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文明の濫觴  作者: 烏木
第9章 濡れぬ先の傘
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第19話 上の口からの使者(1)

今日は春馬くんを連れて終末処理場に来ている。

終末処理場の点検整備をできる人材を増やすのを目的として同行させている。


「採取はこうやる。やってみて」

「こんな感じですか?」

「大丈夫。もしかしてやったことある?」

「いや初めてですけど」

「ならかなり筋が良い」

「ども」

「じゃあ、坂口コルベンに入れて検温して」


坂口コルベンというのは、『酒の博士』と呼ばれた発酵や農芸化学の世界的権威であった坂口謹一郎博士が微生物を液体培地を使って振盪(しんとう)培養するために作った器具で振盪しても飛沫が飛びにくい上に通気性も確保されているというもの。

コルベンというのはフラスコの独語なので、化学の世界では坂口フラスコとか振盪フラスコと呼ばれることも多い。

俺は師匠筋が坂口コルベン呼びだったので坂口コルベンと呼んでいるが、佐智恵は振盪フラスコ、奈緒美は坂口フラスコと呼んでいる。


「二七.二度です。川や海より高いですね」

「微生物の活動熱だな。河川水と同じだったら活動してないって事だから」

「なるほど」


排水の水質検査では、水温、透明度、pH、臭気、浮遊物質(SS)溶存酸素量(DO)生物化学的酸素要求量(BOD)、大腸菌群数などを調べることが多い。今挙げた検査だけで万全という訳ではないが、現代日本だと取っ掛かりの水質検査としてはこれぐらいは行う。


他にも検査項目は色々あるがカドミウムや水銀をはじめとした重金属とか農薬などの毒性物質の検査はその存在を疑うに足る場合に行われるもので、そうでないケースでは普通は初手でそこまでは調べない。


現代日本ほど各種インフラが整っていない美浦では先に挙げた取っ掛かりの検査項目の中にも検査しないものや精度が非常に劣るものなどがあり十全にできる訳ではないが、やれる範囲で検査はしている。

水質検査で水温だけは採取したその場で測らないと駄目だが、他の検査項目は試薬とか器具がいるので化学室(謎工房)で検査している。


「サンプル採れたら機械部の検査な。チェックリストの順に見ていって」

「はーい」


終末処理場の点検整備は水質検査だけでなく、管が詰まっていないかとか駆動部がちゃんと動いているかとか沈殿物(汚泥)浮遊物(スカム)の量の測定と場合によっては除去とか色々とある。


微生物の働きで汚濁物質を分解しているので寒暖や汚水濃度などによって処理の具合が変わってくるので、汚泥の量を調整したり好気処理中の水の一部を嫌気処理に戻したり色々調整しないといけない。

放ったらかしで浄化されるわけではない。


下水処理についての理想を言えば終末処理場や合併処理浄化槽のようにBODの除去率が九割以上で処理水のBODが一リットルあたり二〇ミリグラム以下になるまで浄化してから放流したい。


しかし、そこまで処理するには強制的に酸素を送り込む動力と、ある程度難度のある点検整備や運転操作が必要なので、動力は何とかなるにしても点検整備や運転操作を考えると美浦とオリノコ以外に設置するのは少々厳しい。


衛生面その他諸々を考えると先住者集落やキャンプ場及び彼らが開拓する場所でも下水処理を普及させたいのだが、それには無動力で稼動して整備も清掃や汲み取りといった簡単なものですむ浄化方法が必要になる。



「こんにちは」

「……こんにちは」


春馬くんに調整方法を説明していたらキャンプ場の村井さんと……えっと……誰だっけ? そうそう、長岡さんが声をかけてきた。


この組み合わせはどういうことなのだろう。

お役御免になっているのであれだけど、交易()の時期ではない筈。

あと、美浦では初顔の長岡さんがいることと宗教団体(W.C.)の北さんが居ないような……


「もうそんな時期でしたっけ?」

「いやいや、ちょっと別件で」

「そうですか。実は今は南部をはじめとした面々は留守にしていまして」

「アポなしで来てますから。それとお話は東雲さんにでして。こちらにいると伺ったので」

「そうですか。あと少しで終わりますから離れでお待ちいただけますか? 終わり次第伺いますから」

「よろしくお願いします」


何の話かな? まあ上の口開拓絡みだと思うけど。


■■■


「とまあ、こんな感じにすれば恐らくは大丈夫だと思います」

「なるほど」

「こちら、(あし・よし)笠菅(かさすげ)真菰(まこも)(がま)の画像です」

「これ……ガマ? この黒い棒みたいなのは近くの川原で見かけた」


彼らの話は開拓中の上の口の生活排水の処理についてであった。


無動力で稼動する浄化装置として、二〇一五年の段階でも日本で二十四万基ぐらいが現役という腐敗タンク式浄化槽というものがある。

腐敗タンク式浄化槽は最初期の浄化槽の一つなのだが、この形式の浄化槽は他の形式の浄化槽と比べて浄化能力が著しく劣っており、現代日本で新設可能な浄化槽のBODの除去率は九割以上あるのだが、腐敗タンク式浄化槽だとBODの除去率は五割から精々七割ぐらいしかない。

BODの半分は処理できるので有ると無いとでは大違いではあるが、他の形式に比べてあまりにも低性能なので日本では一九八〇年代には腐敗タンク式浄化槽の新設はほぼ禁止になっている。


しかし、俺の知っている浄化方法の中で無動力で稼動するのは腐敗タンク式浄化槽しかないし、幾ら低性能とは言え現状の人口密度だとその程度の負荷ならおそらく環境への影響はほぼ無いかあっても軽微だとは思う。


とはいえ、そのまま放流するのも芸がないので放流前にワンクッション置いてから放流する策を考えた。

具体的には抽水植物(ちゅうすいしょくぶつ)を植えた湿地的なものを造ってそこを経由してから土壌浸透させたり河川に放流するというもの。


抽水植物というのは、(あし・よし)笠菅(かさすげ)真菰(まこも)(がま)、といった比較的水深の浅い場所や頻繁に水没するような場所で水底などの土壌に地下茎や根を張って葉や茎が水面から出ている川岸や用水路や湿地帯によく生えている植物のこと。


下水処理の大半はBODの除去ではあるが、富栄養化の原因物質であるリン分や窒素分といった栄養塩の除去も可能なら行いたい。最新の浄化槽の中には脱窒素や脱リンができる浄化槽も存在する。


窒素分とリン分は肥料の三大要素(残り一つははカリウム)なので、それら栄養塩が増えて河川湖沼海洋が富栄養化すると植物プランクトンの異常繁殖などで赤潮その他の原因になる。

植物が育つのならば、先に有用植物に吸収させればいいじゃないかという事。


この方法は別に独自の発想というわけではなく、現代日本でも抽水植物を含む水生植物を使って汚水を浄化する試みは行われている。

中にはホテイアオイなどの侵略的外来種が含まれる例もあるみたいだけど、良好な成績を収めている在来種もたくさんある。


この実験で課題になっているのが、育った水生植物を域外に排出しないと枯死した水生植物が新たな汚染源になるという事。

現代日本だと使い道がなくて肥料に転用というのはマシな部類で多くは乾燥後に焼却される。


現代でこそ使い道がなくなっているが、先に挙げた(あし・よし)笠菅(かさすげ)真菰(まこも)(がま)は昔は域外に出して利用価値がある植物だった。


葦は葦簀(よしず)や茅葺きなど様々な利用法があって、昔は運上(うんじょう)(租税の一種)を掛けられるぐらい有用だった。


笠菅(かさすげ)は童謡の茶摘で“(すげ)の笠”と歌われているように笠や(みの)に使われていて笠によく使われる菅だから笠菅と呼ばれる。


真菰(まこも)は種子はワイルドライスの一種とされていて食用にできるし、新芽も食用にできるし黒色の顔料の原料にもなる。それと名前のとおり(こも)(草を編んだもの)は元々は真菰を編んだもの。それと出雲大社では真菰を使った神事があるぐらい古くから利用されていた。


(がま)は綿状になった穂が火口(ほくち)に使えるし殺虫成分も少しはあるので蚊取り線香の代用にもできる。他にも茎や葉は編んで茣蓙(ござ)にできるし樽や桶の隙間に埋めて止水したりもできる。因幡の白兎の説話で毛をむしり取られた兎に大穴牟遅神(おおあなむぢのかみ)(後の大国主神)が蒲黄(蒲の花粉)を敷き散らしその上に転がるよう教える(くだり)があるが、実際に蒲の花粉には止血や患部保護の効果があって傷薬として使える。


安定した植生にできるか、どの程度の面積がいるのか、どの程度の効果があるのかは、設置場所の気候や土地形状にもよるし、他にも利用人数や汚水の種類や発生源によって異なるので最終的にはやってみないと分からないが、川合で試験的にやってみているが今のところ特段の問題は発生していない。


汚水に種類があるのかって質問には家庭の生活排水と工場の排水が同じわけないよねって答える。

美浦では汚濁物質濃度が高かったり劇薬や毒物が絡む化学工房と製紙工房と染料の廃液は別処理にしている。


「それで、セプティックタンクとやらの作り方なんだが……」

「営業的な話だと“美浦(うち)から買ってください”になります。浄化槽には腐食しないとか水を漏らさないなど色々制約があるのでFRP……繊維強化プラスチックが使われることが多いんですが、現状使える素材としたら、まともなのは陶磁器ぐらいなので。まあ岩をくり抜いて作るとか木製で作って定期的に作り直すという手もありますが」

「それは嫌だな。岩をくり抜くってできないし、水の洩らない桶も作れる自信がない」

「石工や桶作りや焼き物は誰でも直ぐにできるとは言いませんが、できると便利ですよ」

「それは分かるが直ぐには……当面の問題は何がセプティックタンクの対価になるかだが」

「担当の南部が出張中なので、私ではその辺りはお約束できないのですが、無体な事は言わないことは保証します」

「昔、杉村さんが言っていたけど、それ一発で自立してくれるならって奴?」

「無体な要求って、云わば“やりたくない価格”じゃないですか。だったら端っからこんな話はしていません」

「やりたくない価格か……何か懐かしいな。“やりたくない価格で良いから見積りくれ”とかやってた」

「はっはっはっ」


親父や兄貴は不可能系の無茶振りはともかくとして、無理すれば何とかなる系の無茶振りは“やりたくない価格”を吹っ掛けることもあった。

このやりたくない価格の提示という無茶振り回避法には欠点もあって、そのボッタクリ価格でいいからやってくれと言われるとやらざるを得ないという事。

俺はその尻拭いというか何というかで学校を休んだ事と徹夜明けのボロボロの状態で登校した事があるとだけ。

労基法違反? 労基法が適用される労働者じゃないので、労基法には違反していません。労基法には……


発注者さん、元請さん。

学校の長期休み期間は東雲組(うち)が多少なら無理が利くと学習しないでください。

高校三年間の私の春休みは四月一日からになっていました。


それと親父と兄貴へ。

県外の大学行ってる息子(弟)を呼びつけて工事現場に突っ込むのは勘弁してください。

あと、現場の有資格者欄に俺の名前があったのはどういう事ですか?

そりゃ免許や資格は色々持っていますが、だからといって勝手に名義を使われると困るんですが。

長期休みでも帰省せず、呼びつけないと帰ってこないドラ息子(不良弟)かもしれませんが、帰省したらどうなるかは火を見るよりも明らかだから帰省しないんです。


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― 新着の感想 ―
[気になる点] 消耗の早いゴム手袋、軍手の現状。 美浦の消費量だと製油後の残渣のみで賄えますかね……。 [一言] 器具が必要な資格持ちで良かった……。 リン回収はしたいですね、日本だと骨か浚泄必須…
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