第27話 華燭の典
道楽で越天楽(と思っているもの)を奏でる楽人が先導する行列がこうせい社の参道を進んでいる。
道楽は“どうらく”と読むのが普通だろうが、ここではというか雅楽の世界では“みちがく”と読む。
道楽というのは雅楽の演奏方式の一つで、行列をつくって歩きながら奏でる様式を指し、寺社の祭事の時などに雅楽を奏でながら行進しているアレの事。
楽人(演奏者)が行列の先頭で行進しながら演奏することで行列全体の進行を制御する狙いもある。
その行列で楽人の後に続くのが斎主(役の匠)と巫女(役の伊達弘子さん)で、右側の斎主の後に紋付羽織袴の司くん(匠と美野里の息子)が、左側の巫女の後ろに白無垢綿帽子の朱美が続き、その後ろに媒酌人(役の将司と雪月花)、親族(俺ら)が続く。
これは参進の儀という儀式のひとつ。
お分かりだろうが、結婚式である。
結婚というのは当人同士だけの話ではない。
別に家同士の話というつもりは毛頭ないが、当人らが“新たな家族を構成した”という事実を周囲が認識する必要がある。
美浦にはというか豊蘆原瑞穂国にはというかには住民台帳があるので、当人たちの住民台帳の配偶者欄に配偶者を記載するのが公式な結婚の手続きになるのだが、それだけでは十分とは言えないので『当人らが新たな家族を構成した事実を周知する手っ取り早い方法としての結婚式』という事でもある。
俺らの時は結婚式などせずになあなあで済ませていた。
そんな余裕が無かったというのもあるし、周知の事実の追認でしかなく意義が見いだせないというのもあるが、最大の理由は“面倒だから”だろう。
佐智恵も美結も“面倒だからやらない”と意思表明していたし、親父殿と姑殿は“美結がそういうなら”と。
自分達が面倒だからやらなかった結婚式を子供らにはやらせるというのはダブスタではあるが『それはそれ、これはこれ』という事で。
そして娘を嫁がすときに思ったし、今回も改めて思うが、結婚式は結婚する当人たちの晴れ舞台ではあるが、親にとって節目の儀式でもあると。
そう思うと親父殿も姑殿も寂しかったかもしれない。
この司くんと朱美の結婚式は一度延期している。
破局噴火の前に日取りまで決まっていたのだが、さすがにあの惨事の最中に式は挙げられないので延期した。
今回も延期した日取りの直前にあの暴風雨が襲ってきたのでもう一度延期する案も俎上には上がったが、美浦自体の被害は軽微で溜池被害は復旧に時間がかかるから、予定通りに挙式の運びにした。
慶事を何度も延期するのはあまりよろしくないし、後が詰まっているというのもある。
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美浦の結婚式は神道式の神前結婚式の様態が採られている。
神前結婚式というと神社(神道)だと思われるかもしれないが、神道の神前結婚式は明治三三年の大正天皇の結婚式が最初で、日本初の神前結婚式は明治六年にプロテスタント系のキリスト教の教会で行われた記録がある。
では、神道の神前結婚式が普及する以前の日本の結婚式はどうしていたかというと基本的には仏前結婚式。
神仏判然令以前は基本的には神仏習合だったから神前結婚式と言えなくもないが、神主ではなく僧侶だからなぁ……
現代日本だとかなりの割合で神前結婚式が行われていると思う。
一九六〇年代ごろから芸能人などがキリスト教の教会での結婚式を挙げるようになって知名度が上がり、一九八〇年代以降はホテルや結婚式場に教会のような一室を設けたり庭にチャペルを建てたりしてキリスト教式の神前結婚式が多くを占めるようになった。
キリスト教式の神前結婚式の次に多いのが神社などでの神道の神前結婚式。
仏前結婚式は現代日本ではほとんど聞かないので、神前結婚式以外はというと“教徒でもないのに”とか“宗教は嫌だ”とか“お金がもったいないし”といった方々が行う人前結婚式かな?
それはともかく、なぜ美浦では神道の神前結婚式なのかと言えば、匠が詳細を覚えていたから。
俺らのほとんどが『年末年始はキリスト教のクリスマス、仏教の除夜の鐘、神道の初詣。葬儀と法事はお寺さんで御守は神社』という限りなく無宗教(敢えて言えば葬式仏教徒か?)に近い一般の日本人。
結婚式の式次第だってキリスト教式のものぐらいしか知らない者がほとんど。
それもクリスチャンじゃないから大まかな流れは知っていても中身は何も分からない。
有名な“死が二人を分かつまで、健やかなときも、病めるときも”という句はともかくとして、その他はおそらくは聖典の一節だろうとか数多ある讃美歌の中の一つだろう程度で、覚えていないしその選定基準や選定理由なども全く知らない。
まあ“死が二人を分かつまで”は宗教的には離婚を認めていないカトリックの話で、離婚を認めているプロテスタントでは“死が二人を分かつまで”を省いたり他の文言(例えば“互いの愛が続く限り”など)にしたりする事もあるそうだ。
ちなみに正教会もカトリックほどではないが原則として離婚を認めていないと雪月花が言っていた。
だから、匠が神道の神前結婚式の式次第や祝詞や作法などを含めて詳細を覚えていたのでそれに乗っかった。
地鎮祭の詳細や祝詞を覚えていなかった匠が結婚式の式次第や祝詞などを覚えていたのは神前結婚式の裏方の経験があるからとの事。
どんな状況でそんなレアな経験ができるかはしらないが“覚えるのは大変だった。義教を巻き込めばよかったと後悔した”と言っていたので当時の俺は巻き込まれずに済んで助かったのだろうが、匠の記憶を基に作法やらなんやらを手順書に落とす作業に駆り出されてしんどかった。
匠が覚えていたというのもあるが、実は衣裳なども関係している。
和装は和裁の先生をしていた静江さんがいたから現状でも結構近い物が作れるのよ。
対して洋装は中々に厳しい。
洋装だって普段着なら作れるよ。最悪、既にある洋装をバラしてリバースエンジニアリングすれば良いし。
だからウエディングドレスだって作り方を知っている人がいたら作れるのかもしれないが、残念ながら作り方を知っている人はいない。
和装は作れるとはいえ、花嫁衣裳は白無垢で、色打掛や引き振袖はまだ作ったことが無い。
色打掛や引き振袖も作ろうと思えば作れるのだが、色打掛や引き振袖だと髪を文金高島田に結って角隠しというスタイルが正道になる。
現代日本だと文金高島田の鬘もあるから和装の花嫁衣裳の多くは色打掛が選ばれているが、ここには文金高島田の鬘はないし、理容師の恵さんもさすがに文金高島田の結い方は知らないとの事で、角隠しは採用できない。
その点では白無垢は髪型の自由度が高い綿帽子が採用できるし、白無垢は花嫁の最上級の礼装でもあるので白無垢綿帽子のスタイルが美浦の花嫁衣裳になっている。
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参進の儀の行列はこうせい社の拝殿に向かう。
神社には色々な建物があるが、主には「御神体が鎮座する『本殿』」「幣帛(供物)を授受する『幣殿』」「祭典を執行したり参拝者が拝礼する『拝殿』」がある。
この三つをまとめて『社殿』ともいうが、本殿は神様のための場所で、拝殿は人間のための場所、そして幣殿は本殿(神様)と拝殿(人間)を繋ぐ場所といえる。
なので『本殿は基本的には立入禁止』『幣殿は神職以外は立入禁止』『一般人は拝殿までしか立ち入れない』というのが一般的。
そうはいっても別に三つ揃っている必要はない。
もちろん、三つ揃っている神社も多くあるが、本殿と拝殿だけの神社も多いし、本殿だけの神社や拝殿だけの神社、はては社殿がない神社だってある。
自重という言葉を知らない凝り性の匠が公共事業という錦の御旗を掲げて建立した“こうせい社”は当然ながら本殿・幣殿・拝殿の三つが揃っている。
更に『覆屋』といって本殿を取り囲み本殿を保護する建物まである。
匠は“次は舞殿(“まいでん”“まいどの”と読むこともある。神楽舞を舞う建物の事で、神楽堂と呼称される事もある)だ”と息巻いている。
それと、すっかりオリノコに馴染んだ黒岩一族からは“分社をオリノコに”の声があるし、ムィウェカパで使う滝野の社も豪華にという声も……
それはさておき、こうせい社の拝殿に入ると新郎の親族が向かって右に列をつくり、俺ら新婦の親族は向かって左に列をつくる。
これは神様(本殿)から見て左が新郎側、右が新婦側という形で、新郎側が上位で新婦側が下位という席次になる。
最上位の太政官の左大臣が天皇に向かって右(天皇から見て左)の一番前で、次席の右大臣が天皇に向かって左(天皇から見て右)の一番前というのに倣ったものともいえる。(制度上の太政官の最上位は太政大臣だが、常設の官ではなく通常の太政官とは別格の名誉職の性格が強く実質的な最上位は左大臣。なお、太政官を“だじょうかん”太政大臣を“だじょうだいじん”と読むのが正式なのは明治時代の僅かな間だけで太政大臣には三条実美しか任官していない)
親族の席次も親・兄弟姉妹・祖父母・その他の親族という順が基本で、兄弟姉妹は年齢順で既婚の兄弟姉妹は家族単位で入るのだが、家族内では夫、妻、子という順になる。
例えば、女男女女男の五人兄弟で上の二人が既婚の第三子の結婚式だと『父、母、姉の夫、姉、姉夫婦の子、兄、兄の妻、兄夫婦の子、妹、弟、祖父、祖母、その他の親族』という順になるのが基本。
そして親族以外の者は原則として参列できないし、参列が許されてもその人の立場に関係なく親族の後ろの末席になる。
家に重きを置いていて結婚は家と家の結びつきと位置付けられ長幼の序や男上位を重要視するという家父長制的な前近代的価値観が垣間見れる席次である。
初の神道の神前結婚式が宮中三殿で行われた大正天皇の結婚式で、その翌年には早々に神宮奉賛会(現在の東京大神宮)が皇室の婚儀を参考にして民間での神前結婚式の様式を定めて模擬結婚式を開催し、神道の神前結婚式が一般に広まり定着したという流れに、明治政府がノータッチだったとは思わないし、参列者の席次の規則にも明治政府の意向が表れていると思う。
個人的には思うところもあるが無粋な事はせずに大人しく向かって左の最前列の席に座る。
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神道の祭典は『入場、修祓(お清め)、一拝、献饌(お供え物を捧げる)、祝詞奏上、玉串奉奠、撤饌(お供え物をお下げする。お下げした御饌は直会で参列者一同がいただく)、一拝、退場』という次第が基本で、祭典によって途中に差し込まれる儀式がある。
結婚式では、祝詞奏上の後に誓杯の儀や三献の儀と呼ばれるいわゆる三々九度の盃や親族杯の儀を行ったり、新郎新婦が神前に進み出て誓いの言葉を読み上げる誓詞奏上とか神職や巫女が神楽を舞う神楽奉納などがあったりする。
ちなみに美浦の結婚式はこの『あったりする』がフルコースである。
奉奠される神楽舞は『浦安の舞』という舞姫(巫女)四人で舞うもので、結婚式で舞われる神楽舞としては『豊栄の舞』と並んでよく採用される。
ただ、この浦安の舞と豊栄の舞は昔から舞われていた神楽舞ではなく、昭和になって定められたもの。尤も、各地に残っていた神楽舞を統合したようなものなので全く新しいものという訳ではない。
浦安の舞は昭和十五年の皇紀二千六百年奉祝臨時祭に(当時日本領だったところもふくめて)日本全国の神社で一斉に舞うために作られたものなので多くの神社に神楽舞として残っている。
その経緯や年代から分かると思うが、浦安の舞は国威掲揚や皇国史観的な側面があるので、戦後の昭和二十五年に神社本庁によって豊栄の舞が制定された。
ちなみに、浦安市の著名なテーマパークがある舞浜の由来はマイアミビーチではなくこの神楽舞の浦安の舞。
おかんが“浦安の舞にちなんで舞浜と名付ける”とした(当時)浦安町議会の話を知っていて“マイアミじゃないよ”と。
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基本的には親族だけで行う結婚式と直会の後は、全員を招いての披露宴になる。
直会までは慇懃講で、披露宴は無礼講。
披露宴の料理は宣幸くんではなく俺が作ることになっている。
美浦で執り行われた初の結婚式の新郎が宣幸くんだった。
さすがに新郎に料理をさせられないから俺が担当したのだが、これを前例としてそれからずっと披露宴の料理は俺という事になっていて、息子や娘の結婚式でも例外にならなかった。
斎主も最初に匠がやったものだから、今回も自分の息子の結婚式にも関わらず斎主を務めていた。
前例って怖いね。