第42話 美浦は一段落?
午前中は授業で潰れるので俺の実働は午後だけで、昼食後に造成工事をしているのだが、一仕事を終えて麦茶片手に休憩しているとオイルランタンを手にした楠本さんがサウナに入っていくのが見えた。
基本は女性用となっているサウナに明かりを持って入るのだが別に覗きではない。
雪月花もいつまでもサウナを独占できるとは考えておらず、三回に一回は男性が使用できる事になっている。
女性陣が二回使った後に男性陣というのは策略で、気付けば灰の掻き出しとか諸々のメンテが男性陣のお仕事になっていた。
で、今回のメンテ当番が楠本さんという訳。
オイルランタンを持っているのは照明と薪ストーブの火種という二つの意味を持っている。
サウナルームに二重ガラスの窓を設置して採光はしてはいるが、断熱の必要もあるし外から覗けないように高めの位置に小さな嵌め殺し窓があるだけだから、室内の明るさが窓の明かりで十分かと言われると甚だ不十分と言わざるを得ない。
特に日没後は真っ暗になる。まあ、日没後に真っ暗になるのはサウナルームに限らないが……
楠本さんが木灰を灰入れに捨てて薪束を持って入る。
サウナは火をつけて直ぐに暖まるわけではないので今時分に火を入れれば晩酌の時間にはいい塩梅になっているだろう。
おっ、煙突から煙があがってきた。
麦茶も飲み終えた事だし、あと一仕事造成工事に勤しむ事にしましょうか。
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夕食後に子供たちを寝かしつけてからサウナに向かう。
“遅くなりました”と声を掛けてからサウナに入ると人は疎らというか親父殿と楠本さんしかいない。
「ノリちゃん、えらい遅かったやないか」
「有栖ちゃんを宥めるのに手間取りまして」
義智ちゃん、義悠ちゃん、結音ちゃんは素直に寝てくれたんだけど有栖ちゃんが手強かった。
俺がサウナに向かうと察して“サウナに行きたい”と煩かったのだ。
有栖ちゃんは、雪月花の保護のもとでお試し体験したサウナが甚く気に入ったようで、夕方にサウナの煙突から煙が出ているとソワソワするようになった。曰く、ぽかぽかして寝るときも寒くないそうだ。
高緯度で国土にオーロラベルトや北極圏があり東京の平均最低気温より平均気温が低いフィンランドでサウナが長年愛され続けてきたのは伊達ではなく、体感としては風呂より暖まるし湯冷めもしにくい。
美浦は雪国とかと違ってそこまで冷えないが、それでもこの時季は冬季湛水中の田んぼに薄氷が張ることもあるし、霜柱がニョキニョキ伸びている事はある。
そして美浦は現代日本と比べると暖房も断熱材も貧弱だからお布団も自分の体温で温めるという感じなので“寝るときも寒くない”というのはありがたいんだよね。
それは分からなくもないが、今日は男湯(?)なのであの手この手で有栖ちゃんを宥めていたらすっかり遅くなってしまった。
「よっぽどサウナが気に入ったんやな」
「みたいです。風呂には入れたんですけど……ああ、風呂と言えば、義智も面倒を見ていただいているようで、お義母さんに感謝していると伝えてください」
「ああ、あれか。うちのんは“孫まみれで幸せ過ぎて死にそう”なんて言うとるさかい大丈夫や」
風呂に関して言えば、有栖ちゃんは目で追うぐらいで済むようになっているけど、一歳半の幼児や乳児の双子はそういう訳にはいかない。
そして佐智恵は風呂について言えば自身が世話を必要とするぐらいには戦力外なので、義智は俺や美結が風呂に入れていた。
しかし、双子が生まれてからは美結はそちらだけでも手一杯でとてもじゃないが義智までは手が回らない。
義智は俺が男湯に入れればいいんだけど、俺は美浦を留守にすることが多い。
なので、お義母さんから差し伸べられた救いの手はがっつり握りましたとも。
「そういえば、宣幸と和広が言ってたけどノリちゃん先生はまた出張だって?」
「ええ、コロワケに湾処を造りに行きます」
冬場は滝野交換市がないから授業日和ではあるが、去年は上の口に上下水道を敷設に行ったなど出張が無いわけではない。
今冬も出張があって、コロワケに湾処を造りに行く。
湾処というのは河川を人工的に水制(川に突き出した堤みたいなもの)で区切って本流と繋がってはいるけれど、川の流れからは切り離されて池のようになった場所の事。
人工構造物が水制と名付けられていることから分かるように、元々は川の流れを制御するためのもので、流域を狭めることで水深を得たり流速を加減したりするのが主目的であった。
これをできるだけ安全にそして安価に行うために、多少水面が残っていてもいいじゃないかと人工構造物を減らした結果生まれた静水面が湾処という訳。
本来的には湾処は副産物ではあるが、湾処の静水面は取水や船舶の係留などにも使えるし生態系の保護にも寄与するので近年では湾処を主目的に建設することも珍しくない。
今回の出張の主目的も湾処の方で、コロワケから陶石を大量に輸送するための舟運計画に基づいたもので、コロワケに高瀬舟を係留するための湾処を建設する。
ミツモコから固形燃料を大量輸送する計画もあるのだが、現状だとバイオブリケットの生産量がそこまでないので後回し。
どちらかというと、褐炭の採掘場でバイオブリケットに加工してミツモコに輸送する方策を考えた方が良い。
「ノブが宿題の量から十日ぐらいって言ってたけど」
「鋭い分析ですね。それぐらいでケリが付くかと」
「やけに早くない?」
「建材の搬入と取っ掛かりの部分だけですからそんなに時間は掛かりません。その後の施工は山雲組に担ってもらいます」
水制などという大掛かりな構築物を一人で造れるわけがないので、実際に建設するのは山雲組で俺は元請けとして建材確保や施工管理を行う形をとる。
船着場、橋梁、道路といった交通インフラの整備という公共工事を頻発したせいで山雲組の技能水準は高くなり、設計の監修さえしたら後は任せられるぐらいの水準に達している。
川合も予定していた竹細工は女衆の仕事になり、男衆は交代で畑の面倒を見る者を出して大半は工事を担うようになってしまった。
オリノコも交代で田畑や鶏の面倒を見てはいるが、男衆は建設建築業に女衆は繊維産業に労力の大半をつぎ込むようになっている。
オリノコはやろうと思えば自給できる農業生産力を持っているので考えようによっては美浦に次いで豊かな集落と言えなくもない。
「しかし、湯たんぽが無くなってヒサやユイは寂しがるんやないかなぁ」
「湯たんぽって……」
「えっ? ノリちゃんって湯たんぽなの?」
「美結が言っとったけど、温かいから冬場は子供らが群がっとるそうやで」
俺は基礎体温が高いのか、冬場になると子供たちに抱き枕にされることがある。
以前は有栖ちゃんが俺の腹や胸に涎を垂らす程度で済んでいた(それでも結構息がし辛い)のだが、今では両手両足に一人ずつ抱きついていて、リリパットに縛り上げられたガリバー状態になるのも珍しくない。
「あれやられると動けないんで困ってます」
起こさないようになんて配慮じゃなくて、例え乳幼児の重さであっても四肢を全て固められるとマジで動けないのよ。
だから美結や佐智恵に助けを求めるんだけど“また独り占めしてズルい”なんて言葉が返ってくる。
でもね、左側に寝かせた筈の義悠ちゃんが右腕に抱き付いているあたり、夜中に授乳した美結が右側に放流しているに違いないと思うのだが……
「まあ、抱き付いてくれてるうちが華や」
「そうそう。あれだけ留守してるのに懐かれるなんて奇跡だよ」
「それは分かってはいるんですけど」
「はっはっは、贅沢な悩みやないか。それよか飲もう。ノリちゃん、ビール頼むわ」
「はい、どうぞ」
「……プファ……やっぱうらはラガーの方が好きやわ」
「自分もそうです」
「すみません。私は違いが分かりません」
ビールは大きくはエールとラガーの二種類に分けられ、それぞれ醸造方法が異なる。
エールは摂氏二〇度前後の高い温度で三日ぐらいという短期間の発酵で造られる。
発酵が進むと浮き上がってくる酵母が使われるので上面発酵と言われることもある。
一方でラガーは摂氏五度から一〇度ぐらいの低温で十日ぐらい醸すのだが、発酵が進むと沈んでいく酵母が使われるので下面発酵と言われる。
奈緒美が言うには、摂氏五度から一〇度ぐらいの低温で発酵できる酵母が沈んだから下面発酵と言い出したに過ぎず、上面か下面かは実はあまり関係はなくて醸造温度の方が重要で、摂氏二〇度前後で醸造したら下面発酵でもエールに似たビールになるそうだ。
ともかく、醸造温度を考えれば冷蔵施設でも造らないと夏場にラガーを醸造するのは難しいし、冬場にエールを醸すには暖房しないといけないのは分かってもらえると思う。
実はラガーは大航海時代以降に造れるようになった物で、ビールの歴史でいえば圧倒的にエールの方が長く、メソポタミア(シュメール)文明でビールの原型が飲まれていた可能性があるとの事なので、下手するとエールの歴史は人類の歴史時代と同じぐらいの期間がある。
奈緒美が言うには、ラガーの醸造に使われる低温で発酵できる酵母には南米原産の酵母菌の遺伝子が含まれているという研究があるそうで、南米から欧州に持ち込まれるには大航海時代を待たないとあり得ないのでラガーが醸造されだしたのが大航海時代以降なのは偶然ではなく、ある意味では必然だそうだ。
清酒酵母やイースト菌などほとんどのアルコール発酵酵母はサッカロマイセス・セレビシエという菌種かその亜菌種にしているが、ラガービールの酵母は遺伝子が異なるのだから別種にした方が良いのではないかという論議もあるそうだ。(※)
それはともかく、造り方が異なるので出来上がったビールも違いは当然あって、よく“風味豊かなエール”と“切れ味鋭いラガー”と言われる。
でも俺はエールとラガーの味の違いがよく分からない。
日本ではほとんどがラガービールに分類されるものなので、エールビールは輸入品か地ビール(クラフトビール)ぐらいしかないので比べられるほど飲んだことがないというのもあるが、俺には大手四社のビールも地ビールのラガーも地ビールのエールも輸入品のラガーも輸入品のエールもそれぞれ味の違いがあるにしても、あくまで同じビールの範疇の中でのバリエーション以上の違いが分からない。
だけど、エールとラガーの違いが分かる人は当然いて、目の前の二人はその違いが分かる男。
「違いはともかく、仕事をかたした後の冷たいビールは最高やで」
「ええ、正に“キンキンに冷えてやがるっ……!!”って奴!」
「私は強盗までする気にはなりませんが」
「ノリちゃんはあんま飲まんからなぁ」
「……飲めない訳じゃないみたいだけど、何か理由があるの?」
「祖父が大して飲めないのに酒が好きという質の悪い吞兵衛でして……なので、付き合いでは飲みますがあまり自分から飲もうとは思わないんです」
「ああ、そりゃ……うん。分かる」
飲み屋で酔い潰れたじじぃを迎えに行く役目は親父から兄貴に引き継がれ、俺が中学生になってからは俺に押し付けられた。大学で家を出たから兄貴に差し戻したけど。
「話を戻して、コロワケとの舟運となると剛っちゃんが喜ぶな」
「磁器があると結構違いますから」
「まあそやな。八年近くかかったけど結構いい暮らしができてると思うわ。個人的には造成地の簡易水道はでかい」
「ノリちゃん達には感謝しかない。多少なら家族を守れたかもしれないが、自分たちだけならここまでは無理だった」
「いやいや、私らも私らだけならここまでは無理ですよ」
「ほったら、みんながみんなに感謝という事で、乾杯!」
「乾杯!」
造成地に居を移したら美浦は一通りなんとかなるとは思うので、後は先住者に技術を広める活動が主になるのかな?
(※)
奈緒美さんはラガー酵母は南米に起源があり別種であるという仮説の蓋然性が高く、分けるべきという議論の最中までしか知りません。
2021年現在ではラガービールの醸造に使われるラガー酵母はサッカロマイセス・パストリアヌスという種に分類されています。
ラガー酵母は色々と変遷を経てありふれたアルコール発酵酵母であるサッカロマイセス・セレビシエに内包される酵母菌とされたのですが、遺伝子研究によってサッカロマイセス・セレビシエと南米で発見されたサッカロマイセス・ユーバヤヌスのハイブリッドであるのが確かめられたため別種に分離されました。
それ以前にはワイン酵母の一つであるサッカロマイセス・バヤヌスとのハイブリッドとも考えられたのですが、サッカロマイセス・バヤヌス自体がハイブリッドであるのが分かり、原種を探っていくとサッカロマイセス・ユーバヤヌスにたどり着きました。
ユーバヤヌスは『真のバヤヌス』という意味で、サッカロマイセス・バヤヌスの原種なのでそう名付けられました。




