幕間 第20話 長岡成幸と教育?
水洗便所と浄化槽、そして何より水道ができたことにより上の口の生活は一変した。
週一ぐらいで水路や取水施設に異常が無いかを巡回して目視確認するのと、取水施設で砂を沈殿させるところに泥や砂が溜まったら掻き出すとか、大雨とかで増水しそうなときは水門を閉めるとかの作業は増えたが、川から水を汲んで来たり川に行って使うのに比べたら雲泥の差がある。
個人的に一番大きいのは洗濯が楽になった事。
東雲さんがくれた芋洗い器だけど、鎮がこれを真似てドラム式洗濯機っぽい物を作った。
これにより、“お婆さんは川に洗濯に”の世界から脱却でき、冷水に手を突っ込んでという事もなくなり、冬場でも洗濯しようという気になれる。
ドラム式洗濯機はドラムというか樽を作るのが難しくて諦めていたのだけど、鎮は隙間だらけの樽擬きの四分の一ぐらいを石鹸水の水槽に浸してグルグル回せば洗濯できるんじゃないかと発想して作った。
ただ、鎮はそういう発想ができる奴じゃない筈なので問い詰めたら美浦の洗濯機がそういう形状だそうだ。
美浦では水車動力を使って洗濯ドラムを回すし、洗剤を排出して水に代えて濯ぎまでできるので、かなり洗濯機に近い状態の物になっているが、初期型は手回しだったとか。
その美浦でも脱水機は未だに手回し(足こぎ)ドラムだそうで、実は脱水機って結構凄い装置だったと実感した。
◇
美浦の収穫祭に参加してから小さい子の勉強をどうするかが話題に上がった。
父さんは美浦で使っている小学校の教科書を貰ってきたりするなど事前に色々準備していたようだが、美浦を直に見せてからの方がいいと考えてこのタイミングで切り出したという感じ。
そして美浦を直に見た一人としては“こんな環境で勉強ができたからといってだからどうした”とは言い辛い。
それに水洗便所と浄化槽で目の当たりにしたが、関連して何がいるのかやそれがある事でどうなるのかを把握して周到に準備して上の口の暮らしを一変させた一事をもってしても、美浦が発展しているのは確かな知識と論理的思考によって立案された計画にそって物事が進められてきたからというのは明白だろう。
無知無学では先を見通して準備するのは難しく、行き当たりばったりのその日暮らしになる。
ある程度発展した社会ならそれでも生きていけるかもしれないが、この環境ではその日暮らしだと詰むと思う。
それに、父さんは先住者向けの栽培マニュアルも貰ってきているが、その栽培マニュアルはイラストが多めではあるが文字も書いてあるので、最低でも平仮名と片仮名が読めないと読み解けない。
先住者が平仮名や片仮名を読めるという事の意味を考えると……
勉強ができると全然違うというのは美浦の子と上の口の子を比べるとよく分かる。
美浦では一番大きい子でも小学校高学年ぐらいと上の口の子より年下だがとてもしっかりしていて頼もしいとさえ思える。
これは小さい子の面倒を見ていた僕ら兄弟の責任でもあるけど、美浦の子と比べると上の口の子は実に幼稚に思える。当時中学生だった僕らからするとできる限りやったつもりではあるが、小さい子たちには悪いことをしたと思う。
美浦でしっかりしているのは一番大きい子達だけでなく、その下もかなりのものだった。
これは教育になるかはあれだが、幼稚園児ぐらいの女の子に将棋で負けたのが滅茶苦茶悔しい。
僕ら双子の名前は双子の(将棋の)プロ棋士の名前を拝借したものという事で分かるかもしれないが、父さんは将棋が好きで小さいころに僕らによく勧めていた。
父さんは下手の横好きレベルだけど、僕は一応アマ三段の免状を持っている。
プロ棋士養成機関の奨励会では全く通用しないし、アマチュア強豪とも勝負にならないレベルでしかないが、それでも中学生でアマ三段はアマチュアとしてはまあまあいい線いくと自負していた。
美浦には将棋盤や将棋駒があり、やや年配の方と段位が同じとあって久しぶりに指していたのだが、小さい女の子が指したいというから相手をする事になった。
何枚落としたらいいか聞いたら、年配の方が「この子強いから振り駒で」と。
そして完敗した。
振り駒というのはハンデなしのガチの手合いだからこの子はアマ三段ぐらいの棋力がある事を意味している。
駒を並べる所作もしっかりしていたし、大橋流ではなく伊藤流ではあったが並べる順番もきっちりしていたからちゃんと指せるのはすぐ分かった。
だから別になめていたわけではないし真剣に指していたのだが、僕の無理攻めが切れたときに逆襲されて逃げ方を間違えて頓死した……と思ったけど、感想戦で頓死ではなくその前に詰んでいたのが分かった。
十九手詰めという長手数の詰みだったが確かに詰んでいたし、この子はきちんとその詰みを読んでいたのが分かった。
何せ、僕の無理攻めは“必至を掛けられていて詰まさないと負けるから必死に攻めている”と受け取っていたのだから。
将棋で負けて感想戦でも負かされるいわゆる二度負かされるという完敗だった。
二局目は何とか勝って勝ち逃げしたけど、あれ程の完敗はいつ以来だろう。
もしもあの子が現代に生まれていたら、女流棋士ではなく女性のプロ棋士になれるかもしれないと思った。
そして、冷静に振り返って考えたら、本当は僕が駒落ちの下手だった可能性もあって、“手合いは振り駒”というのは僕のプライドに対する心遣いだったのかもしれない。
幼稚園児ぐらいの女の子のあの圧倒的な強さだが、彼女は東雲さんの娘さんで小さいころから東雲さんにおんぶされてたくさんの将棋を見てきたし、東雲さんから教わっているのも影響しているんじゃないかとの事。
聞けば美浦では東雲さんに将棋で勝つとちょっとしたお願いを聞いてくれる制度があるので挑戦者には事欠かないそうだ。
じゃあ、東雲さんって滅茶苦茶将棋が強いのかというとそうではなく、年配の方の勝率は平手だと七割ぐらいだそうだ。
アマ三段を相手にして三割ぐらい勝てるならアマ初段からアマ二段ぐらいの棋力かな?
流石に有段者だったらそれなりに勉強しないと素人だと歯が立たないと思うのだが、何と初心者の内は駒落ちの下手でも勝ちは勝ちだからお願いは聞いてくれる、要は将棋の勝ち負けを口実にして小さな我儘を叶えるための制度で一種のガス抜きなのだそうだ。
それと東雲さんは指導対局が異様に上手いそうで、美浦で将棋を覚えた人でも有段者クラスは結構いるそうだ。
今では将棋は美浦の娯楽として定着していて実に良い普及活動と。
盤駒もその年配の方が自作された物――普通にプロの対局に使われていても違和感が無いぐらいの出来だったが――らしく、将棋人口が多くなり普及品の盤駒を作るのが大変だと笑っていた。
しかし、将棋を娯楽として指せるというのはある意味では美浦は文化的な生活ができているという事でもある。
そしてそれを支えているのは確かな知識と論理的な思考に基づく計画とそれによる生産性の高さなのは間違いない。
勉強ができると文化的な生活が送れ、できないと行き当たりばったりのその日暮らしでジリ貧。
だから上の口の子らが勉強ができないと上の口は詰んでしまう。
『こんな環境で勉強ができたからといってだからどうした』
ではなく
『こんな環境だからこそ勉強ができないと詰む』
こう考えるべきだ。
各家の親御さんは“子供が無知無学の野生児では困る。最低でも読み書き算盤ができないと”という認識で一致した。
特に実際に美浦の子達を見た人はその差を目の当たりにして危機感を持っているといってもいいだろう。
その上で、父さんが上の口だとできる範囲は限られるから美浦に留学させるという手もあると爆弾を投げつけた。
少なくとも中学から高校レベルまでなら学費や生活費は美浦持ちなので費用面では問題はないと。
美浦の親たちは自分達の税金で学校が運営されているようなものなので実質的には無料ではないが、先住者向けは完全に美浦の持ち出しで、なんでも先住者の衣食住を保障してして教育しているそうだ。
つまりは給付型奨学金を拠出してでも勉強して欲しいという感じで、凄く教育に力を入れている。
教育や職業訓練をおこなえば生産性が高い仕事ができるようになり、回り回って自分達の得になり、目先の出費なんて鼻で笑うぐらいのリターンがある教育は非常に優良な投資先だそうだ。
だから美浦には教育を受けたいという人に閉ざす門戸は無く、学びたいのであれば留学生の学費や生活費は考えなくても良いと言っていたらしい。
父さんはそういう交渉? 情報収集? までしてたんだ。
まあ、そういう事なら費用面はいいとして、他に解決しないといけない問題が大きくは二つある。
一つは子供と離れ離れになってしまう事。
これは親と子で何とか折り合いをつけるしかない。
一家で行くなら実質的には移住だけど、僕は美浦で暮らせる自信がない。
六十キログラムの荷物が運べるが最低ラインというのもそうだが、あれだけ全部理詰めで詰将棋のように一分の隙もない仕事が平常運転だと心身が持たない。
そしてもう一つの方が深刻で、上の口の子の学力が美浦の子と比べて全然見合わないという事。
小学校高学年ぐらいの子達が中学レベルの授業についていけているらしいのでそこに入るのは逆立ちしても無理。
次年度ぐらいにその下の世代が入学らしいけど、そうするとかなり年下の子と一緒に学ぶ事になる。
これだけでもプライドが傷付くとは思うけど、美浦の子は先の幼女のような化け物揃いだから下手すると上の口の子は美浦の小学校新入生にさえ劣る危惧がある。
少し年下ぐらいの子には大差をつけられて負け、五から八歳も年下の子にも下手したら敵わないとなると……心を折られる未来しか見えない。
美浦留学は、上の口で勉強してある程度の学力を身につけるのは当然として、心身を鍛えて分別を持ち色々な事に折り合いを付けられるようになってからの方が良いと思う。
つまり、僕としては今年来年のレベルで美浦留学は反対。
高校国語ではあるが父さんは教師なんだから留学できるようになるよう父さんが教えてからじゃないかと思う。




