第29話 春が来る
春の足音が聞こえてくる頃に多目的施設の一段目の造成に目途が立った。
一段目だけでA案の三倍以上の掘削量があるのだが、多目的動力装置という重機を投入できたので通常の三倍のスピードで造成できている計算になる。
しかし、この快進撃もここまでとなる
何故なら春は他にも色々と忙しいから。
先ずは稲の苗作り。
美浦の源泉といっても良い米作りは絶対に外せない。
基本的に農業では苗半作といって苗作りの出来が収穫に思いっきり影響を及ぼすので絶対に手が抜けない。
二番目に家畜の出産ラッシュ。
牛とヤギ、それと狼の出産は春なので色々と手が掛かる。
今のところ人間の介在の必要性は低いが分娩に適した環境を整えるなどは必要。
三番目は鰹チャレンジ。
去年作った鰹節はまだあるが、今のペースで使っていると半年後にはなくなってしまうので、ここで補充しておかないといけない。
せっかく手に入れた鰹出汁を諦めるなんて無理。
まあ、獲れるかどうかは運否天賦だが。
他にも滝野交換市の再開準備や春の大潮というイベントもある。
春の大潮は他の季節とちょっと違う部分がある。
簀立ての再開というのもあるが、重要なのは海藻類の収穫である。
海藻類は秋から冬や冬から春にかけて生長する種が多く、海藻類は基本的には春から初夏にかけて一年分を収穫する。
これらは食べるだけでなく、建材や土壌改良材や肥料としての用途もあるし、ミツモコに提供するバイオブリケットのバインダーは褐藻から抽出したアルギン酸などの増粘多糖類なので切らすわけにはいかない。
つまり、春が近づくと造成工事に動員できなくなるので造成工事は一休みする事になるのだが、そこらはちゃんと作業計画に織り込んでいる。
予定では田植えが終わって多少は手すきができてから真夏にかけて造成工事を再開する事になる。
ただ、そのときに“またやりたくない。もうA案でいいんじゃない?”となるよう動いてきた。
造成工事にも色々な工程があるが、その中でも特に盛土作業が不評だった。
盛土は単純に土を盛るのではなく、表土をどけて更に地山を掘ってから土を盛っていたので“穴掘って埋めるって拷問!”とまで言われた。
しかし、別に嫌がらせの為にそういう工法を採ったわけではない。
地山にそのまま盛ると、地山と盛土の境界が滑り面になって地滑りする事がある。
高低差が小さくて盛土の量も少なければこの工法(東雲組では“素盛り”と呼んでいた)でも良いのだが、規模が大きくなると色々不都合が生じる。
そこで、ある程度の規模になると、地山を階段状に削ってから盛土するという工法(東雲組では段切り(段々に切土)してから盛るので“段切り盛り”とか“段盛り”と呼んでいた)が採られる。
こうすることで、しっかり転圧できて締固められるし、境界がギザギザになり地滑りが起きにくくなる。
そうは言っても素人目には“穴掘って埋める”なので不満が噴出したが、願わくば心が折れてA案で妥協してくれるよう一切の妥協なく作業してもらった。
造成工事は一休みだが、これからしばらくの間、匠は山雲組も使って生活施設部分の建築に取り掛かることになる。
俺は学校と再開される滝野交換市の準備との兼業になるが、終末処理場などの水回りの建設が待っている。
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休日に家で寛いでいたらハイハイを覚えた義智がだぁだぁ言いながら近寄ってくる。
思い通りに動けることが嬉しいのか、近頃は起きている間は常に動き回っている。
もっとも、動き回っていたかと思えば唐突に寝落ちすることもあって、ちょっと目を離した隙に居なくなって焦って探したら、押入れの布団の中とか下駄箱の中とかどうやって入ったのか訳が分からないところで寝ていたことも何度かある。
たいていは猫のキッテンが義智の居場所を教えてくれるんだけど、キッテンが義智の居場所が分かることと、どうやって義智がそこに至ったのかの二つが本当に不思議。
この突拍子もない場所で寝るのは佐智恵に言わせれば俺に似たらしい。
例によって俺の母親からの情報だそうだが、そんな事をしていた自覚はない。
義智はズリバイをすることなくハイハイを覚えたが、奈菜さんが言うには、そういう子も珍しくはないそうだ。
特に寝返りが上手な子は、寝返りでゴロゴロ転がった方がズリバイより楽に動けるのでズリバイせずにハイハイの段階に至るとか。
そう言われれば、義智は美結さんが“ローリング智ちゃん”と命名するぐらい寝返り回転移動が凄かった。いや、現在完了進行形で寝返り回転移動が凄い。
ハイハイができるようになってそっちの方が効率が良いと分かったのか意図的に転がりながら動く事は激減したが、就寝中の無意識ローリング智ちゃんは健在で、夜中に何度起こされたことか。
無防備な時に加減知らずの一撃を入れられると結構くる物がある。
近付いてくる義智を迎えに行くと機嫌を損ねるので座って待つのだが、到着した義智が達成感を感じさせる顔でよじ登ってくる。
そして抱っこしたらあっちに連れて行けとばかりに指差す。
俺を思い通りに動かせる乗り物とでも思っているのだろうか?
まあ、指差す方に連れていくんだけどね。
えっ? 外に行きたいの?
そうですか、分かりました。
分かりましたが、まだ外は寒いので防寒着を着ましょうね。
◇
腰もすわっているので抱っこしてもかなり楽になった。
重さは増しているけど、支えが少なくて済むのと抱き方によってはちゃんとしがみついてくれるので全然違う。
前向きにできる抱っこ紐に義智を据えて義智の指差す方に指差す方に進み、牧場で牛やヤギを眺め、鶏舎で鶏を見て、青々とした麦畑を通り抜けて、里川に架けている橋に至る。
そして橋の上から川面をじっと観察する義智。
橋からは造成工事の領域を見上げる事ができる。
ここから眺めると一期工事の法面が土の地べたが剥き出しなのが物凄い自己主張をしている。
実は一期工事では法面保護工をしていない。
盛土部分の法面は第二期造成工事を行うと土中に埋められる部分なので保護工をしない方が良いし、二期工事をしなくてもここを段々畑にするなら保護工はやらない方が良い。
二期工事をするにしてもしないにしても、どっちに転んでも法面保護工はやらない方が良いのでやっていない。
「だぁだぁ」
「ん? おお、お魚がいるね」
橋の辺りの里川の水温は他と比べて若干高く、冬場は他所よりも魚を拝める確率が高い。
水温が高いのは、極論を言えば美浦の排水が混じっているからで、終末処理場の排水は、処理する生活排水自体がお風呂の残り湯など排水そのものの水温が高い事が多いし、浄化時の発酵熱とか地熱なども混じるので、基本的には季節を問わず河川水よりも水温は高くなる。
なので、終末処理場の排水が里川に混じるこの辺りは冬場には避寒地みたいな感じで魚が寄ってくるようだ。
暫く魚を見ていた義智が右手の人差し指を咥えながら左手で魚を指さしてこっちを覗き込む。
これって食事のときに“あれを食べさせろ”と主張するときの仕草と同じ。
牧場や鶏舎でもやったけど、もしかして、ひょっとして、万が一だけど、本能で食材と見抜いて“あれを食べさせろ”って事?
だけど、仮にそうだとしてもまだあげられないよ。
「智ちゃん、そろそろご飯だから戻ろうか」
「まー」
瑞穂会館を力強く指差す義智。
家ではなく食堂がある瑞穂会館を指差すあたり、絶対分かっているでしょ。
義智は人生三回目説を信じそうになってしまう。




