第6話 冬の訪れ
冬を迎えた滝野に雪が降り続く。
滝野あたりは加古川河口域の美浦よりは多少は雪が多いが、別に雪国ではないので例年なら年に何回か積雪があるといった程度だが、初冬というか、本来なら晩秋にあたるこの時季に既に二五センチメートルも積もっているのにまだまだ降り続いていて、下手すると三〇センチメートルクラスまで積もるかもしれない。
ホムハル集落群の中では北方に位置し尚且つ山の中にあって元々積雪があるミヌエ・ワバル・コクダイ・ハクバルの状況はどうなのだろうか。
美浦でも観測史上初の二〇センチメートルの積雪を記録したと聞いた。
平年は積雪になる事自体が稀で、積もっても踏んだら融けて地面が見える程度。
偶に三センチメートルぐらい積もる年もあるが、これまでの歴代最大の積雪は五センチメートルだった。
十一月下旬にこれまでの歴代最大の四倍ぐらいの二〇センチメートルもの積雪を観測したことに恐怖している。
様々な巨大噴火による火山の冬による異常気象の影響は色々な証拠や傍証が残っている例が散見されるが、鬼界カルデラ噴火の影響による異常気象を示す証拠は見つかっていない。
だから鬼界カルデラ噴火による世界的な異常気象は起きなかったかあっても軽微という事もあり得たのだが、現実には異常気象が起きている。
今年で打ち止めになってくれるとありがたいが、五年ぐらい続く事もあり得ると覚悟せねばなるまい。
それはさておき、豪雪地帯の人には笑われるかもしれないが、大して積雪がない地域に二〇センチメートルクラスの積雪というのは記録的大豪雪といっても過言ではなく、近隣集落含めて軽いパニック状態に陥っている。
ただ、ユラブチ集落群からの難民はこの記録的大豪雪に対する反応は非常に薄い。
福知山盆地は日本海気候に属するので、冬に雪が降るのは勿論の事、二五センチメートルの積雪も経験があるのだろう。
対してうちの連中はパニックになっている。
これ程の積雪は生まれて初めてだから仕方が無いとは思わなくもないがオロオロしすぎ。
それよりも“雪だぁー! 雪ダルマ! 雪合戦!”とはしゃぐ方が可愛げが……いや、もうそんな歳じゃないか。
美浦のちびっ子はそんな風に騒いでいるかもしれない。
いや、そう騒いでいて欲しい。
それか、雪像もどきを造るとか。
政信さんは真駒内駐屯地に配属されていた事もあるからそこらは色々知っていると思う。
陸上自衛隊北部方面隊は氷雪で防衛拠点を築く野戦築城の訓練を名目にしてさっぽろ雪まつりで雪像を造っているし、アメリカ同時多発テロ以降は保安上の理由などで縮小その後廃止されたが、昔は真駒内駐屯地を一般開放した真駒内会場なんかもあった。
「ノリちゃん先生、屋根の雪下ろしとかしないとヤバいんじゃ?」
「落ち着け。この程度の積雪でどうこうなる建物は無い。身の丈超えたら考えよう」
「……本当に大丈夫?」
「大丈夫だ」
「だから大丈夫だって言っただろ?」
「ヒデさんを疑う訳じゃないけど心配だったんだ」
建物がどれぐらいの積雪までに耐えられるように建てるのかというと、建築基準法などの法令を読み解けば、基本的には“五十年に一度の大雪に耐えられるように”という事になっている。
五十年に一度の積雪がどれぐらいになるかは地域によって異なるので、市町村やその中の地域毎に雪の種類(粉雪・締り雪・粗目雪で雪の比重が異なる)や垂直積雪量の基準が決められている。
あまり雪が降らない土地だと三〇センチメートルの新雪に耐えられればよいとされている事もあれば、豪雪地帯だと重い雪が三メートルでも耐えられるように設定されている事もある。
さすがに三メートルの積雪に耐えるのはコストが掛かるため、屋根の雪下ろしが容易に行える構造で積雪量が二メートルを超えたら雪下ろしをする事を条件に二メートルでも良いという規定があったりもするが。
では、美浦や川俣やホムハル集落群はどうかというと……雪は然程降らないが火山灰が降る事を想定していたため、異様に頑丈に造っている。
まあ、今後一万年ぐらいはこれ程までの降灰は無いだろうから建築基準を変えないと駄目だろうけど、湿潤状態の火山灰が二〇センチメートルでも耐えられるというのが目安で、重要建造物は三〇センチメートルでも耐えられるというもの。
湿潤状態の火山灰は一番軽い粉雪の三〇倍以上、一番重たい粗目雪の五倍以上は重いので、最悪のケースでも一メートル積もっても大丈夫だし、実際には二メートル積もっても大丈夫。
つまり、身の丈まで積もっても建物は耐えられる。
屋根からの落雪や雪庇はどうするかという課題はあるが、それは今後の降雪の具合次第だな。
「屋根の雪下ろしは必要ないが、地べたの雪掻きはやった方がいいな」
「建物を繋ぐ通路とか?」
「そう」
新雪の雪原は綺麗だし見ている分には何も問題はないが、雪原を出歩くとなると、下に何があるかが全く分からないので、実はとても危険だったりする。
川や溝や窪みがあって嵌まり込むとか、転んだ先に杭があって刺さるとか強打とか、実は崖から張り出した雪庇の上でそのまま雪庇ごと崩れて崖下に……何て事故もあるのだよ。
だから、人や車などが通るところの雪はできるだけ取り除いて通っても安全な場所を明示する。
積雪が多くなると踏んでも融けないから人が歩くところも雪の上になってしまうが、他の場所との間に段差ができているので歩いて大丈夫な場所は分かる。
この程度の積雪ならそもそも除雪しなくても問題はないだろうが、やる事を作ってやる方がいいだろう。
「乙二型改の車輪外しておけ。雪が止んだら雪掻きな」
乙二型改は火山灰の除灰や運搬に使っている『スノーダンプ乙二型改』の事。
名称からして分かるとは思うが、原型は除雪器具のスノーダンプで、火山灰の除灰用に製作した。
最終的には火山灰の運搬に特化させるために車輪を取り付けて奇妙な形の一輪車擬きになってしまっているが、逆に言えば車輪を取り外せば除雪器具としてのスノーダンプと同じ働きができる。
せっかく除雪器具にできる物があるのだからそれを使う。
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晴天の空の下、難民の子供たちが雪の上を走り回って遊んでいる。
子供は風の子とはよく言った物だな。それに子供が遊べるというのは善いことだ。
寒さや雪についても、防寒着、靴、靴下、手袋、帽子などを全員分支給したからきっと大丈夫。
雪が上がったから各集落に確認要員を派遣したが、各集落は生まれて初めての大雪にパニックにはなったが、事故などはなく落ち着いたとの事。
ミヌエ・ワバル・コクダイ・ハクバルは四〇センチメートルクラスの積雪にはなったが、こちらは比較的落ち着いていた。
この時季にというのは吃驚はしたが、それ以外は特に問題はないとの事。
滝野の雪は三五センチメートルぐらい積もった。
今回は季節外れのドカ雪のような物だとは思うが、その後も雪が融ける速度が遅くて二十日ほど経ったがまだ二〇センチメートルぐらいの雪が残っている。
滝野の市内の通路は除雪されていて地面や飛び石や石畳が露わになっているが、通路以外のところは基本的には放ったらかしにしている。
それと市内の樹木の雪下ろしはしたが、郊外では雪でひん曲がったり枝が折れた樹木とかもあるが数が多過ぎてどうにもならないから放置している。
雪は今後も降り積もって根雪になるか、また降るにしても全て融けてからになるかは分からない。
それに冬の入り口でこれだから冬本番や本来太平洋側で大雪になることがある二月三月がどうなるかも分からない。
そこらはもうお天道様次第なので、こちらはどうなっても対処できるよう心構えと準備をしておく。
◇
難民対応を俺らだけに押し付けるのに気が引けたのか、美浦から定期的に人が来ているし、俺らも交代で美浦に一時帰宅できている。
もっとも、先に一時帰宅した息子の義秀が『亭主元気で留守がいい』という佐智恵と美結からの伝言を持って帰ってきたという事もあって俺は帰ってはいない。
義秀は“酷い言い草だ”と言っていたが、俺は『家の事はやっておくから安心して』という二人からのメッセージをありがたく思っている。
それはそうとして、今回の美浦からの使者は文昭だった。
そして、人払いを希望した文昭からキャンプ場組の末路を聞いた。
「全滅という判断か」
「ああ、確認できた遺体は二十体だが、それはあくまで確認できた頭部が二十というだけで、実際にはそれ以上あったがカウントできなかっただけ。それに逃亡者の有力候補の遺体は確認したから逃亡者もまずないな」
「仮に生き残りがいてもこの冬は越えられまい」
「ああ、将司も雪月花も同判断だった。ついでに理久くん、嘉偉くん、義智くんも。状況を見るに主因はケースISかな?」
ケースISは正気を失っている状況を想定した物。
実はビタミンB1欠乏は精神異常を引き起こす事があるのだ。
チアミンは炭水化物のエネルギー化に重要な役割を果たすので、チアミン欠乏が継続するとブドウ糖しかエネルギー源にできない脳の働きに支障をきたし、ウェルニッケ・コルサコフ症候群と呼ばれる心身の障害を発症することがある。
ウェルニッケ・コルサコフ症候群の症状には、身体的には歩行困難や眼球運動の異常(眼振や麻痺)など、精神的には、無関心や最近の出来事の記憶障害や作話(記憶の欠落を埋めるために無意識に話を創作し、それを自身の記憶と認識する)などがある。
「空の消毒液の瓶があちらこちらに転がっていたから、ケースALもあったと思う。空瓶の数をみるに三十人で飲んでも俺じゃなきゃ身体壊すレベルだし、度数も高いから急性アルコール中毒や泥酔からの死亡もあったかもしれん」
アルコールを供出したのはチアミン欠乏を助長するため。
エタノールはアセトアルデヒドを経て酢酸に代謝されるのだが、この代謝にエネルギーを要するので大量の炭水化物が消費される。
飲酒の締めにラーメンなどの炭水化物主体の食べ物が欲しくなるのはエタノールの代謝に大量の糖が使用されるからで、糖にあわせてチアミンも消費される。
それ以外にもエタノールの代謝自体にチアミンを大量に消費する事がある。
大量の飲酒をするとアセトアルデヒド脱水素酵素での代謝が間に合わなくなり、チアミンを大量に消費してアセトアルデヒドをアセトイン(バター臭のような香気成分)という物質に代謝して有害なアセトアルデヒドを無くそうとする。
他にもエタノールはチアミンの吸収を阻害する可能性も指摘されているなど、アルコールの多飲はチアミン欠乏症の大きなリスクとされている。
実際、チアミン欠乏症患者にアルコール依存症患者やアルコール多飲者が結構な割合で含まれている。
しかし、チアミン欠乏になる前に急性アルコール中毒や泥酔からの死亡や吐瀉物で窒息死とか、転倒して打ち所が悪くて……とか、不適切な場所で寝てしまい……という事も十分あり得る。
「十重二十重に張り巡らされた罠。将司も怖いことを考えるものだ。やっぱ絶対に逆らえないな」
「…………」
「ん? どうした?」
文昭が呆れたような諦めたような何とも言い難い表情をしている。
「いや、何でもない。キャンプ場組の話は以上だ。せっかく来たんだから何かやろうか?」
「そうだなぁ……ちょっと身体が鈍ってるんで鍛練に付き合ってくれ」