第21話 上の口からの使者(3)
そうこうしている内に滝野に行っていた第一陣が帰ってきた。
第一陣は織姫橋の渡り初めとサマーキャンプに行っていた者たちで、残りは八月の交換市が終わってから帰ってくる。
将司と雪月花が帰ってきたので上の口開拓関連の話になるのだが俺も呼ばれている。
有栖ちゃんも帰ってきていて、開口一番“楽しかった! また行きたい!”と言い、風呂から上がった後は義智に“楽しかった”“トモちゃも行こう”など延々と話しかけているという実に微笑ましい一幕を堪能していたのに……
しかし、交換市を差配するために滝野に居残った匠の代わりと言われるとぐうの音も出ない。
上の口に提供する下水処理装置は川合の下水処理装置を作成したときの予備を充てることになった。
現代日本と違って自然任せの割合が非常に高いし漆原剛史さんからすれば専門外の形状や大きさや焼成方法なのでどうしても不良品がでてしまうのは仕方が無い。
だから、正・副・予備じゃないけどこの手のものは同時に複数作ってリスク分散を計っているので予備品は存在する。
川合で上手くいかなかったらお蔵入りになるので腐敗槽の量産はしていないが、便器と陶管は美浦やオリノコで実戦証明があり、普及を含めて使途があるからある程度作りだめしているので数が足りないことはないだろう。
「蒲があるのですか。蒲黄や穂綿がいただけるならそれなりの値を付けます。幾ばくか頭金を頂けるなら蒲黄と穂綿での後払いはありですね」
雪月花が下水処理施設の対価について述べている。
「ほおう? ほわた? ですか?]
「蒲黄は蒲の花粉を乾燥させたもので、止血や鎮痛作用などがある生薬です。穂綿は綿毛を生やした蒲の穂の事で、燻すと蚊取り線香の代用ぐらいにはなります。どちらも特に難しい工程はありませんのであるなら使わない手はありません」
初夏の開花時期に上にできる雄花である花穂を刈り取って紙を敷いて乾かせば花粉が採取できるし、秋に下の雌花の穂に実が生って綿毛が出てきたあたりで刈り取れば穂綿も難なく採取できる。
つまり蒲の群生地があれば蒲黄や穂綿の採取は簡単なのだが、残念ながら美浦周辺では見つけられていない。
あると便利ではあるが必需品というわけではないので、何かの拍子に入手できればラッキーぐらいの優先順位だった。
「基本的には薬ですから大量には要りません。ただ、生薬なので毎年更新できるならありがたいですね。上手くいったら二年ぐらい只でいただけたら幸いです。以降はこちらも相応の対価を用意します」
「なるほど。蒲黄と穂綿の使い方は……」
「もちろん伝授いたします。薬も過ぎれば毒になりますから」
「忝い」
幾ばくかの頭金は冬までに分納の形で妥結した。
冬までというのは施工の監督をする俺がまとまった時間がとれるのが早くて十二月になるからで、その間に頭金を積んでもらうことになった。
◇
下水処理の話は一段落したのだが、話は美浦ではどうやって学校的なことをできたのかに転がっていった。
彼らは小学生や中学生の子供がいてどうするかを決めかねているうちにここまできてしまったらしい。
美浦では子供たちが学齢になったら教育するというのは当たり前のこととして受け入れられており(オリノコの関係で一年遅れたが)すんなりと開校できたのでよく分からなかったが、美浦の構成員で拉致当時に学齢だった者が一人もいなかったのは僥倖だった。
小学一年生から順々にステップ・バイ・ステップで拡充していけば済むのだから、学習進捗が全く異なる者を相手に多学年の授業という最終形にしないといけないのと比べれば難易度は天と地ほどの差がある。
「そういう意味ではうちの子らはラッキーだったのかな?」
「読み書き算盤の算盤が珠算の方だったのは吃驚したけどノリちゃん何で?」
「珠算は四則演算のエッセンスが詰まっているので」
珠算では“一の相手は九とって十”など「足すと十になる組」を暗唱などをして覚える。
そうすると“ある桁で「八」を足すときは「八の相手の二」をその桁で減らせるなら「二」を減らして左隣の桁に一を足し、減らせないならその桁に「八」を足す”という珠算の基本操作がスムーズにできるようになる。
昨今では算数の授業に「サクランボ計算」というものがあるらしく教育実習のときに接したけど、この「足すと十になる組」と「サクランボ計算」は同じ考え方なので俺は違和感はなかったし「サクランボ計算」という名前を付けて普及させたのは良いことだと思っている。
算数も珠算もある意味では一桁同士の四則演算を順々に行うことで複数桁の四則演算ができるという仕組みなので、極端なことを言えば「足すと十になる組」と「九九」を覚えれば四則演算はマスターしたも同然といえる。
珠算をある程度やれば実物の算盤がなくても空中で珠を動かす指の動きをして暗算できるようになるし、もっと慣れればそれさえもなく頭の中だけで暗算できるようになる。
更に進めば“算盤を頭の中で操作して計算する”というより“答そのものが分かる”という方が感覚的には近くなる。
例えば“一,〇一〇 × 七 = 七,〇七〇”などは一々計算しなくても答が分かると思うのだが、その範囲がとても広くて加減算なら何桁でも、乗除算なら三桁ぐらいなら計算しなくても答が分かるようになった。
そこまでいくと書類を一瞥しただけで答が分かるようになる。
そういう人間電卓みたいな子供がいれば有効活用したくなるのが親というものなのか、伝票や帳簿の検算をよくさせられた。
親父は悪筆だったから計算よりも「0と6」「1と7」「5と6」「7と9」の判別の方に時間が掛かった覚えがある。
俺はそういう風にステップ・バイ・ステップで計算能力を身につけたのだが、中には生得的に“計算しなくても答が分かる”人間もいる。例えば佐智恵とか佐智恵とか佐智恵とか……
そして羨ましいことに佐智恵は一番上の桁(答が五桁の整数なら万の位)から答が分かるらしい。
算数、特に足し算だと一番下の位(整数なら一の位)から確定させていくのだが、実は実用面を考えると佐智恵のように上の位から確定させていく方が有用だったりする。
科学の世界だと有効数字や有効桁数という物があって、意味がある値の範囲を上位何桁の形で決めることがあるし、実社会ではある桁を基準にして数を丸めるという事が多い。
そうする理由はあまりにも小さ過ぎる数は誤差として省く方が有用な事が多いからで、分かり易い例としては株式会社の決算報告書は百万円単位で記載される事が多いという事実が挙げられる。
例えば決算報告書に一三七百万円(一億三千七百万円)と記載されているときは、実際には一三六,五〇〇,〇〇〇円以上、一三七,五〇〇,〇〇〇円未満の範囲のどこかなのだが、最大でも誤差は五十万円にしかならない。
基本的には億単位以上の金額が並ぶ中で最大でも五十万円の差というのは決算の概要を示す目的からすると無視して問題ないというか無視した方が決算報告書の目的にかなう。
他にもアナログな物をデジタルで表すときに意味がある桁までしか観測しないという事もある。
例えば気温だと摂氏の小数点以下一桁までぐらいまでしか実用上の意味がないので小数点以下一桁もしくは整数に丸める。
世の中はそういった有効桁数や適当な桁で丸めた数の方が有用なことが多いので、実は小学校の算数で習う下の桁から計算するより上の桁から計算する方が手っ取り早いのは事実としてある。
佐智恵は中間計算なしでいきなり一番上の桁から答を書くから学校のテストでは点はとれず、先生の小言も糠に釘で小学校の算数の評価は“がんばりましょう”で中学の数学の評価は五段階評価で二だったけど、答だけを書くマークシート形式のテストや模試は満点という……
「現実的に作れるデジタル計算機が珠算だからな。いずれ機械式計算機も作りたいが」
「マサちゃん、機械式ちゅうとタイガー計算機か?」
「ご存じなんですか?」
「電卓がでてからはあんま見んようになったけど、子供のころにタイガー使ってるんを見たことある。こう、値をセットしてぐるっとハンドル回して回した回数で計算すんやろ?」
「それです。中にはコンピュータにつながる形式もあるので」
「将司、話が脱線している」
「すまん」
雪月花の軌道修正に素直に従う将司。
うん、それが正解。
「そういう訳で、美浦は諸条件が良かったので、そちらのご参考になるかは分かりませんが」
「……国語と算数の教科書を譲ってもらうことはできますか?」
「義教、どこまでできてる?」
「四年生までは原版がある」
教科書は今後も使い続ける予定なので初期の謄写版をもとにしたりして原版を作っているが、史郎くん達の進捗に追い付いていない。
追い付いていないというか先回りして原版を作ったところもあったのだが、あっという間にぶち抜かれてしまい、最新の教科書は手書き写本。
写本作業が原版を作る時間をゴリゴリ削るので原版作成が押せ押せになっていて泣きたい。
「分かった。あとは紙とインクか。春馬さん、どうですか?」
「……製紙用に水酸化ナトリウムは新たに作らないと駄目ですね」
木片などを機械的もしくは化学的に解きほぐして繊維にして製紙するのだが、美浦ではチップを苛性ソーダで煮るソーダ法という製法でパルプを得ている。
現代日本では、ソーダ法を改良して収率がよくパルプの強度も強くなるクラフト法という製法で得られるクラフトパルプが多用されていて、KPを用いたクラフト紙は現代日本では紙の多くを占めている。
「それとインクも油類は春に使い切っているので直ぐには……少なくとも秋以降になります。紙もインクも使用量を知りたいので必要部数が分かるとありがたいです」
「ありがとう。それで、村井さん、長岡さん。部数はどれぐらい要りますか? 国語と算数以外の生活、理科、社会科はどうしますか? もっとも生活と社会科は現状だと役に立たないものはオミットしていますが」
「版下か見本があれば見せていただきたいのですが」
「義教、見本、大丈夫か?」
「大丈夫だが、別座敷の方が良くないか? 必要部数は後で俺から連携する、でどうだ?」
「そうだな。村井さん、長岡さん。それでどうでしょうか」
「それでお願いします」
「では後ほどお持ちします」
「そうそう! 胡桃や松脂があれば持ってきてもらえると助かります。両方ともインクの原料です」
「うちのが言うにはオニグルミは川沿いに一杯あるけど胡桃はないらしいんだが」
「オニグルミで大丈夫です。秋ごろに実りますので。欲しいのは仁ですけど殻のまま持ってきてもらっても大丈夫です」
「それなら」
「お願いします」
教科書は各三部ずつという事になった。
それと今後教科書を刷ることがあったら三部ずつぐらい欲しいとも。
将司と雪月花の内諾は受けていたので了解した。
美浦での用事を済ませた二人は翌朝上の口に帰っていった。




