第36話 舟運
滝野からムィウェカパの関係者や交換市の参加者が三々五々帰っていく。
彼らにとって今回の皆既月食は印象的な出来事だったと思う。
日食や月食は現代でこそ天体ショーの趣があって、いつどこで観測きるかなど好意的な報道もされるが、古来は洋の東西を問わず天変地異や凶兆とされてきた事も多い。
だから、今回の皆既月食を予測して先住者に月食を“天変地異でもなんでもなく、珍しくて美しい天体ショー”として売り込めたのは良かったと思っている。
日食や月食は尋常の範囲の自然現象に過ぎない事を示すためにも美浦天文台には今後も日食や月食の予測を頑張ってもらいたい。
観測データが揃っていれば人間の寿命程度の期間ならよっぽどの天変地異でもなければ日食や月食が何時何処で起きるかは割り出せる筈だからよろしく。
あとは今回成立した夫婦には是非とも幸せになってもらいたい。
不幸に見舞われたりしたら前後即因果の誤謬で月食が凶兆という事になりかねない。
幸せになって吉兆となるのもあれだが、凶兆と比べたら百万倍は良いので幸せを願う。
◇
彼らが帰ったあとに途中で提出した舟運計画について話があるとの事なので将司と雪月花と話をする。
幸いというか有栖ちゃんは甘え三昧に満足したのか、眠っている理久くんと嘉偉くんを眺めているから子守りを頼んでご相談。
もっとも、雪月花から見える位置だから任せっ放しにはしないけど。
「先般の舟運計画だが、帆走を加えるべきという意見がある」
「将司、それは検討はしたけど捨てた案だな。川船は高瀬舟というぐらい喫水が浅いし水域も狭いから風上に切り上がるのは中々難しい。そうそう都合のいい風が吹くわけじゃない」
「河川は海陸風の通り道になるから温暖期なら午後には川上に向かって風が吹く可能性は高い。それに昔の川船は帆走していただろ?」
海陸風というのは、昼間は海より陸の方が気温が上昇するので陸側で上昇気流が発生して気圧が下がり地表付近では海風と呼ばれる海から陸に向かって風が吹き、夜間は海の方が気温の低下が少ないので今度は海が低圧になり地表付近で陸風と呼ばれる陸から海に向かって風が吹く現象の事。
その成因から夏季など日射が強い時季は顕著に起きやすく、逆に冬季には起きにくい。雪国だと冬季は常に陸側が冷えているなんてこともありうる。
そして河川は基本的には両岸は堤防などで高地になっていてガードされているし、川の水面には風を遮る障害物も少ないため川に沿って風が吹きやすい。
だから昼間は海風が流れ込んで川下から川上に向かって風が吹き、夜間は逆に川上から川下に向かって風が吹く事が儘ある。
この河川上に吹く川風は沿岸地域にある都市部のヒートアイランド現象の緩和に効果があるのではないかという説もあって、暗渠(蓋をしたり地下水路にするなどして地表からは見えない水路)にしていた河川を明渠(水面が剥き出しの水路)にしたり河川上の空間にある風を遮る障害物をどけたりという事も行われている。
有名なところでは東京の日本橋川の上を覆いかぶさるように通る首都高を左岸や右岸や地下に移設する計画がある。
首都高は一九六四年の東京五輪に合わせて開業するため土地買収などの手間がかからない河川上に作ったところもあり、日本橋付近もそうなのだが、隅田川から遡ってきた川風の七割ぐらいが首都高に遮断されてその先に届いていないとの研究がある。
首都高も完成から五十年以上たって大規模メンテナンスや建て替えが必要なのだが、川の上だとそれも中々大変だというのも移設計画の後押しをしたと思う。
首都高の移設が終われば陸上より低温の海上の空気が多く流れ込むことになるので、日本橋付近では条件次第で気温で二度ほど体感温度だと四度程度低下する事が見込めるとの研究もある。
そして将司の言う通り、この海陸風由来の川風は昔から知られていて、エンジンが普及する以前の舟運では帆走している川船は普通にあった。
ただ、これは河口付近だからであって、海陸風由来の川風がどこまで届くかは……
「帆掛け船の高瀬舟は実在していたが、基本的には利根川とか富士川といった大河が主な活躍の場だし、帆走のメインは川風が期待できる河口付近で、それ以外だと風向きが合えば帆走したかもしれんが艪櫂や棹、曳舟だったからな。加古川も川合や滝野までなら帆走もありかもしれんが支流ではな……あと、川合でも川風には期待しない方がいいと思うぞ」
「そうなのか?」
「俺の知る限りでは海陸風は河口から一〇キロメートルぐらいまでなら支流でも吹くし、条件次第では風速五メートルを超える川風も期待できるが、それ以上の距離になると海陸風由来の川風は期待薄だった筈」
「俺の知識では何百キロ単位で届くんだが」
「大陸だとそういう事もあるだろうけど日本列島は太平洋と日本海の距離が近いし直ぐに山にぶつかるから短いんだわ。さっき言った一〇キロメートルは条件の良い関東平野での観測結果な」
「そうか……」
「それに第一、美浦から一五〇キロも行くと日本海側に抜けるわ」
美浦(現在の加古川河口)から中央分水界の水別れまで七〇キロメートルも無いし、水別れから日本海側の由良川河口までも多分七〇キロメートル無いと思うので、美浦から一五〇キロメートルも行くと中央分水界を超えて由良川を下って日本海に出る。
「……お説ご尤も」
「将司、東雲さんがそんな初歩的な見落としをするとは考えられないと言ったでしょう?」
「理由が書いてなかったからな」
「叩き台だ。許せ」
「そうか、分かった。話を変えて、人力だとどれぐらい掛かる見込みだ?」
「確か文昭の言だと川合からコロワケの流路長は二五キロはないらしいから、来るのは半日もあればお釣りがくるが、帰りは……頑張れば一日、余裕をみたら二日かな? もっとも船を曳けなかったらアウトだけど」
富士川の高瀬舟は東海道の富士川の渡しがあった駿河国庵原郡岩淵村(静岡県富士市岩淵)と甲斐国巨摩郡鰍沢村(山梨県富士川町鰍沢)の間の約七二キロメートルほどを結んでいたのだが、鰍沢から岩淵までの下りは一日で着くが、岩淵から鰍沢までの上りは四日はかかったらしい。
富士川は日本三大急流の一つ(残りは球磨川と最上川)という事も考慮に入れないといけないが、岩淵から鰍沢を四日とすると平均すると一日十八キロメートルぐらい。
急流の富士川で十八キロメートルいけるとすれば二十数キロなら頑張れば何とか行けそうな気もする。しかし、高瀬舟の船員は屈強なプロだからできるのであって……
「……厳しいな」
河川を使った舟運は鉄道や自動車が現れてその役目を終えるまでは古代よりずっと国内物流の中心的存在であった。だから昔々の河川というのを現代日本の感覚に置き換えるなら新幹線や高速道路といったところだろう。
曳舟などの人力で川を遡上させるというのは重労働ではあるが、同じ量の荷物を担いで運ぶとか橇に載せて引き摺って運ぶのに比べると、舟運だと少なくとも下りは流れに掉さす程度で済む事もあるので雲泥の差があったんだろうな。
もっとも、動力船を運用している俺らからすると人力で川を遡上なんて絶対にやりたくない苦役。
「ユヅちゃ、ユヅちゃ、おむつどこ?」
「あら、今、行きます」
「有栖もやる」
「はい。ありがとう。手伝ってね」
「うん!」
「じゃ、話は一旦終了で。俺は洗剤確認しとく」
「よろしく」
将司……ぼけっと座ってるけど、ここは動かないと後々響くかも知れんぞ。
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「匠くん、その高瀬舟だと一回でどれぐらい運べる?」
「船の排水量からいけば十トンでも大丈夫」
「十トンも?」
「この規模の高瀬舟で米を六六石、一六五俵運んだ記録がある」
「えっと、六〇掛ける……」
「九,九〇〇キロ、ほぼ十トンですね。そこまで積むのはそうそうなかったとは思いますが、下りだと四トンぐらいは普通に積んでいたかと」
「ノリ、キートス。なので船の積載量がボトルネックになるのは……」
「そうそうない。それがボトルネックになるなら嬉しい悲鳴という事」
「です」
「コロワケに留め置きして積めるだけ積んでもらって」
滝野で作っていた舟運計画の叩き台を基に匠が高瀬舟の素案を出し、それを陶石の輸入を熱望している漆原剛史さんに話を通している図。
考えている案は次の通り。
空荷の高瀬舟を河川用蒸気艇でコロワケまで曳航して係留する。
コロワケは採掘した陶石を高瀬舟に積み込む。
ある程度の期間を経て陶石が十分積み込まれたら俺らがコロワケまで行って高瀬舟を美浦まで運航する。
取り敢えず一回の話ならこれで十分だし、それなりの量の陶石を採掘して積み込むのに何箇月単位の時間を要するなら年二回か三回これをやればいい。
あとは、ミツモコの褐炭バイオブリケットも舟運対象になるかもしれないあたりか。
ただ、これが毎月とかの話になると一隻では無理で、二隻でローテーションを組むことになるし、頻度が上がれば小桜で曳航してなんてやってられなくなる。
そうすると、どうやって高瀬舟を川上に運ぶのかという事が問題になる。
日本も明治まではそうやっていたんだからと人力や畜力で上げるというのも手ではあるが、何か負けた気がする。
それと、滝野以北をどうするかという問題もあるか。
近隣で高瀬舟が航行できないだろう場所は二箇所あって、一つは滝野の闘竜灘で、もう一つがホムハルの傍の渡河場所(現代では津万滝と名付けられているが滝というより瀬の方が近いと思う)である。
航路がそこで途絶えるので、滝野からホムハルまで運んだあとにホムハルの上流の高瀬舟に積み込んで各集落へ、逆はホムハルまで舟運してそこからは人力で運ぶ、もしくはホムハル滝野間の高瀬舟に積み替えて、という運用ならいけるかもしれない。
ホムハル脇の渡河地点を開削するか迂回水路を開削して直通できる運河を造れば違うかもしれないが、運河を開削するというのは色々とリソースが足りないから直ぐにはできない。
やれるとすると将来的に運河を開削する場所を計画しておくぐらいか?
それと、闘竜灘の運河開削はダイナマイトを使えるようになった明治時代にやっとできた訳だから開削できるようになるのに時間がかかる。
津万滝の方は少なくとも江戸時代には高瀬舟が運航できていた(闘竜灘で積み替えを行っていた)ので遣り様はある筈。
「そんで、何時からやる? 十一月に間に合うか?」
「無茶言わんでください。最速で来春ですが、それだと陶石の保管庫が間に合いません」
「ん? 保管庫?」
「野晒しという訳にはいかんでしょう」
「陶石は風化してる方が良いぐらいだから、多少なら野晒しでも問題ない」
「あっ! そういや九谷でそんな事を聞いた覚えが」
「やろ?」
陶石は砕いて石英とカオリンに分離してカオリンを使うのだが、風化している方が砕きやすいしカオリンの質も良いらしい。
野晒しにして風化させても高が知れているが、風化しても問題ないというか風化していた方が良いので野積みでも大丈夫との事。
産業としてやる場合は陶石やその粉砕物は濡れないようにするそうだが、それは重量で売るから湿気させて水増ししていると信用問題につながるからとか。
「春に造って……」
「剛史さん、ちょっと待って。コロワケに係留する場所を造らないと」
「そっちもあったか」
「長期の係留を考えると湾処を造った方がいいか? どうだ? 義教」
「そうだな、オリノコも湾処っちゃ湾処だから手間は掛かるがその方が良いか」
湾処というのは、河川の本流と繋がっているが河川構造物で囲まれていて池のようになっている場所を指す。
河川の水域を制限して本流の水深や流速をコントロールして安定した船艇の運航ができるように、T字型の水制(仕切りや堤防みたいな感じの人工構造物)を並べるケレップ水制という方法を用いるとT字とT字の間に水が溜まり湾処ができる。
ケレップ水制は大阪の淀川や岡山の旭川などの大河川の下流域に設けられてきた事が多く、木曽川の付け替えを可能にした木曽川ケレップ水制群(明治四四年の竣工で、戦前では最大規模の水制群)は選奨土木遺産に選ばれている。
この湾処だが、本流と繋がっているにも関わらず流速は無いかあっても緩やかなので、水棲生物の棲み処や繁殖場所や避難場所になったりするので近年ではビオトープとして造られる事もあるし、淀川や木曽川などの既存の湾処は自然学習の場としても活用されている。
「冬の間に造って春から運用」
「留山が先です」
「くぅ……儘ならず」
どんなに急いでも来秋に第一便が届くあたりが最速かな?




