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文明の濫觴  作者: 烏木
第9章 濡れぬ先の傘
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第15話 雲丹

透明素材である酢酸セルロースのお陰で水中を覗ける箱メガネができたことで海産物の収穫が捗っている。

これまでは略最低(ほぼさいてい)低潮面(ていちょうめん)(一番潮が引いた時の海水面)より下の海底の物は素潜りぐらいしか漁獲方法が無かった。

昔々の海女(あま)さんはウェットスーツや水中メガネもなしに素潜りして獲っていたと思うけど、伊勢の海女さんは貝紫などで呪い(まじない)のドーマンセーマンを記した物を身に着けていたことなどを考えると相当ハイリスクな職だったと思う。

なので美浦では、いよいよの時以外は略最低低潮面以下の海底は手をつけないでいた。

しかし、箱メガネで直接視認する事が容易になったので長柄の得物を持ってローリスクで漁獲できるようになった。


これまで手付かずにしていた獲物には(あわび)常節(とこぶし)といった貝類や海鼠(なまこ)海栗(うに)といった棘皮動物(きょくひどうぶつ)が挙げられる。これまでも潮間帯で獲れていた物もあるが数が違う。

他にも漁獲量が増えたものに海藻類もあるけど高級食材とか珍味の方がインパクトがあるんで……


雲丹(うに)(海栗の生殖腺やその加工物)、唐墨(からすみ)(ほら)の卵巣を塩漬けして干した物。(さわら)(さば)といった鯔以外の魚の卵巣でも作る事ができるが日本では鯔の卵巣のものが一般に知られていると思う)と並ぶ日本三大珍味の一角の『このわた』はナマコの内臓の塩辛の事。

他にもナマコの卵巣の干物の『このこ』(干す前の生の状態の商品も存在するが干物の方が一般的)というのもあって生産量が非常に少なくてとても高価で貴重な一品だったりする。

『このこ』は主要な生産地の能登半島にある日本一の旅館で祖母の古希祝いをしたときに口にしたことがあるけど『このこ』を口にしたのはその一回だけ。

それから中国ではナマコは干物にしてから食すので日本から干しナマコが輸出されていて、干し鮑、鱶鰭(フカヒレ)と合わせて俵物(たわらもの)三品の一角を占める。(昔は干物乾物は俵に詰めて輸出していたので干物乾物は俵物とも呼ばれる)


ナマコは冬が旬なので今は獲っていないが、今は夏場が旬のウニが獲られている。

美浦近辺では食用のウニ類としては少なくともムラサキウニ、バフンウニ、アカウニの三種が棲息していることが確認されている。

この中で一番食味が良いのはアカウニだが、アカウニは水深があるところに棲息している事が多いので、主に漁獲しているのは比較的水深が浅いところにも棲息しているムラサキウニとバフンウニ。


それと実はガンガゼも漁獲している。

ガンガゼというのは海辺の危険生物として知られているウニの仲間で、毒がある鋭く長い棘があり磯歩きの最中や遊泳中などに棘が刺さることがある。

棘はウェットスーツぐらいは軽く貫通する鋭さがあり、折れやすくて抜くのに往生するし、毒の影響も相まって激痛とまではいかなくても数時間ぐらいは無視できない痛みが続き地味に心身にダメージを食らうと安藤一平くん(経験者)が語っていた。


ガンガゼは石鯛(いしだい)の好物なので釣り餌としても売られているが、身に毒はないから実は食用にもできるので一部地域では食用にされている。

食材としてマイナーなのはウニ類としてみたら速く動くし棘も長いと二〇センチメートルぐらいあって獲るのも処理するのも色々面倒だからだと思う。

ガンガゼ獲るぐらいならムラサキウニやバフンウニを獲るのが普通だろう。


そんなガンガゼを漁獲するのは実は静江さんの意向が大きい。

ムラサキウニやガンガゼから紫色の色素が採れるのでウニ染めという物があるらしい。

ムラサキウニを殻割りして雲丹の身を採る作業をしていると手指が紫色に染まるのだが、それなら産廃になる殻や棘で染料を作れないかと考えて近年編み出された技法だそうだ。

後は、磯焼けでムラサキウニやガンガゼが優占してしまったときに駆除した個体の利用方法として検討されていてそういうワークショップもある。


磯焼けというのは海の砂漠化というか海藻が生えなくなる現象で、たくさんある原因の一つにムラサキウニやガンガゼが絡んでいるとされている。

食欲旺盛で海藻が生える端から食ってしまう上に、自身は三箇月程度なら絶食も可能なのでウニしかいない磯焼けの状態を恒常化してしまう。

餌がほぼない状態の場所に棲んでいるので身はスカスカで商品価値はゼロなので漁として獲ることもない。


商業的には漁獲できないので有害生物駆除みたいな感じで獲るのだが、ムラサキウニは海藻が多い場所に移す以外に有効な使い道がなく、移せる海域が無いと廃棄になるしかないのだが、それが染料になるならって感じ。


ムラサキウニは雑食で何でも食べるので、廃棄食品などで肥育する試みも行われているらしい。

しかしガンガゼは利用価値がほぼないし捕獲も面倒なので海中で押しつぶして殺して放置らしい。


話を染料にもどして、実際ムラサキウニやガンガゼの殻や棘には色素はあるので、上手く色素を抽出できれば糸や布を染める事は可能で、その色素の取り出し方は何通りかあるらしい。


その中で美浦では二通りの手法が使われている。

静江さんがいうには他にも方法があって純粋な色素だけを抽出する事もできるけど大学の化学実験室や研究室でもないと難しい方法らしい。

内容を聞いた春馬くんは呻っていたし、佐智恵は“化学系の学科の化学実験室以上の施設と器具と試薬がないと無理というのは正しい。だけど収率が悪そう”とコメントしていた。


美浦で実施している方法の一つは草木染めと似たやり方で、殻を米のとぎ汁で煮て色素を取り出して染色するというもの。

作業自体はお手軽(?)ではあるが、生臭さがあるので半月ほど風にさらして臭気抜きをしないと使いづらい。

米のとぎ汁で煮るのは臭気成分を米糠に吸着させて臭いを抑えるためで、普通の水で煮たら染めた糸や布が生臭い臭気を放ち、その臭気が時間とともに増えていくという恐ろしい代物になるそうだ。


もう一つの方法は洗って乾燥させたウニの棘をクエン酸に入れると発泡しながら溶けてクエン酸カルシウムの沈殿と色素を含んだ上澄み液になるので上澄み液を使って染める。

棘の骨格である炭酸カルシウムを溶かすのなら炭酸より強い酸なら塩酸でも硫酸でも酢酸でも乳酸でも溶かせるのだが、塩化カルシウムと酢酸カルシウムと乳酸カルシウムは水溶性なので色素液との分離が面倒だし、硫酸カルシウム(石膏)は水に難溶なので沈殿するので分離はできるが、塩酸や酢酸と異なり未反応の硫酸を上澄み液から除去するのが難しい。

入手性と安全性と機能性を考えるとクエン酸が一番良いらしい。

定着液としては苛性ソーダやミョウバンが定番だそうだが、何を定着液に使うかやクエン酸の量とか棘の種類や量、染める回数で色々な風合いの染ができる。


どちらも基本的には黄色から薄い紫色に染められるが紫色といっても貝紫や紫根のようないかにもな紫色ではなく何色か聞かれたら紫色って答えるかなって感じの色合いに染まる。

貝紫や紫根は高貴な方々が自分たち以外の使用を制限した歴史があるぐらい格調高い紫色に染められるが、ウニ染めの紫色はそこまでのものは無いので普段使いしやすい。


作業のしやすさや利便性を考えると後者のクエン酸を使う方法一択のように思えるかもしれないが、クエン酸の生産量には限度があるので前者の方法と併用している。

クエン酸は黒麹が産生するので美浦でももろみ酢として食用にも利用しているが、醸造責任者の奈緒美が妊娠中なので今は生産量が減少している。

それもあって前者の煮出す方法も使われている。

前者も使われる要因の一つにムラサキウニの棘の部分を集めるのが案外面倒という物もあると思う。


話を戻して、なぜガンガゼなのかというとガンガゼの棘は長いのでムラサキウニより棘の量を確保しやすいことが挙げられる。

それと、ガンガゼの棘は折れやすいので密閉容器に入れてワシャワシャ振ったら大半の棘が折れるので、鋏でチマチマ切るか苛性ソーダに漬けるか水に入れて腐らせて棘が分離するのを待つムラサキウニより棘が集めやすいのも大きい。

あと、殻は炭酸カルシウムの骨格以外の成分が多くて直ぐに腐敗するが、棘の方は腐るような成分はほとんど無いので洗って乾燥させれば保存が利くので棘はどれだけあっても構わないそうだ。

もし仮に染料として使いきれなくなっても棘は炭酸カルシウムの塊なので煆焼(かしょう)したら酸化カルシウム(生石灰)になるので使い道は幾らでも有る。


一部地域では食用にされているガンガゼではあるが、基本的には食用種とはされていないので棘をとった後のガンガゼはムラサキウニの殻と一緒に肥料にしている。

ウニ類は生きている内は数箇月の絶食にも耐える強靭さを見せるが、死んだあとは直ぐに腐敗するし特に嫌気環境下だとえげつない腐臭がでるので土に埋めたりすると大変な目にあう。

好気発酵させて発酵熱で温度がガンガン上がればその辺りはクリアされるので堆肥作成施設で腐葉土に混ぜ込んで切り返しすることで回避している。

ウニ類はマグネシウムが比較的多く存在するので苦土(くど)肥料として期待している。



それらが前置きだが、今日第三厨房に持ち込まれたのはウニが満載の篭が十個。

ウニの個数としては三百個を軽く超えるし、ウニ一個に五つの生殖腺があるので雲丹の数としては千五百片以上。身入りが悪いのや形が崩れたものがあったとしても千片は超える。

普段はこんなには獲らないのだが、今日は体験学習というかリクリエーションというか、子供五人が安藤くんらの箱メガネ漁に同行していたので加減が難しかったのだろう。


「もしかしたらと思ってたけど凄い量だね……ん? バフンウニも混じってる?」

「混じってるというか半分はバフンウニです。どっちも枯渇するほど獲っちゃいませんが、(獲るのを)止められなかったです」

「そこはすみません」


同行をお願いした手前文句は言い辛い。


「いえいえ、浅場で石引っくり返したら和広(かず)ちゃんと江理(えっ)ちゃんが的確にバフンウニを見つけてて面白かったです」

「あれ初見だと見分けるの難しいけど、一度分かったら結構見分けられるようになるよね」

「由希が最初の一つ教えたら後はもう……」

「子供の吸収力って凄いよね」

「ですです」


初めに浅場で手解きしてたら次々見つけては獲ってとなってしまったそうだ。

それからある程度の水深があるところまで移動して箱メガネで海中を覗きながら長い柄の先につけた網でウニなどを捕まえるタモ漁を経験してもらっていたそうなのだが、柄の先に(かぎ)がついた方にも興味を示したので鉤漁もやってもらったそうだ。

タモ漁はともかくとして鉤漁は結構コツがいるそれなりに難度の高い漁法な筈なのだが、器用にこなして海藻が群生していて網が入らないところのウニを次々と捕獲してたとか。


「で、問題は……」

「雲丹の中から米粒を探すレベルの雲丹丼でも作らないと消費期限内に食べ切れそうにない事ですね」

「コレステロールとプリン体が心配だな」

「おお、今日は大漁やのう」

「親父殿……大漁は良いんですけど、ちょっと消費期限内に食べ切れないから一部は勿体無いけど肥料行きもやむなしかなって」

「保存利くよう加工すりゃええやん」

「雲丹の常温長期保存って、高濃度のアルコールに漬けるぐらいしか知らないんですけど、高濃度アルコール(そっち)も生産を絞ってますから」


雲丹は浸透圧が異なる水に浸かるとそれだけで身崩れするから身を洗うときも獲れた海域の海水を使うぐらい繊細だし、自己分解酵素があるのでどれだけ丁寧に扱っても崩れるのは時間の問題。

添加物のミョウバンが使われるのは自己分解酵素を失活させたり雲丹のタンパク質を変性させて身崩れが抑制されるため。

雲丹はそれぐらい身崩れしたり腐敗したりしやすいので常温で長期保存というのは難しい。

お土産に貰った奴は洗って乾かした雲丹を高濃度アルコールと一緒に瓶詰めしたもので、確か常温で一年ぐらい持った筈。


「簡単なんやと茹でて干せば半月ぐらいは持つで」

「雲丹の煮干ですか? 聞いた事ないですし、茹でると身崩れして薄っすい雲丹水になるような気がしますが」

「それがちゃんとあんねん。バフンウニを殻のまま丸ごと海水で茹でてから身を取り出して天日干しするんや。それだけで半月ぐらいは日持ちしよる。まあ商品やと賞味期限は十日ぐらいやった思うけどあれは商売上短めにせんとやばいからな」


消費者がどんな環境で保存するかわかったものではないので、常温品の賞味期限は短く設定せざるを得ないと聞いた事がある。

俄かには信じられないかもしれないが、真夏の真昼間に直射日光が当たる車内に何時間も放置しておきながら夕方になってから“肉が変色してる”“野菜が萎びてる”“冷凍食品が解凍している”といって昼前に買ったスーパーにクレームを入れる者は実在する。

パチ屋に行くなとは言わんが、パチ屋に行ってからスーパーで買い物するとか、買い物した後に一度家に帰ってからパチ屋に行くとかしろよ。

他にもその手の業種のお客様相談窓口にいたら呆れるような扱い(保管とか保存とは絶対に言いたくない)をしておきながら“カビが生えてる”“虫が湧いてる”“味がおかしい”“腐ってる”といったクレームを受けたことは一度は経験があると思う。


他にも暖房が普及しているので昔なら部屋に出しっ放しで大丈夫だったものでも、現代だとそうもいかなくなったものとかもある。

昔の冬場の室温って冷蔵庫よりはマシ程度の低温だからそうそう腐らなかったんだけど、環境省のエコ推奨の摂氏二〇度でも腐りだすことはある。

御節料理なんてその代表例の一つで、市販の御節も御節料理のレシピも昔に比べて異常なぐらい砂糖を使うのは暖房の効いた室内に置いていても腐らないようにするためだったりする。

商売としてやる以上は、関連が疑われる食中毒が一件でも発生すると結構なダメージを受けるので予防線は張っておく必要がある。


冷凍や冷蔵だと常温品と違って保管環境のブレが少ないので、本来ならば常温保存できるものでも要冷蔵にしている事もある。

例えばうどんや蕎麦やラーメンといった生麺をスーパーなどで買うとたいていは要冷蔵となっているが、生地を常温で熟成させたりすることから分かるように元来生麺は常温で大丈夫なもの。

製麺所や飲食店だと常温で保管していることも多いし、昔は小売店でも常温で玉売りしていたらしい。

乾燥を防ぐために布巾を掛けておくとか色々やらないといけないけどけど、それをどんな扱いをするか分からない消費者に委ねるには世の中が少々世知辛くなってしまっている。


「それと干し雲丹を定期的に酒に漬けて干すっちゅうんを繰り返しとると年単位で持つで。干し雲丹をあんま聞かんのは浜の漁師らが自家用に作っとっただけでほとんど他所にでえへんかったからと、戦時中に贅沢やゆうて禁止されてから作らへんようになったからや思う。近年復刻したらしくて(おとと)が贈ってくれたけどめっちゃ美味かったで」

「……それはちょっと興味をそそられますね」

「それとな、たぶんどこももう作ってないやろけど泥雲丹ちゅう雲丹の塩辛みたいなんもあるし、手間暇掛けるんやったら塩雲丹もええで。塩雲丹は熟成に年単位の時間かけるもんもあるらしいし」

「冷蔵庫とかで?」

「今は冷蔵保存しとると思うけど、やろう思たら常温でもやれる筈や。なんでも文化・文政(化政)時代に福井藩から雲丹の保存食作れゆわれて作ったんが塩雲丹やさかい当時は常温で作って常温で保存しとったに決まっとるやん。桐箱に入れた塩雲丹は越前雲丹ゆうて将軍家とか宮家とかに献上しとったから少なくとも福井から京や江戸に着くまで持ったんは確かや」

「なるほど……となると、私が知ってる塩雲丹とは別物の長期常温保存のための塩蔵品の塩雲丹ということですね」


俺の知っている塩雲丹は、海水で洗った生雲丹に塩を降りかけて瓶詰めとかにしたもので、基本的には冷蔵もしくは冷凍になる。

魚の干物も食味向上用の要冷蔵の干物と常温流通の保存食としての干物があるが、流通技術がよくなったので長期常温保存の干物が減って一夜干しなどの要冷蔵の干物が増えたのと似た事情があるのかもしれない。


「ノリちゃんの思おとる塩雲丹が何かはあれやが、たぶん別物(べつもん)やろな。めっちゃ小さぁなるまで水分抜くからねっとりしたペーストみたいな感じになっとって箸や楊枝の先に付けて舐めるみたいな味わい方すんねん。小豆大の量あったら何ぼでも酒飲めるで。ご飯に乗っけると美味いらしいけど、めっちゃ高いからちびちび舐めるようにしかよう食わんかったわ。バフンウニ一個で塩雲丹一グラムできるかどうからしいから高いんはしゃぁないけどな。それと塩雲丹が乾いてカチカチになったとこをおろし金とかで削って粉にした粉雲丹ちゅうんもあって、ご飯や刺身とかに振り掛けたりするそうなんや。粉にでけるぐらい乾燥してりゃそれこそ何年ちゅう単位で持つで。まあ粉雲丹にすんには塩雲丹の二、三倍の雲丹がいるらしいから値段考えたら怖いけどな」

「確かに粉雲丹の値段は考えると怖いんで考えない事にします。ところで親父殿のいう干し雲丹や塩雲丹の作り方って分かります?」

「一応、故郷の名産やさかい通り一遍の作り方は分かるで」

「なら今日の雲丹丼といちご煮の分以外は干し雲丹と塩雲丹に加工してしまいましょうか。仮にここにあるのを全部塩雲丹にしても困るほどの量にはならなさそうなんで塩雲丹多めで」

「値段考えたら怖ぁてでけんかったけど飯の上に乗っけるのはやってみたい」

「ですよねぇ」

「僕も食べてみたいです。レシピ安定させるためしばらくウニ多めやってみましょうか?」

「いや、去年のアカニシガイの轍は踏みたくない」


思えば去年のアカニシガイも静江さんに言われて貝紫を集めるためだった。

今年もウニ染めの……

いや、僕は文句は言いません。



「ねぇねぇ、一平兄ちゃん、ノリちゃん、ウニパカ持ってきた。ウニ割りやっていい?」

「手袋も持ってきた?」

「もちろん!」

「じゃあ、宣幸くん(ノブ兄ちゃん)はあの篭の分、美恵さん(ミエ姉ちゃん)はこの篭の分をやってもらっていい?」

「分かった」


商標なのか愛称なのかはアレだけど呼び名は知っているけど正式名称は知らない、握ると先が開くウニの殻を割る道具がある。

一応、手でも開けられるけど一個二個ならともかく、何十何百個となるとスピードと労力を考えれば道具を使うのが人間の知恵というもの。

美浦ではこの道具をウニをパカっと割るのでウニパカと呼んでいる。


ここに史朗くん(シロウ兄ちゃん)が居ないのは生臭い臭いが駄目だかららしい。

そういやアンチョビ擬き(もどき)の臭いに難儀してたな。


殻割りしたら生殖腺を丁寧に取り出して海水で洗う。

食品としての雲丹は実は生殖腺なので卵巣や精巣という事になるが、当然ながら消化器や摂取したものなどもあるので丁寧に生殖腺を取り出してもそれらが付着することもある。

海水中でそれらを選り分けて生殖腺だけにするのだが、数が数だしあんまりのんびりしていると傷むし旨味が海水に溶け出てしまうのでこの作業は結構な速さと正確さが求められる。


一般によく見る雲丹はムラサキウニのものが多いがバフンウニはムラサキウニより一回りも二回りも小さいウニなので身(正確には生殖腺だが面倒なので身)も相応に小さい。

それを親父殿の指導のもと目の細かい平らな竹笊に並べていくのは結構辛気臭い。


竹笊に雲丹を並べたら振り塩をして水分を抜く。

俺の知ってる塩雲丹は晒木綿(さらしもめん)に並べて塩を振っていたけど、笊を使うのは“水分を抜くぞ! 戻りは許さんぞ!”という強い意志を感じる。

そして抜け具合を確かめつつ裏返したり塩を振ったりしながら時間を掛けて重さが五分の一以下になるぐらいまで水抜きを進める。

そうは言っても一日二日でそこまで劇的変化があるわけではない。


「ねぇねぇ、これ何に使う?」


宣幸くんが笊の下に置いたボウルに溜まっている雲丹から抜けた水分(ドリップ)を指さしながらそういった。


「いや、捨てるけど」


最終的には重さが五分の一になるぐらい水分を抜くのだから、ドリップの総量はえらい事になる。

初日の今日の分だけでも全部のドリップを掻き集めたらリットル単位になりそうな量がある。

水分だけじゃなくて旨味成分や風味成分も含まれてはいるだろうけど、所詮は雲丹風味の塩水だから廃棄が正解だと思う。


「もったいない」

「のうのう、ノリちゃんにはがっかりや。それな、雲丹醤(うにひしお)ちゅう立派な高級調味料やで? それに水分飛ばせば雲丹塩っちゅう雲丹の風味と甘みがあってそんままで酒の肴にでけるぐらいのええ塩になんねん。大匙一杯で千円は下らん超高級なお塩様やで?」

「それをすてるなんてとんでもない」

「ほやほや、捨てるなんざ勿体な過ぎるで。のうノブくん」

「うん。絶対美味しい匂いしたもん」

「……マジで?」


こういったドリップは普通は臭みや雑味の塊だから捨てるものだと思うけど、お雲丹様はそうじゃなかったんですね。


親父殿が知っている塩雲丹の製法だと適度に水分が抜けて製品になるまで三箇月とか掛かることもあるそうだが、ある程度の量を作る以上は試食は必要ということで製造途中の物を試供したのだが、干し雲丹と共に大好評で安藤くんにウニ多め令がでた。

それと禁酒中の奈緒美と文昭(奈緒美が飲めないので付き合って禁酒している)が“これ絶対お酒に合う”とさめざめと泣いたことを付け加えておく。


雲丹の加工しているとアカニシガイほどではないけど結構な生臭さが身体につく。

有栖ちゃんは大丈夫なようだが、義智がむずかるのが哀しい。


福井藩が御用商人による独占買い上げや税の形で雲丹を全量確保していたので、浜の者がお目溢しで干し雲丹などが食べられたのを除けば福井藩では庶民が口にできる雲丹の味は塩雲丹の製造過程ででるドリップ(雲丹醤)ぐらいしかありませんでしたので、雲丹醤は貴重な雲丹風味の調味料になっていました。


一口に魚醤といっても色々な製法があるように雲丹醤も雲丹の塩辛っぽい製法のものや麹を使って雲丹を発酵させる製法のものなども存在します。

また、雲丹塩も作中で紹介した製法の他にも裏漉しした雲丹の身と塩を捏ねて乾燥させる製法もあります。

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