第23話 美浦の出来事
美浦の変化も幾つかある。
まず最初は先駆け的な俺が言うのもなんだが、若衆の妊婦さんが大量発生している。
これは食糧事情をはじめとする生活環境がある程度整ったというのが背景にあると思う。
奈緒美は臨月に入っている。
文昭ももう直ぐお父さんの仲間入りだ。歓迎する。
雪月花と美野里は三箇月から四箇月ぐらいで、二人ともつわりが酷い状態にある。
将司、匠、しっかり支えてやってくれ。
妊娠中に恨みを買うと一生恨まれるからちゃんとするんだぞ。
うちの祖母は第一子になる親父を妊娠していた時の祖父の振る舞いを還暦を過ぎても事あるごとに文句を言い続けていた。
祖父も反省したのか叔父や叔母のときはちゃんとしていたみたいで祖母の口から叔父叔母のときの文句を聞いた事は無いけど、親父の時の話は孫の俺ら兄弟が暗唱できるぐらい折に触れて繰り返し繰り返し愚痴っている。
お母んの妊娠時に親父は祖母からぶっとい釘を刺され続けられたためかお母んを大層大事に扱ったそうで、お母んからそのあたりの愚痴を聞いた事はない。
孫にまで愚痴る祖母も祖母だと思うが、怒り心頭に発して怒髪天を衝くほどの何かがあって、祖母の心の中の絶対に許さない平原の石碑にそれが刻まれているのだろう。
本田家では二人とも第二子をご懐妊。
長屋の一室では流石に手狭になるだろうという事で、どこかのタイミングで“離れ”に移ってもらう予定。
夫人二人と子供四人の食い扶持を稼ぐのを頑張ってくれたまえ。
それから志賀希美子さん、大林早苗さん、柳原沙紀さん、それと美結さんが確定。
美結さんの妊娠を知らせたときは親父殿と義母さんから“婿殿でかした”と言われて肩をバンバン叩かれた。
まあ沙紀さんのところの父親は春馬くんだから親父殿の初孫はどっちだろうかって感じ。
このように確定しているのは九人だが、他にも妊娠しているかもしれない人もいるし、今後も増えていくと思う。
このまま推移すると、産褥期の母親と新生児を保護する何らかのシステムが必要になるだろうし、その後は間に合わせではない保育園、そして学校も何とかしないといけない。
学校については万一の時の避難所を兼ねたような物を目論んでいるが、うちらはその学校に住む可能性がある。
うちも大人三人子供三人になるからさぁ。
◇
次は牛さんの話。
美野里の馴致と牧童として雇った娘さんたちの世話が思いの外上手くいって、美浦に拉致してから一年に満たないがとても大人しくしている。
仔牛の引き離しもできて母子ともに順調で、春に仔牛を産んだ二頭からは今も牛乳を搾乳できている。
その美浦で採れる牛乳なのだが現代日本で市販されている普通の成分無調整牛乳とは少し異なり、私見だがLTLTのノンホモのジャージー牛乳に近い印象を受けた。
違いの一つ目は乳質の差で、一言でいえば“濃い”という事。
乳質は乳牛の品種でほぼ決まるのだが、現代日本の乳牛の九分九厘は経済性に優れるホルスタイン種が占めていて、特に断りが無い限り日本で売っている牛乳はホルスタイン種の牛乳になる。
ジャージー種などの乳質が良い乳牛はホルスタイン種に比べて経済性が悪いので、それらの品種を育てている牧場は日本には少数しかない。
欧州では乳脂肪分が多く乳質に優れるジャージー種は牛乳としてはもちろんの事、バターや生クリームなどの用途があるのでかなりの数が飼育されているし、チーズ王国のスイス発祥で品種名にもスイスとついているブラウンスイス種はタンパク質が多くチーズ生産に向くのでこちらも結構飼われている。
ホルスタイン種一色という日本はちょっと特異な存在かもしれない。
それはともかく、経済性には劣るということは基本的には値段が高くなるし、希少性から供給量も供給ルートも限られているからその分のプレミアムも乗るので日本ではジャージー種やブラウンスイス種の牛乳は結構なお値段になる。
二つ目は脂肪球を細かくして生クリームと脱脂乳に分離しにくくするホモジナイズをしていないノンホモ牛乳だという事。
ホモジナイズされたホモ牛乳は分離しにくく品質を安定させやすいので賞味期限も長くとれて流通に乗りやすく、ノンホモと謳っていなければホモ牛乳と思ってよい。
それとノンホモ牛乳は脂肪球が不揃いで大きいので人間が消化しづらい傾向があって腹を下す人が一定数いることもあり、ほとんどの牛乳はホモジナイズされている。(牛乳でお腹を下すというと乳糖の消化酵素が不足していて起きる乳糖不耐症というものもあるが、こちらはホモ牛乳かノンホモ牛乳かは関係ない)
これだけだと良いことなしに見えるが、それは一般の流通にのせるという点での話であって、脂肪球が均一で平坦な味や風味になるホモ牛乳とは味や風味が異なり、ホモジナイズという高圧をかけて物理的に脂肪球を潰す工程がなく変性が少ないので慣れや好き好きはあるかも知れないが味は良いと思う。
美浦ではホモジナイズできないからしていないので狙ったわけではない。
三つ目は殺菌方法がLTLTなどと言われる摂氏六三度で三〇分掛けて殺菌するやり方である事。
牛乳の殺菌は主に摂氏一二〇から一三〇度で二、三秒殺菌するUHTが使われていて、摂氏七十数度で十五秒程度殺菌するHTSTやLTLTで殺菌しているものは限られている。
他にも常温保存が可能なロングライフ牛乳というものがあり、こちらはUHTではあるが殺菌温度は摂氏一三〇から一五〇度と普通のUHTより高温で殺菌される。(LL牛乳は容器もアルミ箔を貼って水や空気や光を遮断するようにしているし、充填するときも無菌でないといけないなど殺菌以外にも常温保存するための色々な工夫がほどこされている)
殺菌温度が高くなるとそれだけ牛乳の成分が熱変性するので、LL牛乳とLTLTだと素人でも分かるぐらい味や風味に違いがある。
この三点は現代日本の牛乳の中では生産量の少ない希少な存在で、“LTLT法”の“ノンホモ”の“ジャージー種の牛乳”となるとこれを生産している牧場は全国でも数えるほどしかないし、流通にはのせづらいから直販ぐらいしか中々入手できない。
俺はこのスペシャルな牛乳を口にする機会があった。
美野里がどこかのグルメ漫画の主人公のように“本物の牛乳を味わわせてやる”と言って連れて行かれた牧場で飲んだことがあるのだ。
美浦の牛乳はそのスペシャルな牛乳には遠く及ばないが、安価に売っている成分無調整牛乳とスペシャルな牛乳のどちらに似ているかと言われると個人的にはスペシャルな牛乳に近いと答える。
その牛乳なのだが、搾乳量が限られているしバターやチーズなどの乳製品も大事なので飲用の牛乳は中々確保できない。
これは牛乳の絶対量の問題でもあるのでこれを解消しようとすると飼育規模を拡大するしかない。
それと、当面は頭数を増やすことを目指すので牛肉はまだ無理。
繁殖用の雄牛はそんなに数は要らないので、必要数を超える雄が産まれたら去勢して肥育して食べる事もあるだろうが、今年産まれたのはいずれも雌。
もっとも、美浦に今いるのは美野里が藤蔓と名付けた雄牛のハーレム群だったようで、このままだと近親交配で遠からず行き詰まると思われる。
第二第三のオーロックスの発見と馴致が望まれる。
◇
最後に収穫祭でもある瑞穂祭の日程が今年から十一月後半から十二月上旬に変更された。
初年度は台風その他要因があって十一月末に順延したが、去年までは十月末に開催としていた。
十月末だと稲刈りも粗方終わりそれを祝ってお祭りというのはある意味では分かり易かった。
しかし、十月末だと早稲はともかく晩稲は微妙な時期だし、滝野関係は最後の交換市の準備などで結構忙しい。
それと去年のムィウェカパで分かったが、ムィウェカパがある年は後始末含めて十一月の年内最終の交換市が終わるまでは落ち着かない。
去年は特殊要因もあって年内一杯は結構バタバタしていたが、それを差し引いてもホストを務めるというのは大変だった。
ホムハルが辞めたがるわけだ。
それらを踏まえて、今年から年内最後の滝野交換市の次の大潮の後にしようという事になった。
滝野交換市は満月を中心に行うからその後の新月の大潮の後に瑞穂祭という日程になる。
大潮の後というのは海の幸の関係。
年によっては日中にあまり引かない方の干潮になるかもしれないが、それはそれで仕方が無い。
それとゴールデンタイムに大きく引くスーパー大潮だと去年のようにひどい目にあう可能性も捨てきれないが、それも致し方無い。
季節変動とか色々な要素があるから絶対ではないが、ある大潮から約一年後の大潮は干満差や干満時刻はかなり似る傾向がある。
この“ある大潮から約一年後の大潮”というのは太陰暦での一年(三六〇日)に近似するので、太陽暦でみれば五日間ぐらい前倒しになる。
なので、去年のスーパー大潮は十一月だったが今年は十月末にスーパー大潮がきていた。
実は、このスーパー大潮は初年度の瑞穂祭の直前の十一月末にあったものが遷移していったものだったりする。
今年の厨房班は宣幸くんの成長という戦力アップもあり、去年と違って簀立てに魚群が突っ込みまくることもなく、去年のような惨状にはならず保存食も適度に確保できた。
今年の瑞穂祭前の大潮はスーパー大潮ではなくノーマル大潮。
何れはスーパー大潮になる年が巡ってくるが当面はノーマル大潮の筈。
それと瑞穂祭が十一月下旬以降になったため、簀立てもそこまで残す事になった。
定置網の一種である簀立てだが、簀立ては構造的に弱い構築物なので春に設置して秋に撤去し、冬の間に網を補修したり新調するというサイクルを採っている。
去年まではこの時期のスーパー大潮を最後に撤去していたが、今年はその後二回の大潮を超過勤務する事になる。
これまでと違って日中に撤去作業ができなくなることもあるかもしれないがこれも仕方が無い。