第18話 お留守番(2)
一箇月健診では母子ともに問題はなかった。
医師はいないし器具や薬品などもないので現代日本と比べるとお粗末なレベルではあるが、有ると無いとでは大違いなのでありがたい。
健診が終わったら中華麺を作る作業に取り掛かる。
中華麺に限らないが、仕込みに時間が掛かるものは結構ある。
例えばトンカツを作るとなると下手すると猪を狩るところからスタートして解体して肉を熟成させて……となるし、パン粉もパン粉を作るパンを焼くところから始めないといけないなど中々の日数を要する。
飲食店で料理の提供が遅いときに“(注文受けてから)畑に採りに行っているのか?”みたいな冗談を言う人を知っているけど、美浦の料理はかなりそれに近い。
中華麺は独特の食感や色合いや風味を出すために鹸水と呼ばれるアルカリ性の物質を使うことが多いが美浦ではソーダ灰(炭酸ナトリウムの無水物)を鹸水として使っている。
現代日本の食用の鹸水は炭酸ナトリウムと炭酸カリウムの混合物がよく使われるが、美浦では純度の高い炭酸カリウムを得られないので高純度を得られる炭酸ナトリウムを使っている。
かつて鹸水は身体に悪いとされていた時期もあり、鹸水不使用を売り文句にした商品もある。
ただ、身体に悪いとされた原因を追求していくと、粗悪品に混じっていた不純物が悪さをしていたとか、そもそも口に入れるのが不適当なアルカリ性の物質を使っていたなどであることが分かってきた。
現代日本では粗悪な鹸水を排除するために、日本食品添加物協会が食品添加物として使用してよい鹸水には確認証を添付している。
粗悪品が駆逐されてかつてのような状況ではなくなったこともあり、必ずしも排除すべき食品添加物ではないと方向転換した生協もある。
計量したソーダ灰と食塩を溶かした水を中力粉に少しずつ注いで攪拌する水回しをして良い塩梅になったらパラパラの生地を纏めて一塊にして捏ねる。
生地の中の空気を抜くように捏ねていき、適度なところで寝かせる。
中華麺は鹸水の作用もあって難度は高いが工程自体でいえばうどんや蕎麦とそんなに変わらない。
生地を寝かせている間に油揚げとおやつを作る。
豆腐は午前中から水切りをしていたからそろそろ頃合いだし、おやつは卯の花を作った余りのおからで“きらず揚げ”にしよう。それでも余る分は牛さんのご飯に。
“おから”は切らずに使えることから“きらず”とも呼ばれるのでおからを揚げたものを“きらず揚げ”と呼んでいる。“おから”は一般に通じると思うが“きらず”は“おからの別の言い方”って言わないとたぶん通じないと思うので素直に“おから揚げ”と言ってもよかったのだが、唐揚げとの混同を避けるために“きらず揚げ”としている。
「ノリちゃん、手伝いますよ」
「(漆原)恵さん、助かりますがいいんですか?」
「大丈夫、大丈夫。あっこに何人おっ母さんがいると思って」
「……ではお言葉に甘えて。油揚げを揚げてもらっていいですか?」
「任せなさい」
「では頼みます。私はおやつのきらず揚げにかかります」
おからにすりおろしたニンジンを混ぜ込み、繋ぎの小麦粉も練り込む。
おからだけだと固まらないので小麦粉も入れるのだが、調理難度などを考えるとおからの乾燥重量と同量ぐらいまで小麦粉を混ぜるのが良い。
しかし、まだ小さい子供が食べるので喉に詰まらせたら大変なので、簡単に砕けるように小麦粉は最小限にとどめる。
生地を薄く延ばしたら適量にカットする。
きらず揚げのくせに切るんです。
「油、少し貰いますね」
「どうぞどうぞ」
どこまでいっても脆いおからなので天婦羅のように油量たっぷりで揚げると揚げている最中に崩れるからフライパンで揚げ焼きみたいにして揚げる。
こんがりと揚げ色がついたら取り出して冷ませばできあがり。
「きらず揚げ、できたので持って行ってもらえます?」
「手柄を横取りするような真似はしませんよ。ノリちゃんが持って行きなさい。ついでにトモちゃんの顔も拝んおきな。はい、行った行った」
「……分かりました」
別に手柄も何もないとは思うが、お言葉に甘えて顔を出しておくか。
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夕食のハンバーグだが、ハンバーグは普通は挽き肉を使って作る。
ミンチはソーセージ工場とか大規模なミートセンターとかならフードプロセッサーのお化けみたいな物を使って作ることもあるし、家庭ならフードプロセッサーで作れなくもないが、多くはミートミンサーで挽いて作ると思う。
ミートミンサーでミンチを作るときに穴の口径が広いカットプレートで一回挽けば粗挽き、粗挽きしたミンチを口径の小さいカットプレートでもう一度挽けば細挽きができる。(いきなり細挽き用のカットプレートをつけると詰まってしまう)
粗挽きは粗挽きソーセージなどで知名度があるが、普通のミンチは細挽きである。
ソーセージも細挽きの方が滑らかな食感で絹挽きと称している商品もあるし、態々粗挽きと称していないものは基本的には細挽きと思ってよい。
粗挽きと細挽きのどちらかが優れているというわけではなく好き好きだったり料理との相性でどちらを使うかを決めればよい。
そのミンチを作るミートミンサーだが、実は美浦にはミートミンサーがある。
ジビエはミンチにした方が食べやすい部位もあるのでミートミンサーはハンターの必需品みたいなものだと先達に言われて買った物がある。
まあ、当初に買った手動のミートミンサーでは埒が明かない量を処理する羽目になったので電動で処理能力の高いミートミンサーを買い直して使っていた。
そのため手動のミートミンサーは蜘蛛の糸号の片隅に収納されたまま忘れ去られていた。
何かを探していたときに偶々ミートミンサーを見つけて唖然としたが、収納するときにちゃんと整備はしていたので直ぐにでも使えたので使っている。
挽き肉製造機といっても肉しか挽けないわけではなく、魚のすり身を作ったり味噌や醤油に使う大豆を挽くなど結構重宝している道具の一つ。
ミートミンサーを発掘()する以前はハンバーグ的なものを作るのに、包丁で叩いて粗微塵にしたり塩を加えて捏ねたりといった手法で作っていた。
ミートミンサーがあるんだからハンバーグはミンチで作るのが常道だと思うのだが、筋を取り除いて細かくカットしたスライス肉にほんの少し(ここ重要。多いと塩辛くて食べられない)塩を振って捏ねた物の方が評判が良くて美浦のハンバーグのレシピはミンチではなくこちらの製法になっている。
動物性タンパク質はいくつかの種類に分けられるのだが、その中で筋原線維タンパク質と呼ばれるタンパク質群があり、動物の種類や部位によって割合は大きく異なるが筋原線維タンパク質は動物性タンパク質の五割から八割ぐらいを占める。
実はその筋原線維タンパク質は濃い塩水に溶けるという性質を持っていて、溶けだしてぶつ切りになった筋原線維タンパク質は結着性や保水性を持つので肉に柔らかさと弾力をもたらす。
漬けマグロとか魚の鼈甲漬けがねっとりした食感になるのはこれも要因の一つ。
水分が抜けて身が締まるのとどっちが大きいかは難しいけど。
魚類は筋原線維タンパク質がとても多いので、魚肉に塩を加えて練って加熱した蒲鉾や竹輪といった練り物が柔らかく弾力に富むのは道理という物。
これは獣肉でも多かれ少なかれ起こるので、ミンチがないから代替え手段として化学的に細かくしようとして塩で捏ねて作ったのだが、そうやって作られたハンバーグは弾力豊かで噛みしめると肉汁があふれ出す一品になった。
正直に言えばミンチを作ってミンチでハンバーグを作った方が手間が掛からないんだけどレシピの変更を許してくれない。
ミートミンサーを発掘()したときにミンチでハンバーグを作ったのだが、そのときの皆のコレジャナイ感は半端なかった。
ちなみに、粗微塵にするレシピはミンチの代用どまりという評価だったので誰も要求しない。
形成して後は焼くだけとしたタネを冷蔵庫で休ませている間に作り置きが利くチキンライスに取り掛かる。
オムライスにも色々なスタイルがあるが、俺の作るオムライスはお皿に盛ったチキンライスの上にオムレツをのせて切り開くスタイル。
チキンライスを薄焼き卵で包むのも作れるし、薄焼き卵をチキンライスに被せるのも作れるし、スクランブルエッグを塗すのも作れるが、オムレツを切り開いてバサッと広がるのを佐智恵がいたく気に入ったので昔からずっとそっちが定番になっていた。
これは美浦でも受けが良くて特に子供たちは自分で切りたがる。
そういう訳でこのスタイルになるのだが、そうなるとオムレツは食べる直前に焼かないと駄目なので提供直前にしかできない。
料理はプロジェクトに似ている。
並列できる工程と直列が必須の工程、手順前後が大丈夫な工程と駄目な工程、時間が掛かる工程と短時間で済む工程、次工程に移るまでに多少時間をおいても問題ない工程と直ぐに次工程に移らないといけない工程など様々な特徴がある。
それらを組み合わせて成果物である料理の提供にタイミングを合わせる。
いつ、誰が、何を、どうする、これを一つのものにまとめるというのは、プロジェクトでWBS(Work Breakdown Structure:作業分解構成図)を作るのと然して変わらない。
これがコース料理を出すお店だと複数の客の状況を先読みしながらそれぞれに丁度いいタイミングで料理を提供できるよう進めないといけない。
厨房を取り仕切る総料理長は、調理の腕前だけでなく状況に応じて瞬時に工程を組み替えてそれを指示し従わせる能力も必要になる。
そこまでいかなくても出来立てを提供するには提供する時間から逆算して作り始めないといけない。
一品だけならともかく、二品三品と増えていくとすごく大変になる。
料理の難しさは調理難度だけの問題なのではない。
美浦では同時に多人数に提供という難題も加わるので輪番制では当たり外れがでるのは致し方ないのかもしれない。
作中に出した肉に塩を振って捏ねるというハンバーグの製法ですが、加える塩の重量は肉やつなぎなどの他の材料の重量の0.6%ぐらいが適量だと思います。
一番美味しく感じる塩分濃度は0.8%ぐらいらしいですが、ソースとかの塩分も加わることを考えると0.6%ぐらいが個人的にはいい塩梅でした。
なので私は他の材料200gに塩を一つまみ(約1g)あたりを目安にしています。
塩分濃度が高い方がタンパク質が溶けて結着力が強くなるのですが、塩分濃度が1%を超えると塩味を強く感じ、2%になると食べるのに苦労するぐらい塩辛くなります。(経験者は語る)
塩は小さじ一杯で約6gありますから300gに小さじ一杯(2%)はやりすぎでした。
ものすごく肉がとろけて作りやすかったのですが、消費するのに難儀しました。
それを踏まえて小さじ半分(1%)にしてみましたけどそれでも少しきつかったです。
塩分濃度が0.6%だと肉を捏ねるのに結構苦労しますので、1%ぐらいで肉を捏ねてから小麦粉や卵やパンやタマネギなどを肉の二割五分(例えば肉が200gなら50g)以上の分量を足して塩分濃度を0.8%以下に薄める方が楽だと思います。
肉と塩と香辛料だけでも作れますが塩分濃度が高くできないので捏ねるのも大変ですし、ハンバーグよりもステーキの出来損ないに近いものになります。
プロだったら美味しくできるのでしょうが、家庭のキッチンで素人が作るには難度が高い気がします。
この製法のハンバーグは好き好きがでると思いますが、個人的には気に入っているので半額シールがついた牛切り落としとかを見ると作りたくなります。