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文明の濫觴  作者: 烏木
第12章 北へ
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第9話 鞣し

ユラブチ集落群の懸念は食糧事情以外にもあった。


「事前に聞いていた人数と合わない。数が数えられるかが微妙だけどそれでも少なかった」

「それで、聞いたら子供やお年寄りが何人か亡くなっていた。朝起きて気付いたら冷たくなっていたとか」


冬季には雪が降る事はあったにせよ基本的には温暖だったのだが昨冬は厳寒だった。

本来的にはユラブチ集落群より温暖な筈の滝野でも避難民がびっくりするぐらい寒かったのだ。

避難して急拵えの家屋で碌な防寒装備も無かったら凍死したとしても不思議じゃない。


ホムハル集落群では美浦の影響と物資があるので暖房装置はもちろん、布団や毛布などの保温性の高い寝具もあるので酔っ払って外で寐たとかでない限りそうそう凍死などはない。

もっとも、日本で布団ができたのは綿花の栽培が行われた戦国時代ごろで、庶民に布団が普及したのは明治時代以降のここ百数十年でしかないからある意味では布団はオーパーツではある。

布団が使われる以前は(むしろ)(わら)や衣服などが寝具だったようで、実際のところ俺らが関わる前は(現代よりも温暖な気候という事情もあるのか)ホムハル集落群にろくな寝具は無かったからユラブチ集落群も同様だったと思われるし、それなら昨冬はかなり厳しかった筈だ。


ただねぇ……実は凍死は現代日本でも遠い世界の話ではない。

現代日本で凍死と言われると、登山中に遭難とか厳冬期に酔っ払って外で寝てしまったとかホームレスとかの話で、凍死などそうそう無いと思われるかもしれないが、実は年間の凍死者数は熱中症で亡くなる人の一.五倍ぐらいある。

それに屋外で凍死する人より屋内で凍死する人の方が圧倒的に多く、現代日本での凍死者の七割ぐらいが屋内だそうだ。


凍死者の八割以上は六五歳以上の高齢者でたいていは老人性低体温症であるが、年齢に関係なく摂氏一〇度を下回っていたら保温していないと凍死する可能性はあるし、酩酊していたら実際の体温より高く体感してしまうため摂氏二〇度ぐらいでも可能性はあるそうだ。

あくまで可能性というか凍死者の状況からそれぐらいの気温・室温で発生した例があるという話で、多くは摂氏五度以下、つまり冷蔵庫以下の気温・室温で起きてはいる。


寝袋や布団などで十分な保温と防風ができていれば枕元の水が凍っていたなど室温が氷点下でも何とかなる事はある。

そうは言っても氷点下だと耳や鼻などが凍傷(とうしょう)凍瘡(とうそう・しもやけ)を患うおそれが高い。

やっぱり暖房して室温が摂氏一〇度以上になるようにしておいた方がよいのは間違いない。


「それで如何したい?」

「塩漬けしてある毛皮を(なめ)して配れないかと」


多少はマシになったが、まだまだリソースの把握が甘すぎる。


確かに屠殺した家畜や狩猟した獣の皮の多くは毛がついたままの原皮の状態で塩漬けにして溜め込んではいる。

俺の記憶が正しければ三桁はあった筈。

もったいない精神で溜め込んでいるだけではあるが、乾燥させるか塩漬けにしないと直ぐに腐るので塩漬けにしている。


「……鞣すのはなぁ……鞣剤が足りないから塩漬けにしてるんだ。義秀(ひで)佐智恵(さっちゃん)説得してタンニンやミョウバンの緊急増産と確保ができるか?」

「待って! 待って! 無理! 無理! 無理! それにタンニンはともかく、ミョウバンになるとさっちゃんだけじゃなく色んな人を敵に回す」


原皮を鞣して革や毛皮にするには鞣剤が要るのだが、その鞣剤がそんなにねぇんだわ。


現代日本というか現代では産業ではなく個人レベルだとミョウバンで鞣すミョウバン鞣し(アルミニウム鞣し)もあるが、産業レベルだと一部の例外を除けば植物のタンニンで鞣すタンニン鞣しか塩基性硫酸クロムで鞣すクロム鞣しが使われている。


タンニン鞣しは古代エジプトの壁画にタンニン鞣しをしている職人と思われる絵が描かれているように太古の昔から使われていたが、トラディショナルな手法(ピット鞣し)だと下手すると鞣すのに一箇月とかの時間がかかるので、短時間で鞣せる方法を模索してできたのがクロム鞣しとも言える。


ただ、クロム鞣しは取り扱う薬剤が毒劇物だったりするし、排水処理をちゃんとしないと公害が起きるので、比較的短時間で鞣せて個人でも簡単に入手や使用ができるミョウバンを使うミョウバン鞣しが個人レベルだとよく使われる印象がある。


現代では比較的短時間で鞣せるタンニン鞣しの技法(ドラム鞣し)もあるが、相応の設備が必要なのでさすがに個人レベルだと難しい。


美浦ではタンニン鞣しとミョウバン鞣し、それと菜種油で鞣す油鞣しの三種類の鞣し方があるが、美浦を含むホムハル集落群で一般的な鞣し方は、実は現代ではマイナーな菜種油を使った油鞣し。


菜種油は油菜(アブラナ)の種子から搾油するのだが、菜種油は心臓障害を引き起こすエルカ酸を代表とした一価不飽和脂肪酸と甲状腺障害への関与が否定できないグルコシノレートの含有率が高いため食用には向いていないとも言われていて、現代では品種改良されてエルカ酸とグルコシノレートの含有率がとても低いダブルロー品種(代表例はキャノーラ種)と呼ばれる油菜から搾油した菜種油が食用として販売されている。


奈緒美の方舟には食用油にできるダブルロー品種の油菜の種はあったのだが、ここには品種改良前のアブラナ科の植物がそこら中に生えていたので交雑が怖くて食用にはしていない。


精製前の綿実油とは違って菜種油はダブルロー品種でなくても懸念するほど毒性は高くないという説もあるが「(短命なころの)昔から食用にしていたが大丈夫だった」と言われても……といった感じで美浦では食用には使っていない。


一方で油菜は田畑の雑草抑制と緑肥に使えるし、蜜蜂の蜜源にもなるので結構栽培しているので、搾油した菜種油は灯火や燃料などに使っているが、灯火や燃料になる油脂は菜種油以外にもあるし、菜種油もそれなりの量が採れるので多少なら鞣しに使うぐらいは何とかなる。


現代ではメジャーな鞣し法のタンニンはねぇ……タンニンって多様な化合物を総称していてタンニンという物質があるわけではないから、一口にタンニンと言っても用途によって向き不向きがあって、鞣しに使えるタンニンって日本にはあんまり無くて現代日本でもほぼ輸入品を使っている。


柿渋のタンニンは革を染める染料としては使えたけど鞣しには全然使えなかった。

柿渋で鞣せるのなら昔から柿渋で鞣していた筈だけど、そんな記録は無いから無理だというのは分かっていたが、一縷の望みでやってみたけどやっぱり駄目だった。

今のところ、ヌルデの木に寄生するヌルデシロアブラムシが作った虫こぶである五倍子から抽出したタンニンが優秀なのだが、問題はそれほど量が採れない事。


だから、ミョウバンの原料になり得る明礬石が採掘できるようになった時は滅茶苦茶嬉しかった。

もっとも、ミョウバンはアルミ媒染とか食品添加物とかの鞣剤以外の用途がたくさんあるので、鞣剤にできる量は必要最小限でしかない。

だから義秀がいうように、大量の毛皮を鞣すためにミョウバンを分捕ると色々な人を敵に回すのは間違いない。

第一、それができるぐらいなら塩漬けにしていない。


「ノリちゃん先生、ミョウバンやタンニンが無かった頃ってどうやって鞣していたの?」

「諸説あるけど、有名どころだと脳漿(のうしょう)鞣しとか(くち)鞣しとかかな?」

樟脳(しょうのう)?」

「防虫剤の樟脳じゃない。ノ・ウ・ショ・ウ。一応、学術的な定義だと脳室を満たしている液体だな」

「……嫌な予感がするけど、どんな方法?」

「それはな……」


脳漿鞣しは、学術的な意味の脳漿ではなく、動物の脳みそを一年ぐらい熟成させた――実際は腐って液体になるまで放っておくって感じかな?――物を溶かした湯に漬けたり直接塗布したりすることで鞣す方法。


脳はかなり脂質を含んでいて水分を除いた残りの六割ぐらいは脂質だそうだから、その脂質を使った油鞣しの一種とも考えられる。

なぜ脳は脂質が多いかというと、神経細胞の大きさや形状から他の細胞と比べて重量あたりの細胞膜――細胞膜の基本構造はリン脂質が二重になった層である脂質二重層――の割合が高いのと脂質で構成される神経伝達物質の存在――細胞膜の脂質二重層を透過するには脂質がある方が有利なので、DHA(ドコサヘキサエン酸)などの脂肪酸も多い――が関係している。


脳漿鞣し自体はかなり古くからある鞣し技法の一つで、鞣剤に向くタンニンがそうそう採れなかった日本では結構使われていた手法だったそうで、古くは正倉院に脳漿鞣ししたと思われる革製品が収蔵されているとか、一九六〇年代ぐらいまでのかなり最近――学術的な最近って明治期あたり(一五〇年以上前)以降を指すことが多い――まで使われていたとか。


匠もやり方は知っている筈だが、あれだけ原皮が塩漬けされていても脳漿鞣しに手を出さないのは色々と理由がある。


日本でもタンニン鞣しとクロム鞣しが大々的にできるようになったら脳漿鞣しは一気に廃れた。

魚油や菜種油などの油を使った油鞣しも日本で古くから行われていたが、油鞣しはタンニン鞣しやクロム鞣しが全盛になってもニッチではあるが産業として残ってはいるが、産業として残っている脳漿鞣しは聞いた事が無い。


産業として残らないのにはそれなりの理由があって、忌避感も当然あるだろうが、脳を喰らう微生物の繁殖などの衛生面の問題や腐敗した脳みそ特有の臭いが製品の革にまで染みついて抜けないなどの問題があるのだ。


もう一つの口鞣しは原皮を噛んで柔軟性を出すとともに唾液を一種の鞣剤にした方法で、こちらも最古級の鞣し技法の一つとされている。

ユーラシア大陸最東部から北米大陸の極寒地域に住んでいた人々はアザラシの皮を口鞣ししてシーカヤックを造ったりしていたそうだ。


「うーん……他にできそうな方法は?」

「柔軟性が要らないなら乾燥させてから燻製にする。後は……鞣すのに近い物だとすると叩いたり(こす)ったりとかかな? 油を塗ってからやった方が多少は効果が高いだろうけど」

「ええっと……燻製はともかく、叩いて擦ってって思いっ切り時間がかかる?」

「そりゃ手間暇は思いっ切りかかるし品質もお察しって奴さ。他の鞣し技法より手間暇かからず品質が良いならこのやり方が鞣し技法になっている」

「確かに、確かに、タカアシガニ」


うーん……焦れってぇ。


この話においては、所詮は他人事と割り切れるなら放っておけばよいし、例え乗り掛かった舟だとしても漁具を贈る事で義理は果たしたと考えてもいい。

それでも知ってしまったからにはやれる事はやらないと寝覚めが悪いというのなら、鞣して毛皮にしてからでなく原皮のまま贈ればいいじゃん。


鞣剤の確保と鞣す時間で冬に間に合わない方が問題だろう。

彼らだって鹿や猪などを狩っていたのだろうから原皮を渡せば自分達で何とでもするよ。


「拙速は巧遅に如かず」と科挙の虎の巻である「文章軌範」で述べられているではないか。

期限があるのだから完璧を目指すのではなく及第を目指せ。


それに、そんな事にかまけていて肝心の鴨庄開拓が遅れたら目も当てられない。

たも網と(うけ)の作製はアウトソーシングできるんだから他所にやってもらえばいい。

ホムハル集落群に頼めば数は揃えられるし、向こうだって多少なりとも美浦への借りを返す機会としてやってくれるって。

それと原皮の戻しも美浦でしてもらえばいい。


君達はそれらが出来上がるまでは鴨庄開拓に邁進すべきだろ?


やる事は幾らでもある。

鴨庄への連絡路整備及び部材確保の伐採

鴨庄の整地及び農地造成

建材確保のための伐採

長谷山への経路確保

長谷山の南斜面の整備

戸平(とべら)峠付近の石灰岩探索

戸平峠への経路確保

鴨狩りのための拠点確保

などが待っている。


他にも戸平峠で石灰岩が見つかればの話だが、石灰窯の設計、部材確保、建築、そして運用のための燃料確保という難題もある。


まあ、目的のための手段を講じていたらその手段でできる他の事に(かま)けて元々の目的が達成できなかったという失敗は俺にもある。

致命傷に至る前には釘を刺すが、今はまだ我慢だな。


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― 新着の感想 ―
目の前の事を何とかしたいと、脇道に逸れちゃってますね。あるあるですが。 タスク管理は大切ですね
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