第14話 クーラー
赤ちゃんのお仕事は寝る事とおっぱいを飲む事。後は泣く事と排泄する事ぐらい。
生後半年ぐらいしないと昼夜の区別がつかないし、特に新生児は一回の睡眠時間も短くて一時間とか二時間寝たら起きてまた寝るというのを繰り返す。
その起きている時間が授乳時間になりやすく、一日に八回から十回ぐらい授乳する。
食事回数も多いが排泄回数も多く、御襁褓は毎日二十回ぐらい替えることになる。
こんなのをお母さん一人が看ていたら気が狂うわ。
もっとも、これは一般論というか標準範囲の話であって全てにおいて標準範囲に納まる育児書どおりの赤ちゃんはいない。
それは分かるが、義智はかなり標準からかけ離れている。
昼はやや間隔が短くて二時間おきぐらいに授乳を要求するが、夜はぐっすりお休みになられる。
御襁褓も一日に十回ぐらいと標準の半分ぐらいの回数でしかなく、夜も一晩に一回替えるぐらいですむ。
泣くのも誰かが気付くとトーンが落ちるという気配り仕様。
ある意味では全然手が掛からない赤子である。
ありがたいと思いつつも大丈夫なのかと不安も顔を出すが、体重は順調な推移をしているので健康上の問題はないと楠本奈菜さんが言っているからそっちの心配はしないようにしている。
「義智はたぶん人生三回目」
「何で三回目?」
「初めてでできるわけがない。二回目なら戸惑って巧くできない。それにその後増長する人生が見える。三回目は落ち着いて二回目の反省踏まえて謙虚になるから気遣いできる義智は三回目」
「まあ、お初でも三回目でも元気に育ってくれれば」
「こんな手が掛からないんだから間違いなく義教の息子」
「ん?」
「義教は赤ん坊のころから全く手が掛からなかったとシーちゃんが言ってた」
シーちゃんというのは俺の母親の事。
家族ぐるみの付き合いのある幼馴染だと大人になっても小さい頃の呼び方が継続してしまう事がある。
「ご飯貰ってきましたよー」
「美結さんありがとう」
食事は瑞穂会館の食堂というのが美浦のスタンダードだが、体調次第ではそうも言ってられないからテイクアウトやデリバリーのサービスはある。
出産後の一箇月から一ヵ月半ぐらいは産褥期といって妊娠出産でダメージを受けた身体が回復していく期間なので、できるだけ安静にしている方が良い。
だから、食事のために食堂に移動という事はせず、俺か美結さんが取りに行くか届けてもらっている。
「今日のお昼は宣幸くんの力作でーす」
「いただきます」
「美味しい。五臓六腑に染み渡る」
「サチ姉さんの分は特別仕様って言ってました」
産褥期に必要な栄養分を満たしながら食べやすさや食味にも配慮した逸品。
やるな、宣幸くん。
「特にレバーの処理が秀逸。義教より上手」
「宣幸くんに伝えときます。きっと喜ぶと思います」
グヌヌ……いや、ここは素直に宣幸くんを称えるべきだろう。
おっと、義智が泣き出した。
これは……お乳と御襁褓のどっちだ? それとも暑いのか?
「ご飯ね、今あげるから。よっと」
これが母親というものか。
正直なところ、あの佐智恵が母親をできるのか不安はあったのだが“案ずるより産むが易し”だったようだ。
「義教、私もご飯の最中だから食べさせて」
「はいはい。じゃあ、あーん」
有栖ちゃん、横で口を開けても……いいだろう、有栖ちゃんもあーん。
えっと、美結さんも真似しなくても……
差別は良くない? はいはい、分かりました分かりました。
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赤ちゃんは体温調整機能が未発達なので暑さ寒さに弱い。
寒いのは着込んだり動いたりして凌げないわけではないが、暑いのは裸になってじっとしていても暑い。
それと室温を上げるのは比較的簡単な方法が幾つもあるが、室温を下げるのは高度な技術が求められる。
比較的ローテクな物だと、気化熱を利用して打ち水とか濡らした布越しに風を送る冷風扇という物もあるが、これはこれで湿度ががが……
これまで美浦では赤ちゃんの暑さ対策にはソーラーカーの日和号と弁天号の空調を使ってきたのだが、赤ちゃんの人数も増えてきたし大人も暑いのは暑いので昨年末ぐらいにクーラープロジェクトが発足していた。
温度を下げるのがなぜ難しいかというと、熱は高いところから低いところに移動するという自然の摂理に反した事をしないといけないという点が大きい。
高きから低きに流れる水を高いところにポンプで送るように、熱を低温のところから高温のところに送る装置をヒートポンプというが、このヒートポンプは冷房、冷蔵、冷凍できるほぼ唯一の手段だったりする。他に無い訳ではないが実用性に欠けるのよ。
現代日本では冷凍冷蔵庫やエアコンをはじめ、いたる所にヒートポンプが稼動しているが、十九世紀にフランスのサディ・カルノーが熱移動のサイクルを発見するまでは天然の氷や雪を使ったり自然蒸発気化熱で冷やすぐらいしか手段がなかった。
日本にも氷室という地名や神社などがあるが、冬の間に氷雪を貯め込んでおいて夏場に取り出して涼をとった名残。
ヒートポンプは産業革命(十八世紀半)やフランス革命(十八世紀末)の後にできたという点からもかなり高度な技術がいる物だと分かると思う。
そのヒートポンプだが、幾つかの方法がある。
一つ目は気化熱を吸熱に凝縮熱を発熱に使ったもの。
圧力を掛けると沸点が上がるので気体から液体になり凝縮熱を発する。
この液体を圧力が低いところに噴射すると気化して気化熱で回りの熱を吸収する。
気化熱・凝縮熱は大量のエネルギーを要するのでとても効率が良く、大型から小型まで大きさを選ばずに作れるし、ある程度温度制御もできるので一番普及しているタイプがこのタイプ。
熱を移動させる媒体である冷媒は適度な圧力で液化したり気化したりする物質が望ましいので、初期ではエチルエーテルやアンモニアが使われてきたが可燃性とか毒性とか色々課題があるので、よりよい物質を求めて作られたのがフロン。
アンモニアは冷凍倉庫などで今も現役の冷媒だが、家庭用とかだと代替フロンが多いと思う。
二つ目は可逆な吸熱反応と発熱反応を利用したもの。
例えば硝酸アンモニウムや尿素は水に溶けるときに大量の熱を奪うので携帯冷却パックなどに使われている。
水に溶けた後のものは水を蒸発させると理論上は再利用できる。
実際にヒートポンプで実用されているのは臭化リチウムとかが多いが原理的には冷やしたいところで吸熱反応で周りの熱を奪い、放熱部で発熱反応させて熱を移動させるという点では同じ。
実用的なヒートポンプにするには装置が大きくなりがちなので大型施設のガス冷房などに採用例がある。
まあ、そういう装置では同時に気化熱や凝縮熱の利用もしているみたいだけど。
三つ目が熱を移動させる素子を使うもの
異なる種類の金属を接合して電気を流すと接合点で熱の移動が起きるというジャン=シャルル・ペルティエが発見したペルティエ原理に基づくもの。
パソコンを自作する人にはペルティエ素子とかペルチェ素子というと分かるかと思う。
大型化は難しいが小型で動作音や振動もなく、電流の制御で温度を高精度に調整できるなどの利点があるので携帯冷温庫とか医療用冷却装置などでの採用例がある。
四つ目は一つ目と似ているが、気体の圧縮と膨張で熱移動させるもの。
一つ目との違いは冷媒が気体と液体ではなく気体のままという点。
温度差から出力を取り出すスターリングエンジンという物があるが、これの逆反応でスターリングエンジンに入力すると温度差が生じる事を利用したものをスターリング冷凍機と言って実用化されている。
冷やすのに気化熱を使っていると冷媒の沸点以下に下げることはできないがスターリング冷凍機にはその制約はないので理論上は絶対零度まで下げられるので超低温を作り出すのに使われる例もある。
他にも方法はあるが、主だった方法としてはこの四つとその派生。
そして美浦で採用された方法は四つ目のスターリング冷凍機。
一つ目は冷媒の問題とエアポンプの問題があって断念。
冷媒は一応アンモニアはあるが、アンモニアは毒性が高いので事故が怖い。
それと駆動させるのに気体のポンプや弁が必要なのだが中々厳しいし、冷媒を充填する前に空気を抜いておかないといけないが真空ポンプも……
二つ目は現状では規模が合わないのと適した物質が……
三つ目なんて極論すると半導体だから。
つまり、一つ目か四つ目しか選択肢はないのだが、一つ目が駄目なので消去法で四つ目のスターリング冷凍機に決まった。
エンジンと構造が近いので文昭が設計して匠が製作したスターリング冷凍機だが、かなりピーキーな代物だった。
回転数が低いと全然冷えないのだが、回転数を上げて冷えだすと一気に冷えてしまい、適度という状態が作り出せない。
そこでとった対策は熱容量(比熱)の大きい水を間にかますことで温度変化を緩和するというもの。
試行錯誤を繰り返して先般、瑞穂会館を適度に冷房できるクーラーが完成した。
楠本夫婦は“人類の至宝、科学の勝利”とどっかで聞いた事のあるセリフを言っていたのはお約束というもの。
冷えるまでに時間が掛かるのが難点ではあるが、有るとないとでは大違い!
人間が一番活動しやすい気温は摂氏十五度ぐらいで、実は摂氏二十五度は暑すぎる気温だったりする。
最高気温が摂氏二十五度以上だと『夏日』だし、最低気温が摂氏二十五度以上なら『熱帯夜』になる。
摂氏二十五度という気温は“寝ていても暑い”という現実をもっと重視すべきだと思う。
日本は欧州に比べて夏の気温が高いので欧州より学習効率が悪いのは仕方がないこと。
副産物(?)として冷却性能が良過ぎた冷凍機は冷凍庫に利用してそこで作った角氷は各家庭の夜間の冷房に使われる予定。
現代日本の都会の熱帯夜に比べたら過ごしやすくはあるが、志は高くいきたい。
冷房についていえば奈緒美を筆頭に幾つか提案というか要望がだされている。
一つは米の貯蔵庫の温度を下げたいというもの。
穀物を食害するコクゾウムシが活動停止する摂氏五度という冷蔵庫並みの温度が希望だが、摂氏十八度以下ならかなり抑制されるので検討して欲しいとの事。
もう一つは牛舎の冷房を検討して欲しいというもの。
欲を言えば鶏舎もだが、鶏より牛の方が暑さに弱いので牛舎の冷房が優先だそうだ。
まあ、人間以外も暑さに参ることはある。
氷の差し入れとか考えた方がいいのかな?
ちなみに美浦のスターリング冷凍機は重いし嵩張るので今の美浦の船舶に載せるのは無理。