第13話 義智
「行きなさい」
「いや、しかしだなぁ」
「しかしも昔も案山子もない。デモもストもゲバもない。第一、いても役に立たない」
「役に立たないは言い過ぎじゃね?」
「言い過ぎじゃない。これまで役に立った者は皆無。有栖ちゃんの方がよっぽど役に立つ」
「ん? さっちゃ、何?」
「有栖ちゃんは頼りになるって言ったの」
「ムフー」
「このままだとこの子は“お前が産まれたとき、お父さんは仕事をサボって沢山の人に迷惑を掛けた”と言われる事になる」
もう直ぐ子供が産まれるから滝野行きを渋っていたら佐智恵に叱られている図。
織姫橋の工事と交換市をこなしていたら半月は帰ってこれない。
佐智恵は初産なんだし傍にいたいと思うのは不自然ではないと思うのだが……
「織姫橋の支保工を抜く重要工程に責任者不在は許されない」
確かに滝野の織姫橋は壁石も栗石も積み終わって工事中に輪石を支えていた支保工を取り外すタイミングではある。
アーチ橋の石橋は石が互いに圧縮しあって支えている構造で個々の石は接着も何もされていない。
例えが適切かはあれだが麻雀の牌を積むときに両端から挟んで持ち上げるあの状態みたいなもの。
だから何らかの瑕疵があると支保工を外すと橋が壊れて落下する事もあって、支保工を取り外す際は崩れたときに危険な場所は立入禁止にする。
橋が崩れるとこれまでの苦労が水の泡になるので工事責任者が橋の上にいて崩れたときは命でお詫びするなんて例もあったそうだ。
例えば熊本にある通潤橋では支保工を取り外すときに旗振り人の惣庄屋が白装束で橋の中央に鎮座し、石工頭も橋が崩れた際は切腹できるよう短刀を懐にして臨んだとか。
そこまで深刻ではないにせよ工事責任者がその場にいないというのは佐智恵の言う通り許されることではない。
「…………なら、延期する」
「産まれた後の方が大変だから延期は止めろ。ここで予定が崩れると押せ押せで多方面に影響がでる。駄々捏ねてないで行け」
「いけぇー」
「気持ちは分からなくもないですけど行かないと駄目なのでは?」
ぐぉっ! 美結さんまで……
家族全員に窘められる図に進化した。
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断腸の思いで滝野に向かい、匠や文昭と共に支保工を取り外す。
支保工が外れないときは最悪支保工を破壊してもいいとは思うけど、できれば再利用できる部材は再利用したい。
木材もそうだけど釘を捨てるのはもったいないから破壊するにしても釘を使っている箇所は可能な限り回収したい。
現代だと支保工をジャッキアップしておいて施工して支保工を外すときはジャッキを緩めて隙間を確保して取り外すということも可能だが、ここではそういう手法は採れなかった。
なので支保工の下に木片を置いておき、外すときにはこの木片を叩き出すなり引っ張り出すなどして取り外すという方法を採っている。
これは横井戸を掘っていた頃にも使っていた手法。
土嚢を敷いておいて外すときは土嚢を破って中の砂を出すというアイデアもあったのだが、沈下や施工中に破袋する危険もあるのでお蔵入りになっている。
まずは滝野側の支保工の下の木片を取り除く。
滝野側からにするのは失敗していて橋が崩れたときに取り残されないようにという事。
槌で叩いて支保工を支えていた木片を取り除くとギギィと木が軋む音をさせながら支保工が少し傾く。
そしてバラバラと砂が落ちる音と共に石同士がぶつかる音が聞こえる。
石同士がぶつかる音は輪石同士が噛み合った音とも言えるのでこの段階で崩れなければ成功している確率がかなり高くなる。
それと、石橋と支保工がくっついていないという事でもあるのでここまでは上々の滑り出し。
反対側も下ろさないといけないので石橋を打音検査しながら渡る。
打音検査というのはハンマーなどで軽く叩いて発生する音などで異常がないか確認するもの。
つまりは“石橋を叩いて渡る”を地で行っている。
橋を渡って岩場の方の支保工に噛ませてある木片も外すと石橋と支保工の間に空間ができる。
目視で確認する限りでは問題はないようだ。
「アーチも揃ってるし大丈夫だろう。これで最大の山場は越えたな」
「ああ。念の為十日ほど様子見するけど大丈夫だろう。これで少し肩の荷が下りた。文昭もキートス」
「おう。また支保工を動かすときは呼んでくれ」
現時点で支保工を石橋の下から抜いてはいない。
なぜ抜かないのかというと理由は二つある。
一つは万が一石橋が崩落したときの被害を抑えるため。
アーチ橋は荷重によってアーチ部分が広がろうとする力が加わるので、地面との接合部で水平方向に掛かる力に対抗できるだけの強度がなければアーチが広がって橋は崩れてしまう。
特にアーチの反りが少ない橋だと水平方向の力が強くなるので、アーチの反りが大きく半円を描くようなアーチ橋も珍しくない。
たいていの橋梁は基本的には鉛直方向の力に対抗できればいいのだが、吊橋とアーチ橋は水平方向の力も考慮しないといけないのも特徴といえる。
この水平方向の力は荷重が掛かれば掛かるほど強くなるので、支保工が支えていた荷重が加わることで接合部が動いてしまう可能性はある。
それだけに念には念を入れて岩盤直結で造ってあるからあくまで可能性があるだけだし、完成後は取り外すから気休めといえば気休めだがそれで何か余分な労力を使う訳ではないのでそうしている。
もう一つが仕上げをする際の足場や落下防止の余地として。
作業する側に支保工をずらしてやれば足場にもなるし、岩場の急流にダイレクトダイブという事態も避けられる可能性がある。
「渡り初めはいつだっけ?」
「予定なら子供キャンプに合わせて八月初旬。欄干とか仕上げは手筈通りで間に合うとみていいか?」
「任せろ」
「任せた」
「それはそうとして、織姫橋と烏鵲橋の間だが……」
「何かあるのか?」
「そこも橋にしないか?」
「……その心は?」
「山雲組に石造アーチ橋の架橋をさせたい」
高さの無い陸橋であれば失敗しても大事にはならないから経験させるには打ってつけという訳か。
しかも低いアーチ橋だと反りは小さくしないといけないし、川が増水して岩場に越流してきた時の対策とか雨水が溜まらないようにする工夫とかを考えると決して難度は低くはない。
場合によっては『ねじり橋』といってアーチ部分を斜めに捻ったものにしないといけないかもしれない。
ねじり橋は三重県いなべ市にある三岐鉄道北勢線のねじり橋が選奨土木遺産に選ばれている事からも分かると思うが結構な難度を誇る。
「なるほど。それじゃあ、烏鵲橋の設計から見せるか?」
「いいねぇ」
「じゃあ、提起は」
「やっといてくれ」
「……へいへい」
■■■
七月の交換会を終えて帰ってきたら息子が生まれていた。
誕生日は奇しくも俺、佐智恵、有栖ちゃんと同じ七月十二日。
うちで誕生日が七月十二日でないのは美結さんだけという状況は変わらず“誕生日仲間外れが解消されない”と嘆いていた。
命名『義智』
俺は『義』の通字には拘っていないのだが佐智恵が拘った。
そして俺は俺で佐智恵から一字付けたいと思っていた。
両者を併せると候補は『義佐』『義智』『義恵』となるが、『佐』は次官とか助けるという意味があるので第一子には不向きだろうという事で男なら『義智』女なら『義恵』を一応候補にしておいた。
『義恵』は響きは女性的だが『義』の字が男性的な印象を醸し出しているので男性名でも不思議ではないように思うので正直なところどうかとも思っている。
東雲家の通字の『義』は男のみで女には適用されないので、もし次の機会があれば女なら『義』の字は外そう。
幸いにも産後ハイでトンデモネームを主張することもなく候補どおりの義智に落ち着いた。
正確には「ヘキサニトロヘキサアザイソウルチタン」――二十一世紀初頭で量産可能な爆薬の中では最大の威力を誇る物質――という何重もの意味でトンデモなキング・オブ・トンデモネームを思い付いたそうだ。
しかし、それを聞いた有栖ちゃんが不思議なものを見たような顔をしたので考え直したと聞いたときは“有栖ちゃんグッジョブ!”とワシャワシャしてしまった。
うん。有栖ちゃんは役に立つは本当だった。
「ともちゃ笑った!」
「可愛いね」
「ともちゃかわいい!」
「智ちゃんは御睡だから、シー」
「シー」
生後直ぐは外的刺激で笑うことはなく、寝入るときや寝ているときに反射的におこる生理現象として一瞬微笑んだような顔をするだけなので新生児微笑とか生理的微笑と呼ばれるもの。
しかし、俗称で“天使の微笑み”と言われるぐらいとても可愛い。それが我が子ならなおさらである。
笑顔でいるのは一秒ぐらいなのでそれを見られるのはレアな部類だと思うが運良く見られた。
生後二箇月ぐらいになると生理的微笑はほぼなくなり、代わりに人の顔などに反応して笑顔になるようになる。
もっとも人の顔らしきものなら写真でも人形でもなんならぬいぐるみでも反応するらしいから顔認識の初期段階って感じかな?
ん? 有栖ちゃんが袖を引っ張っている。
両手を口に添えて内緒話の格好をするので耳を差し出すと“有栖もかわいかった?”だと!?
内緒話返しで“有栖ちゃんも可愛かったよ。今も可愛いよ”というと満面の笑みを浮かべる。
ああ、守りたい、この笑顔。