第9話 竪琴橋
ピーピッ、ピーピッ、ピーピッ、ピーピッ、ピッピッピッピー
ホイッスルの合図に合わせて橋桁の梁がオリノコ川の上空を渡っていく。
蜘蛛の糸号のクレーンで吊れば直ぐ終わるような作業だが、今後の事もあるので美浦の若衆も加えて手作業で進めている。
渡している梁は四本ある梁の最後の一本なのでこれが架かれば多人数を必要とする作業は終わりで、後は副梁や床板を固定したりケーブルを張ったりといった少人数でもなんとかなる作業しか残っていない。
建設中のこの橋は完成の暁には『竪琴橋』と命名される予定になっている。
斜張橋という橋脚に建てられた主塔から斜めに張ったケーブルを橋桁に繋いで保持する形式を採用したのだが、斜めに張るケーブルが平行になるように張る竪琴型というケーブルの張り方にしたので、橋を横からみると竪琴が連なっているのように見えるというのが命名の由来。
斜張橋はケーブルで橋桁を吊っているので吊橋の一種と思われることもあるが、土木の世界では斜張橋と吊橋は別物として取り扱われている。
両者の最大の違いは橋桁の保持方法の違いで、吊橋はメインケーブルの張力で支えているから橋の両端にメインケーブルを固定して橋の荷重を受け止めるアンカレイジという重しが必要だが、斜張橋は橋の荷重を斜めに張ったケーブルで主塔の圧縮力に変換しているのでアンカレイジは不要である。
見た目はともかく、構造も特性も建設手法も何もかもが異なるので建設業界では違うカテゴリーに分類している。
竪琴橋は柿渋と桐油で防腐・防水処置されてこげ茶色になった檜材で造られた主塔が、煉瓦で化粧した石造りの橋脚に据えられていて、主塔の左右から六本ずつでている麻綱が橋桁と主塔を結んで、全長三六メートル、全幅三.六五メートル(二間)、桁下高約三.七メートルとなる予定。
吊橋と斜張橋の違いはあるが上高地にある河童橋と似たような規模だと思ってもらえばいいかな? 観光地になるかは知らんけど。
この竪琴橋の設計をしたのは昨夏なので架橋まで一年とはいわないがそれに近い時間が掛かっている。
これだけ掛かったのは建材の手配もあるけど、その大半は橋脚を建てる事に費やされてきた。
斜張橋の橋脚は橋脚に据えられた主塔に掛かる橋の荷重を受け持つので他の形式に比べて橋脚に強度が求められるので手間隙や資材をふんだんに使ってかなり頑丈に造られている。
川原に橋脚の三倍ぐらいの面積を深さ二メートルぐらい掘って杭打ちして基礎を造り、その上に三和土で固定した石積みの躯体を組み上げ、表面は煉瓦積みで化粧までしている。
おまけに凝り性の匠が自重しなかったようで煉瓦でナセさんを中心にしたオリノコ建設建築班の山雲組(東山匠と東雲義教かららしい)のエンブレムまで描いてやがる。
石積みは石垣などで分かると思うけど結着剤で固定しなくても大丈夫なように組めるんだけど、そのように組んだ上に三和土で固めている。
三和土は使っても少量という合意はどこに行ったのやら、ふんだんに使いやがりました。
必要以上にと思うぐらい頑丈に造ってあるので、表面の煉瓦の化粧はともかく基礎や躯体は余程の天変地異でもない限り千年単位で持つような気がする。
それが右岸と左岸に一基ずつあるから工期も掛かったし結構な量の労働力を投入した事になる。
そうまでしてオリノコ川に橋を架ける目的は三つある。
一つは主目的であるが、オリノコ川左岸の堆積帯にある粘土を使って煉瓦や陶器の生産を支える事。
徒歩で渡河してちまちま運んでいたものを一気に荷車で運べるようになれば登り窯がフル稼働できる。
燃料については淡路島産バイオブリケットやオリノコ川左岸の森林から伐採などで当面は行ける見込み。
次に、建設建築技術の研鑚と需要の創出。
恒常的に需要があるから業として成立して技術の研鑽や継承がなされる。
今回の橋梁では設計や施工管理は俺や匠が担ったし、人手が要る場面では美浦の若衆も応援したけど、それ以外は基本的に山雲組が施工している。
手際も段取りも悪くないので場数を踏んでいけば独力でできるようになるのではないかと思っている。
最後は美浦とオリノコを結んでいる国道一号線を伸長させられる事。
一筋縄ではいかないだろうけど、何れは滝野まで結びたい。
欲を言えば滝野と他の集落を、そして氷上回廊を通って日本海に至る交通網を整備したい。
現在の進捗としては八割ぐらいだと思うが、後の作業に大きな難所は無いので完成は時間の問題だと思う。
そして後はナセさんにに任せて大丈夫とばかりに匠は石板を彫っている。
「石に刻むの好きやねぇ」
「情報記録媒体として最長を誇るのが石だからな」
記録メディアには寿命がある。
物理的な寿命よりも読み書きする規格が廃れて読み書きが不可能になる例も多く、二〇〇〇年代以前はどのコンピュータにも標準で読み書き装置が付いていたフロッピーディスクも現代では既に過去の遺物となっている。
フロッピーディスクドライブを入手すること自体が難しいのに加えて、恐らくは現行のOSに合わせたデバイスドライバは自作必須だろうから、一般人にフロッピーディスクに記録されている情報を見ることはまず不可能だろう。
つまりフロッピーディスクは記録メディアとしては寿命を迎え絶滅しているといっても過言ではないと思う。
他にも統一規格争いに敗れた……やめておこう。
その点では装置類がなくても読み書きが何とかなる記録は物理的に壊れでもしない限り残る。
具体的には紙や金属板や粘土板や石板などに書かれたり描かれたものだが、その中で一番壊れにくいものが石板。
仏教の経典に『懸情流水 受恩刻石』(懸けた情けは水に流せ、受けた恩は石に刻め)という文言があるそうだが、『石に刻む』というのは『永遠に忘れない』という事であり、『自分の死後も残す』という事でもある。
もっとも、受恩ではなく憤懣を『心の中の絶対に許さない平原の石碑に刻む』というものもあるそうだ。『恨み骨髄に徹す』も怖いが『許さない平原の石碑に刻む』とは違って恨みは晴らすことが可能な分だけマシとも思えてしまう。
閑話休題。
匠が彫っている石板には竪琴橋の概要が図と文字で綴られている。
しかし橋の三面図(正面図・側面図・平面図)や橋脚の断面図などは美術的観点をぶん投げた仕様でほぼ設計図と言えるものなので、建設業者がこれを見たらそれだけである程度は復元できるだろう情報量になっている。
橋桁や主塔といった上部構造は木造なので流失や焼失は有りうるし耐用年数の問題もあるだろうから、石板の情報は架け替えに備えてなのかな?
「しかし、橋銘板にしてはでか過ぎないか?」
「橋銘板は竣工日を入れるだけのができている」
橋銘板というのは、橋の名称や竣工日(たいていは年月まで)、交差する河川などの名称を記した銘板の事で、橋の基点側と終点側の左右それぞれの合計四箇所に設置される事が多い。
どこに何を記した物を設置するのかという決まりがある訳ではないが、慣例的には基点側から橋をみて左に漢字表記の橋梁名、右に交差する河川や道路などの地物の名称、終点側から橋をみて左に竣工日、右に平仮名表記の橋梁名という配置をとる事が多い。
橋銘板の設置義務は無いので橋銘板が無い橋梁もあるが、主要な橋梁にはだいたい設置されているが、様式についても決まりが無いので色々な橋銘板があり、個性的な橋銘板や文化や歴史を感じさせる橋銘板もあって、そういう物は見るだけでも中々趣き深い。
俺が知らないだけで取り上げられたことがあるかもしれないけど、グラサン司会者の倶楽部か散歩で取り上げてくんねぇかなぁ……何て思っていた。
「じゃあ、これは別途建てる碑文かい?」
「資材置き場にしてるとこにある岩に貼り付ける」
「……さよか。いつできる?」
「竣工までには間に合わす」
「渡り初めの式次第に(碑文の)除幕式入れた方がいいか?」
「可能なら頼む」
「そうか……分かった。そうそう、滝野の織姫橋と烏鵲橋に設計図の石碑は要らんからな」
「異議あり! 示威のためにもそれなりの物を!」
「異議を棄却します。威容は石橋だけで十分示せます」
「それなら橋梁名の由縁として七夕伝説の碑文を」
「提案を却下します。七夕伝説は現状と整合性を持たせる必要があり、それなしには判断できません」
主に裁判とかで主張を認めないときなどに使われる棄却と却下だが、この二つは使い分けがある。
ざっくり言うと却下はいわば門前払いで主張の是非を審議しない場合に使われ、棄却は審議はしたけど主張を認めない決定をした場合に使われる。
設計図の石碑の要否については検討して不要と判断したから棄却。
七夕伝説は橋梁名の元ネタなのは確かだが、日本に伝わる七夕伝説をそのまま使うという訳にはいかない。
ちゃんと現状と整合する新七夕伝説――七夕に限る必要はないが――を造らないといけない。
それが定まっていない状態で『七夕伝説の碑文を』と言われても是非の判断ができないので却下。
「……なら、せめて親柱と欄干に意匠を! 欄干は不要な設備じゃないだろ?」
親柱というのは欄干の両端にある柱の事で、欄干の他の柱に比べて大きく作られることも多く、橋銘板も親柱に据え付けられる事も多い。
「それも却下します。美浦総会もしくは委員会に上げてください。俺は雪月花のお説教をくらいたくありません」
別に箸の上げ下ろしにまで口出しするつもりはないが、匠は――匠に限らないが――独断でやっていいラインを平気で超えてくる事がある。
もしここで俺が匠にフリーハンドの口実を与えたとしたら……色々な意味で怖い。
「えっ? 説教コース? そこまで?」
「当然だろ? もし設計図の碑文も黙ってやってたなら十分説教コースだと思うぞ」
「嘘!」
やっぱり独断か。
俺も今の今まで知らなかったしな。
「……設計図の碑文については俺も多少は必要性を感じるから弁護してもいいけど」
「それは助かる」
「とにかく黙ってやるな」