有率が高いため最重要の銅鉱石とされる黄銅鉱(銅と鉄と硫黄の化合物)が酸化されることで生成される事が多いので銅鉱床の露頭部によくある。

だから掘り進めていけば黄銅鉱の鉱床が高確率で存在すると思われる。


ただ、いくら黄銅鉱は銅の含有率が高いとはいっても精錬できる銅は黄銅鉱の重量の一パーセント程度なので、一トンの黄銅鉱から一〇キログラム程度しか銅は採れない。

それと黄銅鉱の精錬は焙焼して硫化銅(Ⅰ)(銅と硫黄の化合物)を得て硫化銅(Ⅰ)を酸化して硫黄を取り除く事で銅を得ているのだが、硫化銅を酸化して硫黄を取り除くで分かると思うが、大気汚染物質である硫酸ガスや亜硫酸ガス(SOx(硫黄酸化物))が山ほど出る。


そういうこともあって、美浦の銅資源は銅鉱石を精錬するのではなくSCCが持っていた銅弾(バーンズ弾)を鋳潰した物がほとんどを占めている……もう枯渇するって言っているから占めていたになるのか?


「……切れる札は全部切ったって感じか」

「そう。ランニングも燃料確保の問題もあるから何年もは続けられない」


……全く知らなかった。

こりゃ偉そうにリソースの把握とか言えないな。


“石灰岩があった筈”という白石さんの言によって発破薬を作る事業がスタートしたそうだ。

石灰も復興のために重要な資源の一つなので(あくまで現状ではの話で現代だと小規模以下だが)大規模採掘用にという事らしい。


そして仮に石灰岩がなくてもANFOは化学肥料にもなるから無駄にはならない。

穿孔ドリルだって玄能だってあって無駄になる物じゃないし。


そうか、だから美浦から石灰岩関連の催促があったのか。

そして準備万端で待ち構えていたという事か。


『周到な準備というのはこういう物のことを言うのだ』を見せつけられる事になる四人には劇薬かもしれない。

直ぐに乗り越えられる積りは毛ほども無いけど、これを糧に乗り越えていけ……難しいかな?



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伯父が畜産(子牛を出荷)をしていて、デュワー瓶が常に置いてありました。 受精用の精子を保存するためのものでしたが、蓋を開けて覗いてみたら青色だったので、酸素が溜まってたのでしょう。
ポンポンと交わされる専門用語混じりの問答に、第2世代以降がどういう顔で聞いていたかが気になるところですが、全く分からない事はないだろうなっていうのが1番怖い。現代のそこら辺の高校生より理解できていると…
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