第17話 お留守番(1)
八月の例会は育児休暇的なことで今回は出張が免除されている。
それとサマーキャンプと織姫橋の渡り初めでそれなりの人数が滝野に行っているので少し静かな感がある。
この手のイベントではホスト側になる事が多かったのでお留守番というのはちょっと複雑な気分。
それと、有栖ちゃんがサマーキャンプに行っているので少し心配している。
今回は俺も佐智恵も行かないので有栖ちゃんも行かないだろうと思っていたんだけど、行くと言い張ったので雪月花をはじめとした引率者にお願いして行かせることにしたんだけど、この判断が良かったのか悪かったのかはたまたどうでもよかったのかは神のみぞ知る。
そういう状況なので、冷房の効いた瑞穂会館の保育室で義智をベビーベッドに横たえさせて絶賛子守中。
保育室には昼間は美浦にいる乳幼児が集められている。
美浦の乳児は漆原家の次男の利勝くん、楠本家の長女の千晶ちゃん、それと義智の三人だが、今後増える見込み。
幼児は御襁褓が取れていないのが本田家の二人で(赤坂)香歩さんの息子の勇太くん、(坪井)澪さんの娘の夢津美ちゃんの二人で、御襁褓が取れている和広くん、恵美ちゃん、有栖ちゃんの三人は今はサマーキャンプに行っているので不在。
基本的に保育室とはいえ、さすがに生まれて直ぐからとはいかないので義智の保育室デビューは今日だったりする。
ベビーベッドに目をやれば義智は元気に手足をバタバタさせながら“きゃっ”って感じの奇声(?)を発している。
手足バタバタは色んなケースが考えられるが、ご機嫌なときにバタバタさせているのは筋トレをしているんだと思われる。
それと奇声(?)だが、先達からは早い子は四週ぐらいでも短い笑い声的なものを発するからそれじゃないかと言われた。
言われてみれば笑い声と考えたら腑に落ちる状況で発することが多いので笑い声と思うことにしている。
勇太くんと夢津美ちゃんがベビーベッドの柵に掴まって義智を興味深げに窺っている。
そおっと手を伸ばして義智に触って反応を確かめているから新入りを見定めているのかな?
一方で千晶ちゃんと利勝くんは義智に関心はないようだ。
千晶ちゃんは奈菜さんにそっと近づいてタッチしたらハイハイダッシュで逃げてチラッと振り向いてお母さんの反応を窺っている。
ん? 今度の標的は俺か?
タッチされたから“待て待てぇ”と言いながらハイハイで追いかけたらキャッキャ言いながら逃げていく。
「ノリちゃん、構ってくれるのはありがたいけど際限ないからね。アキちゃんもそろそろ立ってくれてもいいんだけど、ハイハイが好きみたいで」
「這えば立て立てば歩めの親心ってのは分かりますが未だ早いんじゃないですか?」
「できてもできなくてもおかしくない月齢だけどそれとこれは別。早くアキちゃんでも“歩いた”って言いたい。ノリちゃんもそのうち分かるから」
比べるものではないと理性では分かっていても千晶ちゃんよりほんの少しだけ早く産まれた利勝くんを見ているとって感じかな?
利勝くんは尻餅をついたりこけたりしながら一生懸命立つ練習をしていて、ある意味では周りがハラハラドキドキといった感じで見守っている。
偶に立ててもまだ不安定で動こうとするとこけるんだけど、立てたときのドヤ顔がいい。
「そうそう、ご飯はビストロ東雲でいいのかな?」
「……まあ、皆さんがそれでよければ」
当初は料理担当を輪番制にしていたのだが、大人数相手の料理は向き不向きがあり当たり外れが酷かった。
朝ご飯については輪番制がそのまま残っているが、昼食と夕食については当番制になった。
輪番制と当番制は似ているが若干異なり、輪番制は全員が持ち回りで担当する事を指し、当番制は担当する者つまりは当番を決めるという点で違いがある。
料理についていえば、調理を任せて大丈夫な調理資格者を選任してその調理資格者の誰かが当番として食事の用意をしている。
先の質問(?)は、その当番を外して俺が調理するという事で良いかという問い。
俺も調理資格者の一人なのだが、美浦を留守にすることも多いから居るときぐらいはって事かな?
「なら決まり!」
「何かリクエストあります?」
「おっ!? いいの?」
スーパーにいけば素材や調味料が簡単に手に入るのなら今日言って今日作ることも可能かもしれないが、どちらかといえばあり物で何とかするという側面が強いのでリクエストされても応えられない事が多い。
お祭りとか誕生日とかのイベントだと事前に分かっているからリクエストに応えて事前に準備する事もあるけど、普段の食事でリクエストを募ることはまずない。
「暑いから冷たい麺類」
「酢の物も欲しいかな? 鱧あるんだから“鱧ざく”とかは?」
「鱧の骨切はノリちゃんと宜幸くんぐらいしかできないから丁度いいね」
「鱧は処理しておきたいから一品は鱧ざく確定でいいですか?」
“何食べたい?”に“何でもいい”と返す人は美浦にはいない。
“何でもいい”というのは本質的には“私が気に入る物をお前が考えろ”と言っているようなものだが、美浦では文字通り“何でもいい”“何であっても文句を言わない”という白紙委任状のような扱いをされる。
仮に文句を言おうものなら“嫌なら食うな”と返ってきます。
要望はちゃんと主張しないと要望として受け取りません。
「冷たい麺系だと……素麺、うどん、蕎麦あたりですが」
「鱧ざくとなら……お蕎麦?」
「お酢被りかもしれないけど、冷やし中華も捨てがたい」
「なら、野菜を加えてラーメンサラダとか」
ラーメンサラダというのは札幌のホテルが発祥ともいわれる冷やし中華の具に野菜サラダを使ったという感じの料理で、北海道になるのか札幌になるのかは分からないが当地では知名度のある料理だそうだ。
「中華麺は二、三日寝かせた方が美味しいですよ?」
「じゃあ、ラーメンサラダは明後日という事で」
えっと……これはサマーキャンプ組が帰ってくるまで俺が調理担当という流れ? まあいいけど。
「なら、今日はお蕎麦にする?」
「おろし蕎麦か盛り蕎麦か」
「おろし蕎麦と盛り蕎麦なら両立可能なんで選択制で大丈夫ですよ。うどんまで言われるときついですけど」
「みんなはどう?」
「異議なし」
「それでいい」
基本はお仕着せの日替わり定食オンリーだけど選べることもある。
食材の関係で全員分を作るのは難しいときとかにA定食とB定食を選べるって感じの事もあるが、今回のように作り分けても大した手間でなければ選択制を採ることもある。
「野菜も欲しいけど……思い浮かばない」
「そこはシェフのお任せで」
「ノリちゃんなら皿の上シリーズはやらないだろうし」
皿の上シリーズというのは輪番制のころの当たり外れの外れの代名詞で、食材をお皿に載せただけという物。
冷やしトマトの予定だったのだが時間がなくなってトマトを丸ごと一個皿に載せて出したのが最初だったかな?
トマトや胡瓜ぐらいまでなら何とか許容範囲だと思えなくもないが、皿の上に収穫したままの姿の玉葱、茄子、トウモロコシ辺りで誰かが切れた。
「蕎麦と鱧ざく、あとお任せで一品という事で良いですか?」
顔を見合わせて頷く面々。
「晩御飯は洋食に振ってカレーとかオムライスとかハンバーグとか」
「えっと……申し訳ないんですが、カレー粉はサマーキャンプに持っていかれたんで無いです」
去年は将司が頑なにカレー粉を出さなかったのに自分が行くとなると根こそぎ持って行きやがった。
数少ない将司の我儘だから大目に見るがカレー粉作るのは結構面倒なんだぞ。
「そっか……オムライスにハンバーグもいいけど野菜関係でもう一声行きたくない?」
「ジャーマンポテトとかフレンチポテトとか?」
「欧米かよ」
「えっと、あれ、揚げた茄子にサラダ詰めたのは?」
「ああ、あれ見た目も良いし美味しいよね」
「晩御飯はハンバーグ、オムライス、揚げ茄子サラダ?」
自分が作らないとなると色々でる。
作るのは面倒でも食べたいってのも分かる。
一番面倒くさいメニュー決めをしてくれたんだから御の字と思おう。
そうそう、大人メニュー以外に利勝くんと千晶ちゃんは離乳食、勇太くんと夢津美ちゃんは子供食とおやつが必要。
「という事なんで佐智恵、義智をよろしく」
「ふむ、泥船に乗ったつもりでいるがいい」
佐智恵はそういうが、本人の自己評価よりちゃんとできているので問題ない。
それに今日は義智のデビューだからか普段より人も多いから何ぞの時はフォローしてもらえるだろう。
■■■
鉄琴で『おもちゃの兵隊の閲兵式』を奏でる。
『おもちゃの兵隊の閲兵式』は著名な調味料メーカー提供の三分と言いながら実際の放送時間は十分という料理番組のテーマに使われているので聞き覚えのある人も多いだろうあのメロディー。
美浦では食事の支度ができた合図に使っている。
チャイムを鳴らして暫くすると食堂に人がわらわらと集まってくる。
「お任せは卯の花にしたんだ」
「油揚げがなくなっていたんで作っておこうかと」
「豆だねぇ」
「豆だけに」
「ノリちゃんの油揚げ、宣幸にも伝授してよ。上手くいかないってぶつくさ言ってたからさぁ」
「こないだ見せたんで大丈夫だと思いますよ」
油揚げを作るのは結構手間なんだ。
油揚げは薄く切った豆腐を揚げた物なのだが、実は豆腐として食べると美味しくもなんともない上に普通の豆腐を作るより難度が高く面倒くさい作り方になる油揚げ用に作った豆腐を使うことでお馴染みの油揚げになる。
普通の豆腐を水抜きして薄く切って揚げる手法だと失敗が多くなるし上手くできても油揚げっぽい感じの物にしかならないから普通の豆腐で油揚げを作っている豆腐屋さんを俺は聞いたことがない。
油揚げ用の豆腐は、通常の豆腐用と違い沸騰させないように煮て、更に水で薄めて濃度が通常の半分から三分の一ぐらいの薄い豆乳を使って作る。
濃度が薄いので固まるときに水分と豆腐が分離しやすく、分離してしまうと態々薄い豆乳で作る意味がなくなるので均一に水分を含んだ状態で固まるようにかき混ぜたりしながら固めないといけない。
生煮えで濃度も薄い豆乳なので青臭さが思いっきり仕事するから初めて食べた豆腐がこれだと豆腐というのは不味い食べ物だと思うだろう。
そして理不尽なことにせっかく苦労して水分多めで作った豆腐に重しを乗せて水分を抜く。
このようにして作った豆腐は熱変性が少ないタンパク質が広範に疎らに散っているので揚げた際によく伸びるし、中がスポンジ状になって味もしみやすくなる。
実はこれが油揚げの秘訣で、普通の豆腐を揚げた自家製の油揚げと売っている油揚げの差はここに起因していることが多い。
揚げるのも二度揚げが必要で、ノバシといって低温揚げで豆腐を膨らませていき、膨らみ切ったらカラシといって高温揚げをして表面を固めて縮まないようにして初めて油揚げができる。
ノバシが終わっても低温で揚げ続けたり、カラシをしなかったらみるみる縮んで揚げ煎餅のできそこないのような物になる。
豆腐屋さんによってはノバシとカラシの間に予熱工程を入れて三度揚げをしているところもあると聞いた事がある。
美浦では二度揚げだが、低温のフライヤーと高温のフライヤーを用意しないといけないので温度管理を含めて面倒なんだ。
一度で済む量ならノバシが終わったらそのまま油温を上げていくという方法も採れるけどそんな量だと一人一片ぐらいしかあたらない。
「義教、義智見てて」
「はいよ」
「そうだ! 佐智恵さん、ノリちゃん、一箇月健診やっときたいからご飯の後、時間もらえる?」
「問題ない」
「分かりました。よろしくお願いします」