表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
文明の濫觴  作者: 烏木
第12章 北へ
271/293

第2話 鴨庄への経路

川俣の復旧の方だが、住居や牛舎鶏舎の除灰は終わって住むだけなら可能な状態になっているとの事。

もっとも、圃場(農地や放牧地など)の除灰はまだまだなので、二班に分けて十日交代で泊まり込みで復旧作業をするそうだ。


それは良いのだが、圃場の復旧方法は、川に近い場所は集落と同じく河川投棄とし、放牧地などの山の中のところは近辺に土塁で囲った小規模な灰捨て場を造ってそこで処分すると聞いた。

当初計画では現場処分は天地返しと聞いていたが、他集落や美浦で『灰捨て場を築いて処分した』と聞いて修正し、火山灰を運ぶ距離を短くために現場に灰捨て場を築く方が良いと考えのだろう。


しかし、その案はとても拙いので聞いた瞬間に『待った』を掛けた。

滝野を司くんに任せて超特急で美浦に向かったぐらい。


土塁で囲って灰捨て場にするというのは他の先住者集落の除灰方法として採用し、美浦もその方法も使用したが、川俣でそれを行うのは正直しんどい。


先住者集落は土塁で囲った灰捨て場に投棄する手法を採用したが、それは先住者集落での降灰は美浦や川俣の六割以下で、五センチメートルから一二センチメートルだったからで、灰捨て場の土塁の高さが二メートルあったら単純計算でも灰捨て場の面積の一六倍から四〇倍の面積の火山灰を受け入れられ、実際は転圧するからそれの一割五分増しぐらい処理できた。

だから労力に見合った処分量になったが、降灰が二〇センチメートル超の川俣だと、土塁の高さが同じく二メートルだと十倍強ぐらいの面積の火山灰の処理が関の山だから労力に見合わないし、本当に大量(もしくは巨大)な灰捨て場が必要になる。


降灰量でいえば美浦も川俣とほぼ同じ条件だが、美浦は多目的動力装置の再稼働という卑怯な手段で幅四メートル、長さ一〇メートル、深さ一.二メートルの溝を何十本も掘って火山灰を埋め立てたし、その平行に何本も掘った溝の外周を掘った土を使って高さ二メートルの土塁を築いて灰捨て場にした。

その幅一八メートル(天端幅一〇メートル)の灰捨て場の総延長は五キロメートルに及ぶ巨大な堤となっている。

これだけ巨大な灰捨て場だから処分できたが、重機を使えたから築けただけで、人力だったらどれだけの人日を要したか分かったものではない。

川俣は完全に全て人力になるから土塁で囲って灰捨て場にするのは現実的ではない。


更に言えば、傾斜地に灰捨て場を造る事を考えていたらしいが、それは無茶だと思う。

何故かと言うと、傾斜地に盛土するのは労力の割に処分できる火山灰の量が少ない上に、そうやって造成した盛土は地滑りや崩落を起こしやすいから。

地滑りと崩落と土石流は大量の土砂が動くマスムーブメントだが、土木用語では移動速度が遅いものを地滑り、速いものを崩落(地滑りが一年ぐらいかけて動く距離を一秒ぐらいで動く)、速くて多量の水を含んだものを土石流と呼ぶ。


旭丘を造成した際に発生した残土は斜面に盛土する形で処分したが、かなり大規模な工事になった。

地滑りや崩落の防止の為に地山(表土を取り除いた硬い地面)を階段状に掘削してその上に盛土するという手間も掛けた。


旭丘の掘削した残土を上回る量の火山灰の処理を盛土でやろうとすると旭丘造成の比じゃない工数が掛かる。

比較的平坦な場所なら構わないが、傾斜地で現地処分だと当初計画の天地返しが妥当だし、天地返しがキツイなら火山灰の運搬方法を考えて河川投棄が無難だと思うので、その旨を伝えた。


俺か義秀が美浦にいれば素案段階で廃案にできたと思うが、いなかったのだから仕方が無い。

止められただけよかったと思おう。

“念のために俺か義秀(東雲親子のどちらか)に確認してからにするように”と言った嘉偉くん、グッジョブ。



久々に焦ったが、無事止められたので滝野に帰ってきたが、ムイブチ集落群からの避難民の居住地をつくる開拓地は変更せず鴨庄のまま進める事にしたようだ。

体制変更は単純に俺を抜いただけで、泊まり込みが九名で補給隊が三名になっていたのと、ミヌエと鴨庄の間の移動ルートが練り直されていた。


補給計画は若干の変更で大きな変更ではないが、移動ルートはこれから模索するが舟運を使ったルートに変わっていた。

当初計画では、ミヌエから黒井川の左岸を川沿いに進んで竹田川と合流後も竹田川の左岸を川沿いに進み、鴨庄川と合流後に渡河して鴨庄川の右岸を遡って行くというものであった。

途中に竹田川に合流する支川が幾つかあるが、川幅は大して無いので歩いて渡る事もできるが、丸太を何本か並べて渡して上に土を被せて均すいわゆる土橋を架ける計画になっていた。


変更後は、ミヌエから黒井川の()()沿いを進んで、黒井川が北に流れを変えるあたりで川沿いから外れて東進して竹田川に向かう。

そうすると竹田川と黒井川の合流点の上流(日本地図を見ると野上野(のこの)大橋の辺り)で竹田川に行きつくので、そこから竹田川を船で下っていき、鴨庄川は遡っていき現地に到着というルート(帰りも船を使って野上野大橋辺りまで遡って後は歩きでミヌエ)というルートを模索するとなっていた。


「滝や瀬があって運航できないとか、船を遡らせられるかについてはどうだ?」

「船が来てから確認しますが、目視レベルだと運航自体は可能かと。遡れるかもその時に確認します」

「駄目だったら?」

「ここで竹田川を渡って、直線的に鴨庄に向かうルートにします」


司くんが野上野大橋辺りから小富士山の東側を通って鴨庄に至るルートを指でなぞりながらそう言った。


挿絵(By みてみん)


「野上野大橋の代わりに渡し船って事か」

「そうです……えっ? ノコノ?」

野上野(これ)、ノコノと読むんだ」

「へぇー、ノガミノかと思った」

「同じ字でノガミノと読む地名が滋賀の甲賀の方にあるからそう思ったのは分かる。他にも和歌山に同じ漢字でノジョノと読むところもある。野上野は難読地名だから面倒なら春の日と書いてカスガにでもしておいた方がいいと思うぞ」

「春日?」

「この辺りは元々は氷上郡春日町だったんだ。で、この辺が春日町野上野で、この辺が春日町黒井、この辺が春日町多田」

「……うん。面倒だから春日にする。それで、春日で竹田川の両岸に仮設の船着場を築くのを最初にします。次に陸路でどこまで行けるかを確かめて、それからどこまで船で行き来できるか確認する予定です」

「手堅い手だな。良いと思うぞ。ただ、船着場は鉄砲水が流れてくる事を想定した造にしておかないと危ないからな」

「……土石流は?」

「この辺りの河床勾配だと固液分離されているから鉄砲水になる」


土石流は斜度一五度(勾配二六.八パーセント)ぐらいまでは河床や河岸などを洗掘して土石流は成長していくが、斜度一〇度(勾配一七.六パーセント)ぐらいから石礫が堆積していき斜度三度から二度(勾配五.二パーセントから勾配三.五パーセント)ぐらいで砂泥の堆積がされて以降は基本は水の割合が圧倒的になるので流れてきても土石流とは呼ばず鉄砲水と呼ぶようになる。鉄砲水自体は学術用語ではないが。

氷上回廊は平均勾配が〇.一五パーセント(斜度〇.六度)程度なので土石流が停止する五.二パーセント(斜度二度)を遥かに下回るので急に増水する事はあり得るが余程の事がなければ土石が多分に含まれる土石流にはならないし、なったとしても小規模に留まる。


「上流側の堰堤をしっかり造った湾処があった方がいいか」

「それか船を陸揚げして地上固縛」

「成る程。状況見て義秀(ヒデ)さんと相談して決めるけど、当面は地上固縛にしようと思う」

「それで良い。陸路は途中で支川があるが、そこは丸太土橋でいくのか?」

「それも現地見てからヒデさんの判断で。場合によっては相談に乗ってください」

「任せろ」

「移動ルートが確立できたら先遣隊を送り込み、伐採と造成に取り掛かります」

「それなら問題は無い。やってみて困ったことがあったらいつでも相談してくれ」

「はい」


問題点を指摘したらちゃんと改善してくるし、不確定要素があれば複数のバックアッププランも検討するあたり、だいぶ頼もしくなってきた。


■■■


「開拓中は春日で渡し船を使って竹田川を渡り、陸路を進むルートにします。途中の支川や鴨庄川は架橋して渡ります。当面は土橋ですが落ち着いたら架橋し直します」

「舟運は駄目だったか」

「水深や川幅は問題なく運航自体は可能ですが、人力での遡上が思った以上に大変で時間も掛かりました。それと台車も舗装路が無いと難しいので陸揚げして運搬というのも諦めました。だから、道路整備ができるか動力船が回ってくるまでは春日・鴨庄間の舟運は棚上げにします」

「了解した」

「あと、春日の船着場ですが、湾処は後々の課題に棚上げして自然堤防の上まで引っ張り上げて地上固縛にします」

「良いと思うぞ」


美浦から回してもらったボートが来たので鴨庄とミヌエの連絡線を調査していたのだが、その調査隊の調査結果と今後の方針について報告を受けている。

ベストな連絡路とは言い難い方法ではあるが、これはあくまで鴨庄開拓という目的のための手段なので、手段に云々して目的が遅れるのは本末転倒なので『連絡路の質の向上は鴨庄開拓の目途が立ってから』という判断は大変よろしい。


「道路整備や動力船の入手目途次第ですが、春日での架橋が先になるかもしれません」

「そうか」


大量輸送には現状では舟運が最強だから動力船を調達して舟運というのが最善で、次善が道路を整備して遡上時は陸揚げして牽引する方法で、最後が春日で架橋して渡し船から橋を渡る形式に変える事。

何だかんだ言っても渡し船は面倒なのは間違いないが、それに対応する案を三つ進めつつ、難度や期間を考えているのも良い。

それに船に積めない大きさの物を運ぶ場合は橋梁が無いと往生するから何れは架橋も必要になるだろう。


「そうそう、美浦にあと二艘ボートを回せないか打診したいと思います」

「……虎の子渡しでもするのか?」

「虎の子渡し?」

「二艘加えて三艘体制って事は両岸に必ず一艘はあるようにするんだろ?」

「はい」

「こっちに二艘あるときは単に渡ればいいが、一艘しかないときは一度渡って対岸にある一艘を引き連れて戻ってきて一艘を陸揚げしてもう一度渡る」

「そうです」

「それが中国の古典にある『虎の子渡し』とか『虎、(ひょう)を引いて水を渡る』といわれる説話の内容に近いんだわ。どういう説話かと言うと……はい。ここで問題です。虎が子供を三匹生むとその中には必ず彪が一匹います。その彪は母虎がいないと他の子虎を食べてしまいます。さて、母虎は三匹の子供を連れて川を渡るのですが、川を渡るときに母虎は一匹の子供しか運べません。彪と子虎だけで母虎がいないというのはアウトです。さぁ、母虎はどうやって三匹の子供を渡せばいいでしょうか?」

「ええっと……初めに彪を渡さないと駄目だから彪を対岸に渡して、取って返して子虎一匹を対岸に渡して……あっ、今度は彪を連れて戻らないといけないか。彪を元の岸に残してもう一匹の子虎を渡して、もう一往復して彪を渡す……ハハハ、確かに似てる」


虎の子渡しの説話の原典は、南宋時代末期から元時代初めの文人である周密が見聞した数多の出来事を撰述した癸辛雑識(きしんざっしき)の続集下にある。

原典のその箇所を現代語訳すると『虎が三匹の子を産むと必ず一匹が彪である。彪は母虎がいないと他の子虎を食おうとするので、川を渡るときに母虎はまず彪を対岸に渡し、次いで他の一匹を渡してから彪を連れ帰り、次に残る一匹を渡し、最後に彪を渡した』といった感じでそのものズバリの答えが書かれている。


このように複雑で迂遠な工程をとるので、面倒な工程を『虎の子渡し』と言ったりする。

また、複雑な工程が転じて、ある物を支払うために別の物の支払いを見送ることを次々と繰り返すさまから、生計が苦しく四苦八苦することも『虎の子渡し』と表現すると辞書にはあるが、こっちは『自転車操業』と表現する方が多いと思う。

俺の勝手な想像だが、自転車操業という言葉が創り出される以前は虎の子渡しと言ったのだろう。


また、母虎が三匹の子を連れて川を渡るさまを模した庭石の配置を『虎の子渡し』と言ったり、そういう石の配置がある庭園を『虎の子渡しの庭』と言い、京都の龍安寺の方丈庭園(龍安寺の石庭)や同じく京都の南禅寺の大方丈などが有名。


「だろ? まあそれはさておき、一艘だけというのは不安とか、常時どちらからでも渡れる方が安心という気持ちは分かるが、たぶん無理だぞ。言うだけなら無料(ただ)だけど、まず叶わない」

「……無理なの?」

「他に回せる手持ちが無いんだから回すとなると造船しないといけないんだぞ? だから“要るなら自分で造れ”と返ってくると思うぞ」

「…………」


各種リソースの状況を把握しておくのも大事だよ。


それと、明るい美浦の合言葉「無ければ作ればいいじゃない」は健在です。

だから高確率で“要るなら自分で造れ”と返ってくる。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
無ければ作ればいいじゃない……。ものすごく疾走島味を感じる。 美浦はそうせざるを得ないからなんだけど、『お金を出せば買える』じゃないからね、今の状況は。 そして野上野ってノコノって読むんだ。ノコノっ…
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ