第41話 温浴施設
俺が新年度の授業を、それも二学年平行の授業という面倒な事をしているにも関わらず、美浦を留守にする輩がいる。
個人的には“上の三人の授業を受け持てや”と言いたいのだが、今のところスルスルと逃げられている。
彼らがどこに行くのかというとフマサキ。
温泉調査隊だそうだ。
温泉調査はオリノコと遭遇した年に起案したから五年越しの実施になるのか……予想では含鉄泉と炭酸泉があると思う。
“ところどころの小川が赤く濁っている”というのは温泉水に鉄分が含まれていて、空気と触れて酸化された第二鉄イオンの水酸化物による赤錆的な色を帯びているからだと思われる。
有馬温泉には有馬温泉旅館共同組合が商標登録した『金泉』と呼ばれる空気に触れて酸化して赤変する含鉄泉がある。
そして“臭いもしないのに息を吸うと死んでしまう谷”というのは炭酸泉から放出された二酸化炭素が充満している谷だと思う。
二酸化炭素は空気より重いので窪地などの低地に溜まってしまい、無色透明無味無臭なのでそれに気付かず事故が起きることもある。
労災関係だと硫化水素も怖いけど同じぐらい炭酸ガスも怖い。
有馬温泉には飲用可能な炭酸泉を利用した炭酸煎餅があったと思うので炭酸泉もある可能性が高い。
まあ、有馬温泉は療養泉として指定されている十種類の中で『単純性温泉』『塩化物泉』『炭酸水素塩泉』『硫酸塩泉』『二酸化炭素泉』『含鉄泉』『放射能泉』の七つがある珍しい地域だから何があっても不思議じゃないけど。
硫黄泉はない可能性が高いので温泉の臭いとか言われる硫黄系の臭いはしない公算は高いけど。
ちなみに有馬温泉に無い療養泉の種類は『酸性泉』と『含よう素泉』と『硫黄泉』の三つ。
(『含よう素泉』は近年(二〇一四年)追加されたが知名度が低く、療養泉を九種類としているものも見受けられる)
俺が参加できないのは残念ではあるが、サキハル群で調査して欲しい事を認めておくからそっちもよろしく。
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温泉調査には行けないが、代わりと言ってはなんだけど造成地に新たな温浴施設を建てた。
「何年ぶりでしょうか。六年? 七年? ともかく、久しぶりに堪能しました。ありがとうございます」
「下手すりゃ八年かな? 優先度を低くしてしまったせいで待たせてしまい申し訳ない」
「いえいえ、ちゃんと作ってくれたのですから構いません」
温浴施設が何かというと、フィンランド人が愛してやまないサウナ。
日本人からすると優先度が低い施設なので雪月花には悪いが後回しにされ続けていて瑞穂暦八年になってようやく完成した。
実は持ち運びできるテントのようなサウナも持ってはいたのだが、林道整備のアタッチメントなどを持って行く必要があったので遠征には持ってきていなかったのが悔やまれる。
もしもそれがあったら即行で使っていたと思うのだが無い物はないので雪月花には我慢してもらっていた。
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フィンランドのサウナは日本で普及しているサウナとは少々異なる。
日本で普及しているサウナは乾式サウナといって乾燥した空気を高温にするもので、サウナルームの中は下手すると我慢大会のような様相にもなる。
一方でフィンランドでは乾式サウナほどには室温は上げないし、ストーブの上で熱したサウナストーンに水を掛けて蒸気を発生させるロウリュというものがあるように湿度も多少は高い事が多い。
そこまで高温ではないので中にはサウナでビールを飲んだり軽食を摘まんだりという事もあるとか。
初めて聞いたときはクールダウンの場所で飲食するのだと思ったのだが、ストーブで温めているサウナの中で飲食しながら歓談するのは誰もがやるわけではないが普通の範疇の行為との事。
そういう違いがあるので、美浦に建てたサウナはフィンランド式になるのかユーティライネン家式になるのかはあれだが、日本で普及しているタイプのサウナではない。
実は過去にフィンランド式というかユーティライネン家式というかのサウナを建てた事はある。それも二回。
サウナが大好きなフィンランド人でもというかだからこそというか、雪月花は日本で普及しているサウナには不満があり、SCCの事務所の庭に雪月花が理想とするプライベートサウナを建てた。
既製品を購入したりフィンランドから取り寄せたりした物もあるが雪月花の好みにカスタマイズするのは自分達でやった。
まあ、雪月花が建てられるわけがないので、建物の設計・施工は匠と俺が担当したし、薪のサウナストーブは雪月花が満足するできになるまで文昭は三度の改修を施した。
ここまではいいが、雪月花は自分が理想とするプライベートサウナの心地の良さを母親に自慢した。
生粋のフィンランド人でサウナをこなよく愛する母親にだ。
そんな事をしたらどうなると思う?
当然“そんなに自慢するなら使わせろ”となるし、雪月花が理想とするサウナ像は彼女の母親から絶大な影響を受けていたので、雪月花が理想とするサウナと彼女の母親の理想とするサウナはかなりの部分で合致した。
更にフィンランド式サウナを建てたのだからと悪乗りして、奈緒美と俺でフィンランドの国民食であるレイカ・レイパを作ってしまったのも悪かった。
雪月花のご母堂が入り浸りになりました。
娘の事務所に行けばフィンランド人が愛してやまないサウナが、それも自分が理想とするものに近いサウナがある。
それに加えてフィンランド人が愛してやまないレイカ・レイパが手に入る。
好みのレイカ・レイパが手に入らなくて、時としてフィンランドからお取り寄せもしていたレイカ・レイパだが、娘の友人が娘の好みに合わせたレイカ・レイパを作っていて、自分もリクエストしたら自分好みのレイカ・レイパを作ってくれる。
もっと言うと、自分の娘だけでなく、娘の恋人や友人もフィンランド語を覚えてフィンランド語での会話もできる。
いわばプチフィンランド的な快適さがあったのだ。
雪月花のご母堂が入り浸りにならない理由がなかった。
雪月花のご母堂は大変ご機嫌ではあったが、自分の交友関係の場所に自分や友人の親が出入りするというのは流石に大学生にとっては苦痛が伴う。
それに夫や子どもを放ったらかしにして娘のところに入り浸るというのも健全ではない。
南部家の庭にも(街中で薪ストーブは難しかったから電気ストーブにはなったが)サウナを建てる事と定期的にレイカ・レイパを雪月花に持たせて南部家に届ける事で収束をはかる事になった。
雪月花も父親や兄弟からのクレームには“お説ご尤もで私もそう言っていますが”としか返せなかった。
まあ、雪月花のお兄さんはクレームをつけながらも“サウナを使わせろ”“レイカ・レイパを食わせろ”“ノリの車を運転させろ”とも言っていたから、クレームをつけるという態で入り浸る気もあったように思う。
このままだと下手すると南部家もしくはご母堂やご令兄がこっちに引っ越してくる恐れもあったので、南部家にスペシャルなカスタマイズを施したサウナを設置する事になったがやむを得ない。
◇
それはさておき、サウナの種類は幾つもあるが、その中にサウナの王様と呼ばれる形式のサウナがある。
フィンランド語でサブサウナと呼ばれるスモークサウナがそうで、フィンランドでは観光の目玉になるぐらい人気があるサウナだそうだ。
サブサウナは一番古い形式のサウナと言われているように一番ローテクで作れるのだが、実は安全で快適に運用するのがとても面倒。
煙突も何もないある意味密閉されたサウナルームの中で薪を燃やして部屋やサウナストーンを温めるという時点でやばさ満点で、薪を焚いていると建物の隙間から煙が噴き出してくるなど、知らない人が見たら火事だと思う事請け合い。(あと素人が真似ると本当に火事になる事もあり得る)
そして燻製室もかくやといった状態を経て火が治まっても酸素が大量に消費されているので不用意に入室したら命にかかわる。
その状態から少しずつ新鮮な空気を入れて人が入っても大丈夫なようにするのだが、空気を入れ替え過ぎると燻煙の濃度も温度も下がるので絶妙な調整が必要とされる。
サブサウナは凄く快適で海外のサウナ愛好家を呼べるぐらいの人気があるそうだが、常にプロがコンディション調整をしていないと危険な代物だったりする。
なので、サブサウナはフィンランドでは高級リゾートに位置付けられるとかなんとか。
サブサウナはプロがいないと危険があるので、素人が気軽に楽しめるようサブサウナの危険を排除したサウナとして作られたのが、煙突で排煙する薪ストーブでサウナ室やサウナストーンを温めるというもの。
その後は薪ではなくガスや石油を燃やすサウナストーブとか、電気ストーブを熱源とするサウナに移行していった。
現状ではガスや石油や電気って現状では無理だから熱源は薪ストーブになる。
文昭にSCCの事務所に建てたサウナの薪ストーブを思い出しながら造ってもらった。
◇
「この辺りに白樺が無いのが残念ではありますが」
白樺は北海道や東北地方、中部地方の高地など寒冷なところに多く、ここらにはない。
フィンランドでは白樺は普遍的な樹種でフィンランドを象徴する樹木とされている。
『湖畔の白樺林と手漕ぎボート』はフィンランドの夏を象徴する光景だそうだ。
個人的には、フィンランドの白樺と言われると甘味料のキシリトールになる。
サウナとの関連で言えば、フィンランドにはヴィヒタと呼ばれる初夏に生える白樺の若い枝葉を束にした物があって、サウナ中にヴィヒタで身体を叩くという事が行われる事がある。
白樺は落葉樹なのでヴィヒタは本来的には初夏に作るもので、遅くても夏までにしか作れない季節物なのだが、フィンランドでは初夏に作ったヴィヒタを通年使えるよう冷凍保存していて、冷凍ヴィヒタはスーパーでも売られているぐらいメジャーなものだそうだ。
それと白樺をはじめとするカバノキの仲間は火付きが良いので薪にするにも具合が良い。
「もうちょい寒冷でないとキツイからなぁ。この辺りにあるカバノキ類はミズメや榛とかかな?」
「ハシバミは油、ミズメはサリチル酸メチルの供給源ですので大事にしないと」
「そうだな」
ハシバミの実は脂肪分が多いので搾油している。
ハシバミの実も食用にはできるが、近縁種のセイヨウハシバミの実であるヘーゼルナッツなどと比べると何枚も劣るので食用よりも搾油に利用して搾りかすは飼料にしている。
もっとも、この辺りに生えていてもおかしくない近縁種のツノハシバミの実は美野里情報によれば大変美味との事なので見つけたら食用にしてみたい。
ミズメのサリチル酸メチルは湿布薬といったら分かり易いかな?
ミズメの樹液にはサリチル酸メチルが含まれているのでミズメの樹液を集めて精製したら湿布薬が作れる。
「本運用して大丈夫なできですので、薪が許す限り使いたいぐらいですね」
「分かった。後は……子供に開放して大丈夫そうか?」
「フィンランドでは乳児でもサウナに入れたりするのですが、自律神経が未発達の乳幼児に環境変化が大きいサウナはあまりよろしくないという研究もあります。ですので、学齢未満は禁止、十歳未満は保護者同伴で短時間の利用、これでどうでしょうか」
「そうか。日本の高温乾燥サウナとは違うんで大丈夫かと思ったんだが」
「件の研究はフィンランドでなされたものです」
雪月花は三歳ぐらいの時に母親と一緒にサウナに入っていた記憶があると言っているし、実際には生後半年ぐらいから使っていたらしい。
あまりよろしくないという説があっても文化風習はそうそう変わらないといった感じかな?
「ところで、サウナは一つで良いのですか? 混浴とか時間や日替わりで男女を分けるというのが駄目とは言いませんが、小父様方がワクワクしている空気を感じますので」
「サウナは大人の社交場って事ね」
「理解が早くて助かります。住居も造成地に移転するのですからリンナの浴室だと手狭です。新たな風呂がこちらに必要になりますから、それと合わせて検討していただければ」
住居を造成地に移す案が出た段階でそこらは考えたし、今回のサウナ計画でも一応はもう一つ建てられるよう用地確保と地業(建物の基礎などを造る作業)は済ませている。
ただ、イニシャルだと建材やストーブの資源確保という課題と、ランニングだと薪の使用量が倍増するのと風呂との関係をどうするのかなどの課題はある。
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温泉調査隊は二十日ほどで無事帰還した。
報告によれば含鉄泉の源泉は早々に発見したそうだ。
赤変した水が混じった川を遡っていけばたどり着くし、ほぼ沸騰した熱湯が湧き出していたから湧出地点は湯気で一目瞭然といった感じ。
湧出地点は熱湯の池のようになっていて、そこから溢れ出た熱湯が近くの川に流れ込んでいたと。
そして湧出地点は一箇所ではなく見つけた範囲では三箇所あったとのこと。
それと、おそらくは二酸化炭素泉ではないかと思われる赤変しない湧出地点も一箇所見つけたそうだ。
こっちは熱湯というほどでは無かったそうで、冬場じゃなかったら見つけられなかったかもしれないとの事。
「湯治場にできそう?」
「……赤湯は加水するか放冷して温度を下げれば入浴は可能とは思うが、そういう施設を作っても現状だとたぶん使い捨てになる」
「場所も結構山奥だった。道路を整備してもフマサキから三時間は歩くかな?」
「恒常的に使えるならともかく、そうでないなら……」
「使い捨てか」
「使い回せる物もあるかもしれんが、都度何とかすると思っていた方がいいだろう」
使っても年に何回かなら恒久的な施設は割に合わないというのは分かる。
「で、浸かってみた?」
「いや、サンプルを採取しただけ。佐智恵、分析頼む」
「ほいほーい」
「透明の方は飲用可能かも」
「そっちは時間頂戴」
「うむ、構わない」
おそらく大丈夫だろうが、石橋を叩いて渡る将司らしい判断だな。
水銀などの重金属とか砒素など有害物質が多くても見た目などでは分からないからな。
透明の含鉄泉じゃと思われる方が二酸化炭素泉で飲用可能なら加糖してサイダーとかありかな?
他の報告は、俺が確かめて欲しいと要請していたサツマイモと御薗大根の状況。
去年今年と普及させようとしたのだが交換市では順調との声を聞くが実態がどうなのかといったあたりも知りたかった。
報告によれば、稲架掛けされていた量は俺の想定よりかなり少なかった。
しかし、これは収穫量が少なかったのではなく、採れたての大根を齧ったらとても美味しかったので結構な数を食べてしまったし、干している間も摘まみ食いがあったからだった。
そうか、そうきたか。
まあ、食料事情に貢献できたと思えば良いか。
この調子なら今年播種する分は結構要りそうだな。
親父殿と奈緒美には大根の種取りを頑張ってもらおう。
大根は春に薹立てしないと種が取れないし、他のアブラナ科の植物と交雑もあるので、美浦が種苗会社代わりになって各集落に種を供給した方が良いと思う。
◇
「そういやユヅ、サウナはどうだった」
「最高よ」
「なら入っていいか?」
「残念。混浴ではありませんので男性はご遠慮ください」
「おいおい、そりゃないだろ」
「風呂があるのですから当面はそれでいいではないですか? 暫くはわた……女性に独占させてください」
「……まあ、言わんとしている事は分かるが……義教、もう一つ建てるにはどれぐらいかかる?」
「地業は終わっているんで、建材とストーブが揃えば……ただ、サウナは優先順位が低い位置づけだから優先順位の組み替えがないと一年から二年待ちかな?」
「漆原さん、楠本さん、秋川さん、サウナ、どうです?」
「あるなら使いたい」
「うん」
「フィンランド式サウナなので日本で普及しているサウナとはちょっと違っていて、中で軽く飲み食い歓談しながら暖まるなんてこともできる大人の社交場的な奴です」
SCCの事務所に建てたサウナは俺らも使っていたけど、暖房強めの部屋でキンキンに冷やしたビールを飲みながらくつろぐといった感じで凄く良かった。
その為にサウナ室から出ずに取れる冷蔵庫とか色々工夫も凝らしていた。
このあたりが雪月花の拘りポイントの一つだったんだよな。
ここでは冷蔵庫完備は無理だけど、サウナ室から出てクーラーボックスで冷やしているビールを取ってくるとかなら大丈夫。
「ノリちゃんマジか?」
「ええ、大マジです」
上世代の男性の目が“優先度大”と語っている。




