第6話 道路
鴨庄開拓隊の交代で滝野に戻ってきた中に義秀がいた。
義秀は開拓地造成の総指揮で常駐の予定だったと思うがそうも言ってられない状況になったという事かな?
義秀の帰還理由の相談事は二つあって、一つは俺が想定していた作業進捗の遅れだが、原因は俺の想定とは違っていた。
確かに精度を出すのに時間を要していたのは間違いないが、その精度に拘って遅れていたのは避難民の方。
義秀からの“精度をださなくていい工程でどうやってそれを理解させられるか”という相談に対して“程々で良いと明言する事と、時間制限を設ける事”と答えた。
もう一つの相談事は道路だった。
鴨庄への連絡路や開拓地内の道の除灰だが、道の脇に溝を掘って埋めていたが直ぐに火山灰が吹き溜まってしまってすぐに泥濘んで困っているとの事。
ホムハル集落群の主要道路は煉瓦か石で舗装されている事もあるし、集落と湾処(港)を結ぶ道路はリヤカー擬きを使うために舗装されている。
集落内でも舗装されていたり飛び石を施している事もある。
周りより高い位置に舗装されている道路なら火山灰が吹き溜まる事はないから、ホムハル集落群ではあまり問題にはならないが、未開拓地だと話は別ということだ。
火山灰が吹き溜まる原因は道路の施工がよろしくない事だな。
義秀らがやったのは道路の脇に溝を掘って道路にする部分の火山灰をそこに埋めるというもので、排除した火山灰の分だけ道路が凹むから火山灰の厚みが五センチメートルなら道路は周りより五センチメートル低くなる。
そこに周りから風雨に運ばれた火山灰は流入してくるということだろう。
道路が周りより低ければ道路が水浸しになったり川になったりしてしまうから、道路は基本的には周りより高くなるように造るし、道路自体も道路の中央を高くて道端の方が低くなる蒲鉾型に造る。
まあ、カーブだとイン側を低くアウト側を高く造って全体に傾斜を付けるけど、道路内で水が滞留しないようにしている。
もっとも、轍に水が溜まることはあるにはある。
隧道(トンネル)も基本的にはどちらかの出入口を一番低い位置にして浸透水や地下水などが漏出しても外に出ていくようにしているし、出入口には上り勾配を付けて雨水などが入らないようにしている。
そうはいっても谷底の道やアンダーパスのように周りより低くならざるを得ない事もあるが、そういうときは側溝などを配置して路面から水が出ていくようにするし、側溝に流れ込んだ水をポンプなどで排出したりもしている。
さすがに海底トンネルなどの幹線道路だと普通は常時監視して何重にも対策を施しているから水没することはそうそうないが、アンダーパスは数が数だしそこまでの監視体制や対策のコストを掛けられないから台風やゲリラ豪雨などでポンプでの排出が間に合わなかったりポンプの吸水口を流れてきたゴミなどが塞いだりして道路に水が溜まってしまい水没する事はあるにはある。
「盛土しなかった理由は?」
「盛る土がないのと固化が……苦汁は新たに製塩を始めないと厳しいから」
「取り敢えず、火山灰を埋めるのではなく、掘り出した土と混和して道路上に盛って転圧でどうだ?」
「えっ? それいいの? 火山灰は完全に埋めないと駄目だと思っていたけど」
「火山灰が混じっていると植物が育たないからそうやってるんであって、道路だったら植物が育たないのは利点だよな?」
「……確かに。ただ転圧だけだと不安だから固化材が得られ次第、順次固化させていきたい」
土壌を固める固化材は幾つかあるが、固化材によって製造コストや原料入手難度や施工コストはもちろんのこと、固化時間や固化後の強度や耐久性などにも違いがあって用途によって使い分ける。
実は固化材がなくても土壌を固めることは不可能ではなくて、焼成前の陶磁器とか土壁などがそうだが、たいていは粘土を水で練って乾かしたら固化材がなくても固まる。
ただ、耐候性や強度が物凄く劣るので、陶磁器は焼成して融着させて締め固めるし、土壁も油を混ぜて撥水性を持たせたり、水に当たらないところに使ったり、下見板(木板を水平方向に配置する)や羽目板(木板を垂直方向に配置する)を張ったり、漆喰を塗るなどして雨水から保護する工夫をしている。
現代日本で広く使われている固化材はポルトランドセメント。
ホームセンターなどで売っている、水を撒いたら固まる土なども少量のポルトランドセメントを混ぜている砂という事が多い。
ポルトランドセメントは酸化カルシウムが主要成分なのでカルシウムバインダーといってよいが、土壌の固化に使うと土壌が強アルカリ性になるのが欠点と言えば欠点。
カルシウムの強アルカリ性を嫌うと弱アルカリ性ですむ酸化マグネシウム(水と反応した水酸化マグネシウムが弱アルカリ性)を使ったマグネシウムバインダーを使う。
酸化カルシウムや酸化マグネシウムは水と反応すると水酸化カルシウムや水酸化マグネシウムになるが、水酸化カルシウムや水酸化マグネシウムは水和物を形成する際に周りと結合して固まる性質があるので土壌の固化に使われる。
その後、徐々に空気中の二酸化炭素を吸収して炭酸カルシウムや炭酸マグネシウムになって安定していく。
カルシウムの方が大量に安価に入手できるのでカルシウム系が使われやすいが、農地などで強アルカリ性が駄目な用途――例えば水田の畦の漏水防止や雑草防除に畦を塗り固めるなど――だと、酸化マグネシウムを使った固化材が使われる事がある。
実は酸化マグネシウム系の固化剤の研究の歴史は浅く、俺が知る限りでは固化する原理を含めて本格的に研究されだしたのは昭和の終わりごろから平成の頭あたりで、二酸化炭素を付加するなどして短時間に固化させたり強度を増したりするのと同時に中性化をすすめるような研究がされていた。
ただ、原理が分かっていたのかどうかは定かではないというか分かってはいなかったとは思うが、酸化マグネシウムによる固化というのは少なくとも明治時代には使われていた。
それが何かというと三和土で、三和土は『土砂』と『石灰』と『ニガリ』の三つを混和して作るので三和土と書くが、ニガリの主要成分は塩化マグネシウム。
塩化マグネシウムは水がある状態で石灰(生石灰:酸化カルシウムや、消石灰:水酸化カルシウム)と反応するとカルシウムの方がマグネシウムよりイオン化傾向が大きいので、塩化カルシウムと水酸化マグネシウムになる。
つまり、三和土は石灰によるカルシウムバインダーとニガリの塩化マグネシウムから誘導された水酸化マグネシウムによるマグネシウムバインダーの両方が固化に作用している。
それと塩化カルシウムによる保水性や凍結予防も加わる。
余談だが、粗製海水塩化マグネシウム(天然ニガリ)の定義だと、主成分は塩化マグネシウム(もしくはマグネシウム塩)となっているが、製法にもよるが粗製海水塩化マグネシウムの成分を分析すると多くの場合は塩化マグネシウム(マグネシウム塩)よりも塩化ナトリウム(ナトリウム塩)や塩化カリウム(カリウム塩)の方が多く、マグネシウム分の四倍ぐらいナトリウム分が含まれている物も多い。
ただ御上の主成分の定義では『安全性と有効性が確保されていれば、目的とする効果を示す有効成分のうち最も含有量の多いものを「主成分」として捉え、必ずしも全構成成分のうちで含有量が多いものではない』とされているので『粗製海水塩化マグネシウムの主成分は塩化マグネシウム』と言っても問題はない。
なぜそんな定義があるかと言うと、水溶液だと一番多い物質は水になってしまうし、空気や水は除外するにしても、物凄く微量で効果がある物は増量材などで嵩増ししないと量の調整が難しいので『有効成分の中で』多い物を主成分としないと不都合が生じてしまうから。
美浦では製造にエネルギーを要するポルトランドセメントは生産量の限界があるので、ポルトランドセメントでないと厳しいところ以外では使いづらく、他の用途では三和土を使う事も多かった。
三和土とポルトランドセメントは原料は似たようなものだが、ポルトランドセメントは焼成する必要があるので、三和土で大丈夫な用途なら三和土にした方が省エネ・省資源になる。
ニガリは製塩の副産物だが、さすがに豆腐だけで消費できる量ではないので建設資材として使っていたが、それほど大量にある訳ではない。
もっとも、海水を使っても三和土は固まるので塩害の心配がない用途なら海水を使って造る事もある。
ニガリは豆腐を固める凝固剤として有名ではあるが、実は豆腐も海水でも固まる。
沖縄の『ゆし豆腐』やゆし豆腐を型に入れて脱水成形した『島豆腐』は元々は豆乳を海水で固めたもの。
なぜ元々というかというと、法令で海水を食品製造に使用するときは殺菌する事が定められているので、現代では自家消費用の販売しない場合とか海水の殺菌装置を設置している業者などで海水を使っている例もあるが、たいていは食塩とニガリを使っているため。
中には減塩志向に乗っかって食塩の添加をしないニガリで固める島豆腐もあると聞いた事がある。
海水や海水を模したものを凝固剤にしていなくても島豆腐となるのは凝固剤以外にも製法に差があるため。
普通の豆腐は水を加えた大豆を擂り潰した生呉を煮て煮呉にしてから絞って豆乳とオカラに分離し、できた豆腐は水に漬けて冷ましつつニガリ成分などを抜く工程がある。
しかし、島豆腐は生呉を絞ってオカラと豆乳に分けて豆乳を加熱するのと、できあがった豆腐を水に漬けないという特徴がある。
水に漬けて冷ます工程がないので、島豆腐は(冷却してパック詰めした物もあるが)通常は温かいというか熱い状態(『あちこーこー豆腐』とも言うらしい)で店頭に並ぶ。
閑話休題
製塩所は津波で全壊したし、再建途中で降灰に見舞われたから再稼働の目途はたっていない。
つまり、ニガリの供給が断たれているので、義秀が言うように固化材(の原料のニガリ)の確保が難しいというのは間違いではない。
海水でも固まるけど数十キロメートルも海水を運ぶのは効率が悪すぎる。
「固化材はカルシウムバインダーは絶対駄目って用途以外は上手いこと石灰岩が見つかったら解決する話ではある」
「……それなんだけど、石灰岩の採掘可能量にもよるけど、今の石灰窯だと処理量に不安が」
「いいところに気付いた」
「量が採れるならバッチ処理じゃなくシーケンシャル処理の方が良いかと」
「うむ。基本はそのとおりだけど、石灰の閾値は高いので、現状だと美浦の石灰窯より大量の処理ができる構造のバッチ処理の石灰窯がいいだろうな」
「……閾値はどれぐらい?」
「日産一〇〇トンぐらい」
「……うん、それ無理」
バッチというのは一纏めとか一束といった意味の英語で、バッチ処理というのは原料を成果物まで処理する工程を一纏め(バッチ)にして、成果物ができたら取り出して次の原料の供給から始めるやり方のこと。
対して、シーケンシャルは連続という意味の英語で、シーケンシャル処理は原料の供給を連続的に行って流れ作業で成果物の生成を行って連続的に成果物が得られるという方法。
例えば、牛乳を加熱殺菌するときに『鍋に牛乳を入れて火にかけて目的の温度と時間がきたら鍋から取り出して、新たな牛乳を鍋にいれて火にかける』というのがバッチ処理で『牛乳をパイプに流してパイプを熱して目的の温度と時間が得られるように火力や牛乳の流速流量を調整しておいて、連続的に殺菌済みの牛乳が生産し続ける』というのがシーケンシャル処理。
量が少ないならバッチ処理の方が施設も最小限で済むし面倒もなくて良いのだが、ある程度以上の量を処理をするなら流れ作業のシーケンシャル処理の方が処理能力に優れ成果物一単位あたりの消費資源も少なくて済む。
さっきの牛乳の加熱殺菌の例では、殺菌が終わった牛乳のパイプをこれから殺菌する牛乳のパイプと接触させておけば殺菌後の牛乳の除熱と殺菌前の牛乳の予熱ができて省エネルギーになる。
バッチ処理とシーケンシャル処理のどちらが良いかだが、大量に生産するならアダム・スミスの国富論で明らかにされているように流れ作業のシーケンシャル処理の方が向いている。
少量なら施設の関係もあるのでバッチ処理の方が向くが、閾値を超えるとシーケンシャル処理が望ましくなる。
その点では義秀――おそらく原案は輝政くんと思う――のいう“量が採れるならシーケンシャル処理”は合ってはいる。
ただ、石灰の煆焼についてはバッチ処理がよいかシーケンシャル処理がよいかの閾値は『日産一〇〇トンの生石灰が生産できる』だと思うので、シーケンシャル処理は難しいと思う。
なぜ日産一〇〇トンかというと、現代にあるシーケンシャル処理の石灰焼成炉の最小規模がおおよそ日産一〇〇トンだから。
美浦では原料である石灰岩や貝殻の供給量は高が知れているので、一トン程度貯まったら一気に煆焼する方式を採っていて、一回の操業で得られる生石灰は五〇〇キログラムぐらいと極めて少ない。
〇.五トンで極少量というのは、中世には使われていたバッチ処理の石灰窯は一回の操業に七日間をかけて最大で三〇トン程度の生石灰が得られるから。
当時は七の倍数の基数の石灰窯を用意して毎日生産物が出荷できるようにしていた例が多いそうだ。
ちなみに一回の操業で三〇トンぐらいなのは、これ以上大きくすると焼成途中で内容物が崩れて失敗してしまうからで、先人の試行錯誤の結果として最大の大きさが一回の操業で三〇トンぐらいの生石灰が得られる物だったという事で、世界各地の石灰窯はほぼ同じ大きさなのは誰がやっても一回に三〇トン程度が限度だからみんなこの大きさになるという事。
この古典的な石灰窯でも一日あたりの生産量に均すと日産約四.三トンの計算になるから、美浦の石灰窯の八倍(美浦の石灰窯の操業時間は一日)の生産量に達する。
現代のシーケンシャル処理の石灰焼成炉だと一日あたりの生産量は普通は五〇〇トンとか一,〇〇〇トンといった感じ。
シーケンシャル処理の方が省エネルギーになるのは石灰の煆焼でもそうで、同じ量の生石灰を得るのに必要なエネルギーは石灰窯の四分の一ぐらいしか使わない。
そうなると燃料費が四倍かかる古典的な石灰窯は太刀打ちできないからあっという間廃れてしまった。
日産一〇〇トンという最小規模のシーケンシャル処理の石灰焼成炉が一日に必要とする原料は石灰岩が二〇〇トンで、燃料は石炭(一般炭)なら一八トン、重油なら一二キロリットル(ドラム缶六〇本)ぐらいになるので、現状ではさすがにこんな量の原料や燃料の安定供給は無理なので、現状ではバッチ処理の石灰窯しかない。
もっとも、現状の美浦より原料供給が良くなるなら、より生産量の多い石灰窯を設計製造した方がよい。
「それと、何処に石灰窯を構えるかも要検討な」
「それは?」
「石灰岩の重量の四割以上が二酸化炭素だから一〇〇キロの石灰岩から得られる生石灰は理想状態で尚且つ理論上の最大でも五六キロな。実際は半分の重量の五〇キロぐらいできたらこれ以上ないぐらいの上々といった感じ。ちなみに熱源としては石灰岩の三割ぐらいの重量の木炭が要る」
「ええっと……一〇〇キロの石灰岩と三〇キロの木炭から五〇キロの生石灰ができたら上々か……石灰岩を運び出して煆焼するより、採掘場所に燃料を運び込んで生石灰を運び出す方が効率が良いと?」
「という事もあり得る。算盤を弾いてみた方がいい」
誰が算盤を弾いても石灰岩の産地から直結する場所に石灰窯を設置する方が良いとでるから、石灰窯は石灰岩の産地に特異的に存在してきた。
現代でも多くのポルトランドセメントの製造工場は石灰岩の産地付近にある事が多い。
日本一長い私道は、宇部興産(※)の伊佐セメント工場(山口県美祢市)と同社の宇部セメント工場(同県宇部市)を結ぶ約三二キロメートルの『宇部・美祢高速道路(通称:宇部興産専用道路)』(※)で、伊佐セメント工場で加工したクリンカ(ポルトランドセメントの半製品)や石灰岩を宇部セメント工場に運んでいる。
伊佐セメント工場の近傍には同社が経営する石灰岩鉱山である宇部伊佐鉱山があり、現在は廃鉱になっているが宇部市には複数の炭鉱(宇部炭鉱群)があった。
石灰岩と石炭というポルトランドセメントの原料の産地を結ぶ私企業の専用道路という訳。
同道の法的な取り扱いは宇部興産の工場敷地内の道路で、供用(他者に利用させること)はされていないため、レース場などと同じく道路交通法などの交通法規の対象外の道路となっている。
※2024年現在、宇部興産はUBEに社名変更しており、またセメント事業は同社と三菱マテリアルが半分ずつ出資したUBE三菱セメントに統合しました。
現在の私道の持ち主はUBE三菱セメントで、道路の名称も『宇部伊佐専用道路』となっています。




