第20話 上の口からの使者(2)
世間話レベルで上の口の状況を聞いたところ先ず先ずといったところのようだ。
キャンプ場にも簡単な大工道具があって日曜大工ぐらいはできるそうで、取り敢えず寝食する場所は確保できているとの事。
栽培に関してはジャガイモを中心に据えたそうで、春ジャガイモは収穫済みで今は秋冬ジャガイモの準備中とのこと。
ジャガイモは比較的栽培が容易で栽培期間も三箇月程度と短いにも関わらず収量も多く十分に主食を張れる作物なので、ジャガイモをメインにしたのは悪くない選択だと思う。
連作障害が起きやすいとか、意外と病害虫に弱いとか、保存性があまりよくないといった欠点もあるが、それを上回るメリットがあると思う。
美浦もオリノコも最初期はジャガイモだったのは栽培期間の短さと収量の多さがポイントだった。
あと、気休めに近いがジャガイモは全草にソラニンなどの毒性物質があるので鹿の食害にあい難いという点でも鹿が多かったあのあたりでは利点といえよう。
肝心の収穫量だが食べられる分だけで一トンぐらいになったらしい。
畑の面積は三反から四反ぐらいだそうなので、反収にすると二百後半から三百前半ってところか。
化学肥料も農薬もなしだし、一作目という事を勘案するとそう悪くはない。
「本によると一〇アールで四トン採れるらしいんですけど」
「そりゃ無茶ですって。その数字は条件が良い土地で化学肥料や農薬が十全に使えての話です。欧米だと平均四トン超える国もありますが世界平均は半分の二トンぐらいです」
「日本は?」
「日本は三トンぐらいですけど、これは栽培面積も反収もずば抜けている北海道が四トン近くあるからで、都府県別でみたら一トン後半から三トン未満って感じです」
北海道以外だと条件が良い農地は田んぼにする事が多いという事情もあると思うが、ジャガイモは寒冷地の方が成績がよいのも事実。
「四トンってのは嘘ってこと?」
「いや、嘘ではないです。北海道だったら反収四トン超える畑は珍しくないですから」
「美浦はどれぐらいあるの?」
「この春の反収は一トンって感じです」
「一トン……三倍以上か」
「まあ、美浦はプロの農家がいますから」
「万にその道を知れる者はやんごとなきものなりか……」
「大井と宇治ほどの差は無いと思いますよ」
“万にその道を知れる者はやんごとなきものなり”というのは徒然草の中の『亀山殿の御池に』の結びの一文で、意訳すれば“何事でもそうだが、その道のプロというのは尊敬に値する”といった感じになる。
『亀山殿の御池に』は“素人が金と時間と労力をいくら費やしても作れなかった揚水水車をプロはあっという間に作ってしまった”という感じのお話で、大井の民が素人で宇治の民が玄人として描かれている。
「ほう……そうきますか」
「何? 長岡さん、何の話?」
「いや、私が徒然草の一文を出したらその段の登場人物を使って返答したと。咄嗟によく返せるものだと」
「徒然草は習った筈だけど……二人ともよく覚えていますね」
「まあ、そっち方面の仕事なので」
「現役の学生でしたし」
個人的には徒然草は『能をつかんとする人』や『ある人弓射ることを習ふに』といった人生訓めいたものは好きだし、そういった段は古典の授業ではなく道徳の授業に使った方が良いのではないかとすら思う。
あと、危険な現場がある身としては『高名の木登り』も心掛けたい。
「学生だからって覚えてるのは少数だと思うけど……そうそう、話を戻すけど、緑化したジャガイモが三分の一以上……下手すりゃ半分近くあったんだけど、そういうものなの?」
「うちではそうそう緑化芋はないんですけど……どの段階で緑化します?」
「掘り出したら緑化してるのがゴロゴロと」
「それなら土寄せが不十分だったんじゃないでしょうか」
「土寄せ?」
「定期的に株元に土を被せて芋に日光が当たらないようにする作業のことです」
「それか!」
「……やっぱりうちらは大井の民だわ」
キャンプ場には奈緒美が作った栽培マニュアルがある筈なので聞いたところ、書いていることが分からなかったとの事。
美結さんは分かりやすいと評価していたが、無意識に専門用語が使われていたり、農業関係者にとっては常識なものが省かれていて、農業の基礎知識なしでは読み解けない物だった可能性がある。
オリノコと川合向けに栽培マニュアルを作ったときは、奈緒美に作ってもらったマニュアルにかなり手を入れて平易な物に作り替えた覚えがあるから、蓋然性は高いと思う。
「……先住者向けの栽培マニュアルがあるんですけど要ります?」
「先住者向け? 文字読めるの?」
「平仮名、片仮名、アラビア数字は教えましたので読める者はいますよ」
「ここの子供たちは?」
「学年的には小学三年生ですが、今教えているのは一部中学生レベルも含まれています」
「え? 中学レベルを教えられるの?」
「ええ、こっちが焦るぐらい理解が早い子達なので」
「いや、そっちじゃなくて教師の方」
「現役の高校生大学生だったんですからそれぐらい教えられますよ」
昔、小学生の問題を芸能人が解けるかって単発番組があってインテリ系のタレントが悪戦苦闘していたが、社会人なら小学校レベルでも忘れたり抜けがあったりするのは普通だと思う。
俺は受験生だったから全問分ったけどインテリ系のタレントが間違うんだから普通の社会人が覚えていなくても仕方がない。
それに地図帳の統計欄に載っている何かのランキングの順位や数値なんて一位や最下位とか精々三位ぐらいまでならともかくそれ以外は普通は習わないし覚えない。
日本で一番高い山は長年日本に住んでいたらほとんどの人が答えられると思うし何なら標高も答えられると思う。
だけど、二十二番目に高い山の名前と標高を即答できる人は少ないと思う。
ちなみに日本で二十二番目に高い山は剱岳で、標高は二,九九九メートル。
二十一番目と二十三番目は覚えていない。
「何か納得し辛いが……えっと、栽培マニュアルも欲しいけど、小学校低学年の教材ってある?」
「教科書は作っています。これから学齢になる子もたくさんいますから」
「できれば授業風景を見てみたいんだが」
「今は夏休み中で再開は稲刈りが終わってからなので十一月からです。その時に機会があれば」
「機会があったらよろしく」
「ええ、それぐらいなら」
美浦で授業参観ぐらいなら問題はない。
万が一、上の口やキャンプ場に行っての出張授業と言われたら断固拒否の一手。
片道一日かからないオリノコでも難儀したんだから無理。
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栽培マニュアルは俺の独断で渡してもいいだろうが、それ以外については雪月花たちが帰ってくるまで話を進められない。
予定ではあと二、三日もすれば帰ってくることになっているので出直すか待つかを聞いたら待つというので滞在してもらっている。
それとタダ飯には気が引けるのか日中は薪割りなどで汗を流している。
あっちでも燃料は薪が中心なのか薪割りする姿は結構様になっている。
それはいいのだが、今日の昼食の食器を下げに行ったら二人の間に剣呑な雰囲気が漂っていた。
いや、長岡さんが村井さんを責めるような感じで、村井さんが困惑しているという感じかな?
村井さんが言うには、昼食後にこれまでの美浦での食事の話になったのだそうだ。
“遣美使だけ美味いもの食いやがって”という事なのか?
食い物の恨みは恐ろしいというのは分かるが、それはちょっと逆恨みじゃないかな?
キャンプ場と美浦の間は徒歩だと四、五日ぐらいかかる。
その間は十キログラムを超える荷物を背負って歩き通しで山越えもあるし、夏場だと藪漕ぎチックな事もしないといけない。
途中の宿泊も宿屋も何もないから簡易休憩所でも野宿よりはマシ程度が関の山で、キャンプ場と美浦の往復は決して楽な行程ではない。
辛い仕事をしているんだから多少の役得があっても罰は当たらないと思う。
話の流れとしては今回は大当たりで酷い時もあったとあんな話やこんな話をしたらしい。
うん。確かに酷い時もある。
いつだったかは、もはや美浦でも滅多にない奇食系の日に当たって難儀していた。
あれは蜂の子だったかな? よく人が立ち入る場所や養蜂場の近くでスズメバチの巣を見つけると駆除するのだが、駆除した巣にいる幼虫や蛹を美野里が見逃す筈はなく調理させられる。
他にも消費しないといけない食材を大量に抱えていた時とかに来ることもあって、美浦としては“食べる口が増えるのは大歓迎!”とばかりに、なんて事もあった。
ここ何回かは大潮のころに来ていたので貝尽くしだったかな?
しかし、何が地雷だったのかは分からないが長岡さんが甚くご立腹されたらしい。
「多少の役得があってもいいんじゃないですか?」
「そうじゃない。何日も野宿でまともな飯にありつけないんだ。そんな些細な事に文句は言わん。だが、近頃は貝尽くしが多くて閉口してるとか……ご馳走になってる身で贅沢言うなって。何なら代われっての」
「……貝、お好きなんですか?」
「うっ……ええ、まぁ」
「それじゃあ、夕食には何か貝を一品付けましょうか?」
「是非お願いします」
「私は結構です」
「分かりました。そうそう、ここ何回かは大潮のころに来られているので貝の消費が急務でして……貝尽くしが続いて申し訳なかったです」
「ん? ひょっとして大潮のころに来れば貝を採り放題、食べ放題?」
「冬場を除けば簀立ての具合によっては魚になるかもしれませんが、食べてもらえるなら歓迎しますよ。貝殻はいくらあっても困りませんから」
三和土や漆喰の原料である貝灰は本当に幾らあっても困らない。
それに貝殻、特に牡蠣殻を粉末にしたボレー粉は鶏卵を得るには必要な飼料だし、ガラス原料の炭酸ナトリウムや料理や清掃に重宝する炭酸水素ナトリウムが得られるソルベー法には炭酸カルシウムの煆焼(高温にして熱分解する事)工程も入っているし、燃料油や酢酸セルロースの製造過程でも水酸化カルシウムを使う。
もっと身近で切実なものとしては上下水道の消毒にも使っている次亜塩素酸カルシウムの製造にも水酸化カルシウムは欠かせない。
「今は端境期なんでアレですけど、秋から春にかけては牡蠣と赤貝を中心に狙っています」
「赤貝!?」
「ええ。結構採れるんですよ」
「マジで?」
「佃煮にするぐらい採れます」
現代日本だと江戸前寿司の高級寿司種の一つの赤貝だが、昔は一山幾らといった感じの安い貝だったらしい。
内湾や浅瀬や干潟に生息するので比較的簡単に採取できたため、昭和三十年代以前は平成日本の金銭価値に直すと一〇〇グラムで五〇円ぐらいで、生でよし煮てよしの赤貝は庶民の食卓を飾る一品で、安くて美味い二枚貝の代名詞だったらしい。
しかし、汚染の影響を受けやすい内湾に生息していたため、高度経済成長以降は数が激減していて輸入物に頼ってなお高値がつくようになってしまった食材の一つ。
現状では海洋汚染なんてほぼ無い状態なので、赤貝は黒浜とか星降湾に結構いる。
赤貝を狙うのは食味もあるが、貝灰のためという側面もある。
貝殻を煆焼して作る貝灰だが、実は赤貝をはじめとするアカガイ属(赤貝の近縁種)の貝殻で作る貝灰が最高品質とされている。
匠がいうには、石灰岩を煆焼して作る石灰と貝殻を煆焼して作る貝灰は明らかに違うし、貝灰の中でもアカガイ属の貝殻で作る貝灰が一番良いとの事。
俺はアカガイ属の貝灰と他の貝灰の違いは今一つ分からんから、匠は違いがわかる男だという事にしておこう。
「冬の野宿にも耐えるから、荷物も頑張って運ぶから、お願い、冬にこさせて」
「…………」
えっと……ちょっと長岡さんが幼児退行してる?
食い物ってそこまで力あった?
その日は黒浜で浅蜊をちゃちゃっと採ってきて夕食に剥き身の串焼きを三本付けたら物凄く感謝された。
やろうと思えば栄螺や鮑もいけたのだが、それはそれで面倒な事になりそうなのでやめた。