第7話 漁法
ユラブチ集落群からの避難民の男衆から三名を選んでユラブチ集落群の疎開先に状況報告に向かわせた。
ユラブチ集落群も文化的にはホムハル集落群と似ていて、他の集落との渉外は男性の仕事だったので男衆を指名した。
三名なのは船で行くから。
色々と聴き取った情報から考えると彼らがアーエと呼ぶ集落は現代日本の元伊勢外宮豊受大神社の付近ではないかと思われる。
鴨庄からだと三〇キロメートルぐらいありそうだから片道で一日かかるだろう。
手漕ぎ船だと訓練を重ねた多人数で漕いだとしたら短時間なら八~一〇ノット(時速約一四~二〇キロメートル)ぐらいは出せるだろうが、長時間の巡航速度となると静水面だと三ノット(時速五.六キロメートル)ぐらいと徒歩程度の速度しか出ないから、徒歩移動と同じく一日三〇キロメートルを目安にしておいた方が良い。
陸路を進むとどうなるか分からないので船を使うしかないのだが、元々が救命ボートだから乗船定員が少ない。
それと操船担当として派遣隊の男衆四人も同道させないといけないから三名が限度だった。
派遣隊の男衆を引き抜く形になるので、その間は鴨庄開拓が休止してしまうが、休止してもよい頃合いを見繕っている。
休止しても問題ない時期というは梅雨の時期の事。
現状で雨天で土木工事なんて危な過ぎるから、雨が降ったらお休みというのを計画に織り込んでいくと梅雨の時期の工事予定はスカスカにしておかないと危ない。
去年の夏(?)ような猛烈な豪雨もあり得るので鴨庄開拓では水害・土砂災害への備えの優先順位は非常に高く、仮屋を建てたら防災工事という段取りになる。
防災工事は梅雨の前にはしておきたいが、逆に言えば防災工事に目途が立ってさえいれば梅雨の時期は休工を挟んでも問題ない。
そして土砂災害の備えは、降灰後はホムハル集落群で散々やってきた事だから義秀からすればお手の物と言える。
まあ、色々と苦労はしたみたいだが、その経験は財産だからな。
状況報告の手土産は煎り玄米にしたいと司くんから提案があったから滝野にいる女衆に煎り玄米を作ってもらっていた。
煎り玄米はホムハル集落群への米の布教のデモンストレーションにも使ったが、煎り玄米はそのままでも食べられるし、乾燥種子という栄養の塊から更に水分を飛ばしていて重量当たりの栄養価は抜群で、半年ぐらいは日持ちするので打って付けだったんだ。
疎開先がどういう状況かは分からないから手土産としてはベストチョイスじゃないかな?
個人的には煎り玄米はそのまま食べたりお茶漬けとかのアクセントにするのが良いと思っている。
煎り玄米を炊いた物も食べられはするけど、白米を炊いた物とは雲泥の差がある。
そのままチマチマ食べるのが面倒って人もいると思うけど、そういう人は水や湯でふやかせて掻っ込めばいい。
もっとも、火も水も使わずそのままでも食べられて栄養価もあって日持ちするので、美浦では一合から三合ぐらいの煎り玄米を非常食として持ち歩かせていたりする。
その非常食は三箇月毎に更新するので三箇月に一度『煎り玄米デー』という、新たな煎り玄米を作って入れ替えると同時に消費しなかった煎り玄米(ほとんど消費しないが、おやつ代わりに食う奴もいる)を皆で食べるという日がある。
ホムハル集落群ではこれを真似ているようだけど。
◇
避難民の現状報告及びユラブチ集落群の現状把握から帰ってきたうちの男衆の報告によれば、アーエはまだマシだが他は端的に言えばジリ貧で予断を許さない状況のようだ。
『漁獲はある程度できてはいるが足りていないのは否めない』というのがうちの男衆の統一見解で、手土産の煎り玄米は大変好評だったそうだが手土産程度の量だと焼け石に水との事。
仮称由良湾(?)という狭い海域ではなく、現代の由良川河口付近までいけば、表現は難しいが完全に日本海だと思うので、そこまで行って漁獲するなら現在の人口を考えれば食べていく事はできる可能性は高いとは思うが如何せん遠い。
最上流のアーエからだと道程としては二〇キロメートル程度はあるので、手漕ぎ船や徒歩だと順境でも片道五時間ぐらいは掛かると思う。
一応アーエには丸木舟があったそうだから船で行き来は不可能ではないが、往復だけで十時間だと漁獲する時間がないから海辺に仮拠点でも設けないと難しいな。
最下流の疎開先からなら引き潮に合わせて沖に出て満ち潮に合わせて帰ってくるなら潮汐の都合が良い日には日帰りでの漁獲も可能かもしれないが、それをやるぐらいなら海辺のどこかに住居を定めた方が楽だろう。
丸木舟を使って海で漁獲できるかについてだが、ミクロネシアなどでは普通に丸木舟で漁獲していた覚えがあるし、日本でも若狭湾の東端あたりにある鳥浜貝塚からは縄文時代前期の丸木舟が出土していて鰤や鮪や果ては鯨の骨も出土しているので、沖に棲む大きな海棲生物を丸木舟で漁獲できていたと思われる。
確か鳥浜貝塚からは漁網や石錘(石製の重り)が出土していたから網漁もしていたと思われる。
個人的には鰤や鮪はともかくとして、鯨類は漁で獲ったのではなくストランディング(海洋生物が座礁したり岸に打ち上げられて生息域に戻れなくなること)した個体の可能性があるとは思う。
大量に座礁するマスストランディングぐらいじゃないと中々ニュースにはならないけど、実は鯨類のストランディングは日本だけで年間四〇〇件ぐらい発生しているそうだ。
北海道が一〇〇件ぐらいと圧倒的に多いらしいが、北海道を除いても年間三〇〇件ぐらいあるわけで、何千年もの期間(鳥浜貝塚の出土品の年代は約一二,〇〇〇年前から約五,五〇〇年前なので、六,五〇〇年ぐらいの期間がある)があれば付近の海岸に鯨類のストランディングがあったとしても不思議ではない。
仮にユラブチ集落群が若狭湾で丸木舟を使って漁獲できたとしても、拠点は海岸付近にしておいた方が良いと思う。
アーエがまだマシなのは遠浅な地勢だったので石干見漁法が使えた事が大きいと思う。
石干見漁法というのは、簡単に言えば干潮時の海水面あたりに石などを積み上げた囲い(石干見)を築いて、干潮時に囲いに取り残された魚介類を漁獲する漁法の事。
石干見を閉ざして人工の潮溜まりにして漁獲する方法もあるが、完全に閉ざすのではなく一部を開けておいたら、そこに引き潮が集中するので網を張っておけば労せずして一網打尽にできるのでそうやっているところも多い。
石干見を一度築いてしまえば動力も人手も要さずに漁獲できる効率的な漁法である石干見漁法は人類最古の漁法という学者もいるぐらい古くから存在する。
ただし、遠浅でないと使いづらい漁法なので溺れ谷になるアーエ以外の場所では上手くいっていないようだ。
アーエでは石干見漁法しか知らないようで、他では漁獲量は高が知れていた。
「ノーちゃん先生、簾立とか川エリみたいなのなら何とかなるんじゃないかと思うんだけどどう?」
「ふむ……まぁ悪くない案だとは思うぞ」
悪くはないが結構大変だから別案を考えた方が良いのではないかと思う。
簾立は美浦の黒浜の沖で春から秋の間にやっているエリ漁の事で、川エリはホムハル集落群で近傍の川に仕掛けているエリを使った漁の事で、実はどっちもエリを使った小型定置網漁。
エリは日本には三世紀頃に稲作と同時期に大陸から伝わったという説があるが、それ以前にもより原始的で小規模なエリ漁的な漁法はあったらしい。
現代日本では琵琶湖のエリ漁が代表例だが、東京湾をはじめ各地で行われているし、一部は観光用にもなっている。
エリは魚が入ることから漢字だと「魚偏」に「入」で【魞】と書くように、魚は障害物があるとそれに沿って泳ぐという習性を利用して魚を逃げ場がないところに誘導して集める迷入陥穽漁具をエリと呼ぶ。
そしてエリで集めた魚を漁獲する陥穽漁法をエリ漁ともいう。
簀立というのは簀(筵や簾)を立ててエリを作っていたことからの命名だと思う。
条件に合う海岸線でしかできず、干潮時にしか獲れず、水深も然程ないので小物が多くなる石干見漁法は現代では水産業として残っている例は少ないが、場所に左右されづらく定常的に漁獲可能なエリ漁は現代でも現役の水産業の漁法として残っている。
それと広い意味で言えば現代の定置網もエリ漁の発展形と言えなくもなく、日本の法令上はエリ漁は定置網の一種に分類されている。
「具体的なやり方は安藤の小父さんに聞こうかと」
「それならオリノコの黒岩さんにも聞いた方がいいぞ。何なら現地を見てアドバイスを貰うのも良い。美浦の簀立やホムハル集落群の川エリの基本設計をしたのは全部黒岩さんだからな」
「えぇっ?」
第二世代にとって黒岩さんは馴染みが薄くてオリノコの重鎮としてや経済の専門家という認識で、漁業の第一人者という認識がないのか。
魚がどう動くかを予測してどのように誘導するのが良いのかを判断するのは難しい物がある。
徒然草の『亀山殿の御池に』ではないが、素人が延々考えても分からなかった事でも有識者なら一目で分かる事はありふれた話。
「ただな、漁網とかの漁具をどうするか考えているか?」
「…………」
考えてなかったか。
実は漁網って結構な沼なんだわ。