第4話 傷跡
翌日には津波の来襲も落ち着いたので、美浦平をはじめとした各地の被害状況の調査が行われた。
調査結果は惨憺たるもので、美浦平は全滅といっていい。
田畑は瓦礫やヘドロに覆い尽くされた上に海水が湛えられていて、製塩所、終末処理場、永原養蜂場、永原も更地にされて瓦礫やヘドロに埋まっている。
瑞穂会館は形こそ保っていたが壁が抜けて屋内外に瓦礫が散乱していたし、地下倉庫はヘドロ混じりの海水に満たされていた。
こうなったら瑞穂会館は復旧は諦めて使えそうな物を回収して破却が妥当。
里川に渡していた橋も三本のうち二本が落橋し、最上流の水道橋だけが残った。
水道橋はその名の通り水道が通っている石造アーチ橋で、旭丘の余剰水の一部を美浦平に提供している橋。
この水道橋は烈震にも耐え津波にも耐えた。
石を積んだだけで結着もしていない石造アーチ橋は地震で簡単に崩れそうに思うかも知れないが、大正時代の関東大震災で数多の橋が落橋したにも関わらず石造アーチ橋は一本も落橋していないなど実は耐震性は物凄く高い。
これは壁石が石橋に荷重を掛けているのでそもそも動きづらいというのと壁石の大きさがまちまちで地震動と共振しないというのがあると思う。
美浦平の水関係では用水路や各種の桝が壊されたり瓦礫やヘドロに埋まってしまったのも痛いが、旭丘の余剰水を除けば美浦平の水源が全滅したのが激痛。
永原の自噴泉が埋まってしまったのはまあいいとしても、加古川を遡上した津波が水口にある加古川からの取水施設を襲い、揚水水車はもちろんの事、揚水水車の土台や取水堰まで完膚なきまでに破壊し尽くした。
水口から取水していた加古川の水は美浦平の水源としては主力オブ主力だっただけにダメージが大きい。
農地の除塩をするには大量の淡水が必要になるので、水口が復旧するまでは旭丘に産業用水を供給している溜池を限界まで稼働させるしかない。
船舶関係も酷くて『黒潮』が大破して地上に擱座しているのは分かっていたが、地上固縛していた『雪風』と『春風』も駄目だった。
それと芦原の船着場に固縛していた河川艇の『小桜』も加古川を遡上してきた津波にやられたから四艘を喪失した事になる。
残っている美浦船籍の船艇は、滝野に停泊していた河川艇の『白梅』、川俣に行っていた内海河川併用船の『小鷹』、それと港外退避した外洋船の『不知火』の三艘だから七艘中四艘を喪失し損耗率五七パーセントという大打撃。
港湾施設も星降湾の奥浜港、留山追分の西潟港、芦原の船着場が壊滅。
奥浜港の船渠もやられたからこちらも早急に復旧しないと新造はもとより不知火のメンテナンスにも支障をきたす。
港湾施設が壊滅したから港外退避させていた不知火を奥浜港に接岸させることができず、仕方がないので不知火を星降湾に投錨して乗員は救命ボートで帰ってきた。
それと、後に分かった事だが淡路島の由良も壊滅していた。
◇
津波はこうせい社――隕鉄を祀った神社っぽいもの――までは来なかったというか恵森だった場所には到達しなかった。
そして恵森は森林が発達していたのに何で永原や千丈河原が草原主体だったのかがよく分かった。永原や千丈河原は繰り返し津波にやられたからだ。
たいていの樹種は耐塩性が低いので津波を被ると枯死したりするし、津波を被って塩分濃度が高くなった土壌に森林は中々発達しない。
もちろん耐塩性がある樹種もあるにはあって、黒松とか藪椿などの海岸部によく見られるものがそうなのだが、日本で砂浜と松林という風景は自然にできた物ではなく人間が植林してきたからであって、自然にそうなる事はまずない。
だから津波に襲われた土壌から雨水などによって塩分が抜けたり耐塩性が高い草本植物の植物遺骸が十分な厚みの土壌を造ったりするまでは森林に遷移するのは難しく、永原や千丈河原は森林に遷移しかける度に津波が襲ってきたと考えると草原のままであった事に不思議はない。
たぶん恵森は前回や前々回の南海トラフ巨大地震による津波の被害も免れたという事だろう。
永原にある高木になっていた藪椿は例外的な存在だが、もしかしたら前回や前々回の津波で流れ着いた種が芽吹いた物かもしれない。
偶々根付いたけど藪椿は自家不和合性が高い種なので単独の一本だけだと繁殖できなかったのではないかと思う。
その藪椿は今回の津波に耐えて残っている。
これ、御神木にしてもいい気がしてきた。
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美浦以外の集落の被害状況の確認に向かった者が五月雨式に帰ってきたが、どこも大きな被害はなかった。
中には怪我人が出たとか、損傷した竪穴住居があったとか、田んぼや湿地が液状化して噴砂したところがあったなどの被害はあったが、何れも大勢に影響はないレベルで、大ダメージを受けたのは美浦だけ。
美浦以外は被害が少なかったのは朗報で、お陰で美浦の復興に注力できる訳だが、復旧する物としない物を区別しておかなければいけないし、復旧させる物も優先順位というものがある。
幸いな事に生活面に喫緊の問題はないので落ち着いて確認できる。
義智、理久くん、嘉偉くんの三人衆が主導して決まったのは以下の通り。
復旧しない物
瑞穂会館及び地下倉庫や土蔵などの周辺施設
美浦平終末処理場
永原養蜂場
西潟港
永水――永原の自噴井――
永原牧場
これらはかつては重要な施設ではあったが旭丘に転居して後継施設が旭丘に造られたとか需要が変わったため重要度が下がっていたが惰性で維持していた施設と言える。
復旧する物
奥浜港
当面は不知火及び小鷹が接岸できるように暫定の仮設埠頭、仮設桟橋までを急ぐ。
川俣に停泊していた小鷹は奥浜港の仮埠頭、仮桟橋ができてからでないと帰ってきても仕方がないから川俣に留め置いている。
賢明にもこちらの調査隊が行くまで待っていたので行き違いにならなかった。
滝野からは調査隊と行き違いで白梅がやってきて、芦原船着場が無くなっていて右往左往していたのとは大違いだった。
最終的には外洋船の運用と新造・整備ができる全機能の復旧は必要だが、これまでの場所に再建するか新たな場所に建設するかは今後の検討。
芦原船着場
白梅が接岸して人や荷物の積み下ろしができるようにするのを急ぐ。
こちらは先住者集落群との重要な連絡路なので優先度は高い。
ただ、工作自体はそれほど難しくないので時間はかからない。
淡路島の由良
優先度は低いが、褐炭と鰹節は捨てがたい。
水口の取水施設
美浦平で水稲栽培をするのであれば必須の施設。
取水堰の再建からになるので時間がかかるが、水田の復旧も年単位の時間が掛かるので水田の復旧までに再建できればよい。
製塩所
津波でやられない高台に造ると海水を引き込むのに膨大なエネルギーを消費するので、津波のリスクは認識しつつもこれまであった場所に流下式枝条架併用塩田と蒸気利用式塩釜を再建する。
但し、再建に取り掛かるのは農地、水路、暫定港湾などの次になる。
当面は製塩組には流化盤や鹹水路などの清掃・消毒と、枝条架に使う竹の枝の収集に邁進してもらう。
完全再建となったのは流下式枝条架併用塩田と蒸気利用式塩釜による煎熬が現状で実現可能な最先端の海塩の製塩方法ということもあるが、主要部品である鹹水ポンプが四基とも修復可能な状態で発見できたことが大きい。
流下式枝条架併用塩田は鹹水ポンプ(と動力)が無いと成立しないので、鹹水ポンプが失われていたら流下式枝条架併用塩田は難しかった。
鹹水ポンプを作るには海水に対する耐食性に優れる銅とニッケルの合金である白銅が必要になるが、新たに白銅を得るには銅とニッケルの精錬からになる。
銅を精錬するのもあれだけど、ニッケルは鉄隕石から抽出という事になるからかなり大変になる。
日本列島に産業的に採算が取れるニッケル鉱石はないのよね。丹後の大江山鉱山のように採算度外視なら採れるけど。
農地
美浦平の十二町歩の水田から穫れる年間三六トンの米を諦める選択肢はない。
旭丘の棚田だけでは自分達が食べる分を賄うのは正直難しいから美浦平の水田を復旧するか旭丘に新たな棚田を開拓しないと何れは詰む。
海水を被った田畑は塩分濃度が高過ぎてとてもじゃないが栽培はできないので除塩作業が必要になる。
除塩の具合にもよるが、おそらく来年の作付けは耐塩性が高い和綿とかじゃないと難しい。
除塩作業は田畑に仮排水路や水切溝などを設置して表層の海水を除去するところから始まるが、当然ながら塩分が土壌に残っているので弾丸暗渠(モグラの穴のような地中水路を作って地中から排水しやすくする)を施工したり、土の上下を入れ替える反転耕起をしたり水との接触面積を広げるために砕土したりしてから水浸しにして塩分を洗い流す湛水除塩に進む。
そうはいっても実はナトリウムイオンは土壌に吸着されやすいのでそれだけだと中々除塩は進まないので、石灰系の土壌改良資材を投入する。
石灰系の土壌改良資材を施すと土壌に吸着されているナトリウムイオンがより吸着されやすいカルシウムイオンに押し出されてナトリウムイオンが水に排出されるので、それを行ってから湛水除塩を行う。
これが農地の除塩の基本的な考え方で、東日本大震災で津波にやられた農地などの除塩作業もこのような工程で行われた。
石灰系土壌改良資材は水酸化カルシウム・炭酸カルシウム・苦土石灰(炭酸カルシウムと炭酸マグネシウムが主成分)・塩化カルシウム・ケイカル(二酸化ケイ素と酸化カルシウムなどの石灰が主成分)など色々な種類があるが、奈緒美がいうには津波や高潮で浸かってしまった農地の除塩には硫酸カルシウムの成績が良いとの事。
他の資材は酸性土壌を中和する働きがあるアルカリ性の土壌改良剤や肥料になるが、過剰な塩類を除去するために使用すると土壌がアルカリ性に傾きすぎる傾向がみられるが、石膏は陰イオンが強酸の硫酸イオンなので過度にpHを高くしないのが良いらしい。
なので除塩には主に石膏を使う。
実は石膏の備蓄はトン単位で積み上がっていて、田畑に一反あたり二〇〇キログラムぐらい撒いても大丈夫な量になっている。
海水には硫酸イオンもカルシウムイオンもあるので製塩過程で石膏が副産されるのだが、食塩は色々と用途が広いし米と並んで価値源泉でもあるので年間で五トンぐらい作っていて、副産物の石膏も年間一五〇キログラムぐらいになっていた。
しかし、石膏は石膏型とチョークぐらいにしか使用してないなかったし、使用していると言っても石膏型は劣化したら砕いて再生していたから、消費するのはチョークぐらいなのでほとんど消費していなかったと言ってもよい。
石膏は田畑の肥料や土壌改良資材にもなるのだが、そういう用途で使用すると消費量がトン単位と桁違いなので製塩の副産物程度では屁の突っ張りにもならないから使っていなかったが、みだりに捨てると硫化水素の発生源になるので何かの役に立つかもと溜め込んでいたが、それが救いになった。
◇
除塩は当然やるとして、問題はあたり一面の瓦礫やヘドロの処分。
瓦礫は原則として焼却処分するとしてもその灰には塩分が多分に含まれているので通常の焼却灰と同じには扱えない。
そしてヘドロだが、これは海底などで貧酸素状態にあったものなので、現代日本のように有害な人工化合物はないにしてもそこそこ有害な物質が含まれている。
一応、除塩と好気発酵をすれば使えなくもないが、除塩の過程で水溶性の有用物も流れ去るので骨折り損の草臥れ儲けが目に見えている。
そこで、カエサルの物はカエサルにという事でヘドロや瓦礫の焼却灰は海に返す事になった。
海に返すといっても海岸から投棄しただけだとその辺りに居残って悪臭を放ち続けるが、かと言って船で沖まで運んで捨てるには港湾施設が要るから直ぐには無理。
そこで採用されたのがフラッシュ放流。
フラッシュ放流というのはダムの放流方法の一つで、ダムに溜まった土砂を浚渫し、その残土をダムの下流に山積みしておいてから大量の放流を行って残土を川に流してしまうというもの。
ただ単に土砂を川に置くだけだと川が埋まるだけだが、大量の放水をする事で人工の鉄砲水や土石流のような形にして遠くまで土砂を運搬する。
ダムが土砂を止めるので海岸への土砂供給が止まって浸食されているとか、洪水や増水が起きないため河原は渇水するし河川水も澱んだりして環境変化が起きていたりする。
そこで人工の洪水的な流れを作り、土砂混じりの水が河原や川底などを洗浄するとか海岸へ土砂を提供することで水域の環境改善が計れるとして一部のダムで実施されている。
つまり、里川の上流部を堰き止めて貯水しておき、里川にヘドロや焼却灰などを山積みして、堰を一気に外して人工の鉄砲水を起こすという事になる。
川を堰き止めて人工の鉄砲水というのは、地形によるところは大きいがそんなに難しいものではない。
例えば、紀元前の漢楚戦争で漢の韓信が斉楚連合軍と対峙した際に、敵軍の半分ぐらいが渡河してきたところで堰き止めていた堰を崩して散々に打ち破ったなど、この手の戦法は史実でも軍記物でも定番の存在。
他にも昔は山で伐り出した木を川に浮かべて鉄砲堰などと呼ばれる堰で人工の鉄砲水的なものを起こして下流に流すなんて普通にあった。
そういう都合がいい地形が里川にあるかというと、ある。
留山から里川に注ぐ支流に溜池を造るためにかなり調べたから里川沿いの地勢は分かっている。
義秀は一回ならともかく繰り返し使うとなると厳しいから助けてくれと言われたから手伝った。
普段は開放していて必要に応じて一時的に閉鎖して貯水して直ぐに開放するという用途を考えると、理論的な分類では可動堰になるだろうが、構造としては水門の方が近い感じ。
そして繰り返し使える構造が必要だけど、平時には不要な施設だから止水板は取り外し式にした。




