第28話 覚悟
司くんと朱美は美浦では二人とも家畜家禽の飼育を担当している。
司くんが美野里の、朱美が美結の後継者という訳で、職場結婚という事もできる。
家畜家禽の飼育は大変で、人間が休みの日には牛や鶏も休みで水も食餌も無しとはいかないから、二人揃っての休みなんてほとんどない。
でも、新婚さんは新婚さんらしくイチャイチャしてもらう事も重要なので、家畜家禽の世話は川俣の大人にやってもらうから一箇月ぐらいハネムーンとして休んでくれ。ちゃんと蜂蜜酒も差し入れるから。
二号溜池からの水を一の沢川を越えさせる水路橋は一号溜池の天端の上に木樋の水路を通す方法で仮復旧させた。
上水道の一部を分岐してハウス栽培や牛舎や鶏舎で使用できるようにはしているが、溜池からの用水に比べたら使用できる水量が桁違いに少ないので緊急用としては十分でも十全な水量とは言えないから特急で仕上げた。
溜池以外にも色々と修復しないといけない箇所や、先住者集落群の被災状況の確認や必要な支援なども含めて一段落したあたりで“状況がある程度落ち着いてきたので川俣の様子を確認したい”と申し出があった。
その際に“他に優先すべき案件があったら後回しでも構わない”とも添えられていたが、三人衆は即決で快諾し準備していたかのような手際の良さで代表者らを乗せた内海河川併用船の小鷹を進発させた。
何でも“向こうが言い出さなければこちらから薦めるつもりで準備していた”との事なので“準備していたかのような”じゃなく“準備していた”が正しい。
その川俣の様子を見に行った面々が帰ってきたが、表情をみるに芳しくなかったようだ。代表の長岡成幸さんは何か思い定めたのか暗い目をしている。
川俣の面々には“予想以上に酷い。復旧には場合によっては年単位の時間が掛かる”と伝えられたが、美浦の首脳陣と俺ら前首脳陣に話があるとの事で招集された。
被災状況自体は想像していたより遥かに軽度で、火山灰さえ何とかできれば再び住む事もできそうなぐらいとの事。まあ、その除灰が大変なんだけどね。
では“予想以上に酷い”の酷いとは何かと言うと『倉庫の食糧がごっそりやられていた』という事。
倉庫などの重要施設は施錠して子供の悪戯防止と野生動物対策を施していたのだが、錠は掛かっていたが中身がなかった。
家捜しして鍵を見つけて開錠し、盗った後に施錠したという事で、とても野生動物ができる事ではない。
「人間の仕業としか考えられない」
「容疑者はかなり限定できるな」
「長岡先生に教えてもらったあいつらだろうな」
“あいつら”というのはキャンプ場の連中の事。
キャンプ場の連中とは川俣(それ以前は上の口)を介しての間接的なものになって久しく、美浦の第二世代は年長者を除けばキャンプ場の連中と直接の面識はない。
そして直接会った事がある第二世代の年長者にしても、幼少の頃に同じ時間同じ場所に居ただけで関わり合いがあった訳でもない。
それでも話ぐらいは聞いているので、概ねどの様な存在かは知識として知っている。
川俣の者が自分達がゼロから開拓した上の口を捨てて川俣に移住したのはキャンプ場の連中が原因と言っても良い。
俺らには表向きの理由はともかくとして移住した真の理由は語られなかったが、こちらも大凡は想像がついていたし、向こうも言わずもがなといった感じだったと思う。
答え合わせにはなるが、移住の理由はこのままだと住めなくなるので損切りしたという事。
キャンプ場の連中はどこかで聞きかじった『ゴミを荒れ地に撒くことで肥沃な土壌を作って緑化・耕作地化する』という方法を進めていたのだが、当然ながら気候や地勢や生態系などの条件で向き不向きはあり、あの扇状地では不向きと言わざるを得ない。
囲いなどを造って土で蓋をするなど飛散防止処置を施すなどをやればともかく、ただ単にばら撒いているだけだったそうで、水捌けがよい傾斜地である扇状地に撒かれた排泄物を含むゴミは液体部分は地下に浸透するし固体部分も微生物や虫などの生物が分解する前に風や重力で拡散していき、植物が根を張れる厚みには到底届かずただ単に汚物が広範囲に広がるだけなのに宗教的な熱心さでそれを続けた。
このまま推移すれば、風向きによっては粉体になった汚物が上の口にまで飛散してくるということも起きるだろうし、汚水はすぐに地下水に混じってしまうので、扇端で湧水して上の口が取水している川に汚染を広げることも十分に考えられる。
地下水や伏流水は清浄な水というイメージがあるかもしれないが“生水は飲むな”の言葉の通り細菌や寄生虫がいる事も多く、井戸水から伝染病に感染とかも普通に起きていて、井戸水を飲食に使えるかの検査もあるし、食品工場などでは長年使っている井戸でも定期的に検査している。
それに温泉が分かり易い例だが地下水には色々な物質が溶けている事が多く、中には砒素やカドミウムなどの有害物質を含んだ天然の地下水なども普通にある。
ただでさえ薄っぺらい上辺だけの聞きかじりの知識で失敗を繰り返している連中がやっている事で自分達にまで被害が及びそうになっている。
例え今回の懸念であるゴミ緑化法を止めてくれたとしても、今後もこんな生兵法は大怪我の基を繰り返すだろうからこのまま上の口で暮らしているとどんなとばっちりを受けるか分かったものではない。
だから“上の口が手狭になった”“美浦との交易には今少し美浦に近い場所の方が全員にとって何かと都合が良い”という建前で川俣に居を移した。
退去後の上の口は好きにしてくれていいと言ったら、どういう理屈かは分からないけど、キャンプ場の連中の一部が住み付いた。
苦労して開拓した上の口を献上した形になるが、ヤバい奴らには飴を与えつつ距離を取るという最初期に俺らがやった事をやった訳だ。
ただ、それ自体は川俣にとって別に都合が悪いわけではないというかメリットもあった。交易品を運ぶのが上の口までで済み、腐臭漂う急斜面を登る必要が無くなったのは大きいと。
「分かる範囲の損害は?」
「種芋や種籾を含めて備蓄食糧が全部と飼料小屋の穀物飼料用の穀物原料が全部。グラスフェッドやサイレージは手付かず。それとリヤカーが二台」
「凄く分かり易い」
「轍は上の口方面に続いていて、何往復もしているようだ」
「隠す気ないようだね」
「その割には施錠してるけど」
「単に癖で鍵かけただけでは?」
「成る程。あり得そう」
物凄く好意的に解釈すると“様子を見に行ったら廃村になっていたので食べ物は腐らすともったいないから持って帰った”といったところか。
おそらくは“集りに行ったら無人だったから集るつもりだった食糧を根こそぎ失敬した”だとは思うけどね。
どっちに賭けると言われたら当然後者で、全員が後者を選ぶから賭けが成立しないに賭ける。
「それで、成幸にいにはどういう方針で臨みます?」
「虫のいい話で恐縮ですが、美浦の皆さんが許してくれたらですが、一月毎ぐらいで二泊三日ぐらいの復旧作業を何度も繰り返して住めるようになったら川俣へ」
「……復旧作業がバレたら面倒な事になりません?」
「バレても問題ない」
川俣に残された僅かな食糧を根こそぎ、それも飼料原料にまで手を出したのは、彼らにはもはや形振り構う余裕がもう無いという事。
多少でも余裕があれば誰が好き好んで飼料を食おうと思うのか。
だから、彼らは暴風雨やそれに伴う土砂災害などで食糧が全滅したとかもあり得るレベルの致命的な状態に陥っている事を示している。
そうなると彼らが生き残るには盗んだ食糧が尽きるまでに美浦に来るか、食糧が尽きる前に川俣が復旧して川俣経由で食糧支援を受けるぐらいしか道が無い。
川俣は自分たちに譲り続けてきたから格下で、美浦は塩対応で苦手意識があるから彼らの性分からすれば川俣の復旧を待つ選択をする可能性が高い。
彼らが何人生き残っているかは分からないが、川俣に残してきた食糧の量からすれば半年や一年は持つ可能性はあるが、二年も三年も持つ量ではない。もし仮に三年以上持ったとしたらそれは相当に人数が減っていないと無理なので、そうなるともはや脅威になる人数ではあり得ない。
だから、食糧を全て根こそぎした川俣にはもう二度と来ないか、来たとしても少なくとも川俣の復旧を妨げることは無いだろう。川俣が復旧しないと彼らは詰んでしまうので、復旧の妨害ば自殺行為でしかない。
「それに、最年少でも四十半ばでそうそう無理も利かなくなってますよ」
「へ? 私らの親世代が最年少? どういう事?」
「どうもこうも、私が知る限りでは子供は一人もいない」
訝しい。
拉致当時は高校生から二十代の青年が大半だったのに一人も子供ができないだと?
全員が禁欲を宗とする宗教の敬虔な信者で、尚且つそれを実践していたならともかく、そうでもないのに一人も産まれていないというのは不自然に過ぎる。
「まあ、信じ難いかもしれないが、私より年下の人間は本当に一人も見ていない」
「……マジで?」
「マジで大マジ。もっとも理由の推測は付いてるけどね」
「それは?」
「綿花を繊維用に栽培してたから種子を絞って得た綿実油を食用油として常用していたみたいなんだけど“未精製の綿実油を口にしていたら高確率で種無しになって男性不妊になる”って春馬さんが言っていた」
「美浦は綿実油は燃料用で、桐油とかと同じ食用禁止施設で製油してるから食べられないと思ってたけど食用にしてたの?」
「有害物質は色素なんで精製されて無色透明になった綿実油は食用できるし、サラダ油の王様と言われるぐらい上物なのだそうだ。彼らは綿実油は食用にできるのは知っていたけど未精製だと危険なのは知らなかったみたいで、川俣に赤黒い未精製の綿実油を食用油として売りに来てた。川俣では春馬さんに教えてもらっていたからもちろん食用にはせずに燃料油に使ってたけど」
「……つまりは男性全員が種無しにって事か」
一説によるとゴシポールによる不妊率は九割に達するそうで、女性の経口避妊薬の九割八分以上には及ばないが、正常に使用されたコンドームの八割五分を上回る避妊率という事になる。
だからかなり少なくなるのは当然ではあるが、ゼロというのは未精製の綿実油だけが原因ではなく、他にも何らかの原因もあったのだと思う。例えばビタミンB9や亜鉛などのビタミンやミネラルが十分でない食生活とか。
「にいに、やっぱり復旧は年単位で待った方が良いと思う」
「次世代など守るべき物がなくて失う物が無い無敵の人を舐めてはいけない。手を出すときは殺るか殺られるかの覚悟が必要」
駄目だな。教育が足りていなかったようだ。
美浦が川俣に渡す物資にキャンプ場の分を含めていた理由はキャンプ場の連中の生活が成り立つようにするため。
どうしてそんな事をしていたのかと言うと、日本国憲法の条文を借りて言えば“健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を保障しないと秩序が崩壊する”から。
『健康で文化的な最低限度の生活』が保障されていない社会では、社会全体が順境で好景気に沸いていて生活困窮者が少数にとどまっていればともかく、不景気、天災、疫病、戦乱、苛政などで生活困窮者が多くなると坂道を転げ落ちるように社会秩序が崩壊する。
どうして社会秩序が崩壊するのかだが、少し想像して欲しい。
『健康で文化的な最低限度の生活』が保障されていない社会で生活が立ち行かなくなった者はどうするのだ?
中には社会秩序を遵守してそのまま黙って死んでいく者もいるだろうが、生きるために“騙せばいい”“盗めばいい”“奪えばいい”と犯罪に手を染める者もでてくるのではないか? 犯罪とまではいかなくても不道徳な事に走るということもあるのではないか?
衣食足りて礼節を知るではないが『健康で文化的な最低限度の生活』すらできない状態に追いやられている者が形振りを構うとでも?
そして不法者やモラルが低下した者が増えると治安はどんどん悪化していき、治安が悪化すると治安維持コストが上昇してそれを原因とする困窮者が増えていき、更に治安が悪化するという負のスパイラルが始まり、何れは無法状態・無秩序状態が到来して社会が崩壊する。
いやいや、何も犯罪に手を染めず物乞い(日本では物乞いは違法)だってあり得るだろうって?
これがかなり難しくて、実は物乞いが成立するには『治安が良い事』が条件としてある。
何故なら、物乞いになって恵んでもらうより、恵んでもらった物乞いから奪う方がよっぽど簡単で効率も良いのだから、大多数がモラルがあって治安が良いところでないと物乞いをするのは危険なのだ。
それに物乞いが成り立つには恵んでくれる人の存在が不可欠なのだから、ヒャッハーな世紀末世界にそういう人がいるとでも? そういう奇特な人がいたとしても直ぐにヒャッハーな集団に狩られるだろう。
生活困窮者が治安を悪化させ、これが進むと社会の崩壊に進むというのは大袈裟でも想像でもなく、歴史上で幾度となく繰り返された史実である。
例えば、中国大陸には歴史上幾つもの王朝があったが、秦は陳勝・呉広の乱、後漢は黄巾の乱、唐は黄巣の乱、元は紅巾の乱など、幾つもの王朝が何らかの理由(たいていは苛政)で困窮した民が蜂起した混乱から衰微していった。
だから俺らはキャンプ場に『健康で文化的な最低限度の生活』ができるようにしてきた。
その様はキャンプ場に物資をポップさせて美浦に来ないようにしていて、ある意味では飼い殺しかもしれないが、部屋住みや飼い殺しにされるのが嫌なら誰も妨げてはいないのだから自立すればよいだけだと思う。
次世代が居ないのなら全滅するのを待つのも策としてありだとは思うが、三人衆の案は現状認識が誤っているし工夫も足りておらず下策と言わざるを得ない。
仮に、本気で手出しさせないなら放置ではなく積極的に援助して彼らが健康で文化的な最低限度の生活を営めるようにしないといけない。
そして彼らが健康で文化的な最低限度の生活を営みつつ天寿を全うするなどしてこの世からいなくなるのを待つ消極的な殲滅方法になる。
「自暴自棄にさせないために復旧の可能性を見せるんですよ。いつ復旧が終わるか何て誰にも分からないんですがね」
成幸さんの案は消極的な方策ではあるが、三人衆の案よりも期間とコストを短縮する事ができるし、危険性も低いので有り無しで言えば有り。
川俣を復旧しないと判断したら高確率で美浦に来て人道に悖る行為も躊躇せず行う確率は高いだろうが、川俣の復旧という希望を持たせられれば、復旧して戻ってくるのを待つ可能性が高くなるので、川俣と美浦は彼ら茹で蛙が茹るのを待てばよい。
つまり、キャンプ場の連中を助けないのであればこれも良案の一つ。
まあ、積極的・能動的に全滅させるのは案としてはあるが“それは如何よ”とも思うので成幸さんの案に幾つか工夫を凝らすあたりが良いと思う。
嘉偉くんは“殺るか殺られるかの覚悟が必要”とかキリッと言っていたけど、成幸さんはとっくに覚悟を決めている。
食糧を根こそぎ盗っていったことでキャンプ場の連中への認識を『迷惑な隣人』から『敵』に改めたのだろう。
成幸さんが言った“美浦の皆さんが許してくれたら”というのは“美浦がキャンプ場の連中を切り捨てる覚悟をしてくれるなら”という意味なのに、三人衆には伝わっていないのだろう。
覚悟が足りていないのは三人衆の方。
将司と雪月花をチラッと見たら二人も苦笑しながら小さく頷いた。
理久くんと嘉偉くんはお二人に任せて、俺は義智に教育しておこう。