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文明の濫觴  作者: 烏木
第9章 濡れぬ先の傘
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第2話 鰹チャレンジの準備

消石灰(水酸化カルシウム)と生石灰(酸化カルシウム)を積んだ機帆船の春風が出港していく。

安藤一平くん(一平ちゃん)は黒潮の慣熟に忙しいので春風の船長は一平ちゃんではなく伊達素弘くん(もっくん)が船長代理を勤めている。

春風の行き先は美浦から見て淡路島の反対側の紀淡海峡の西端あたり。

そこに燃料や水の集積地を作っていて、鰹チャレンジはそこを拠点にして行われる予定。


積んでいった荷物だが、生石灰は乾燥剤としてと吸湿したら消石灰になるということ、そして消石灰は現地で褐炭を固形燃料(ブリケット)に加工するための原料。


実は集積地に近いところに褐炭の露頭があったので、集積地には高圧造粒機(ブリケットマシン)を設置している。

だから消石灰を持っていけば集積地でブリケットが作れるので作り貯めをしている。


褐炭は含水率が高いので乾燥させないと燃焼効率も輸送効率も悪い。

そして空気との接触面積が広いと酸化して酸化熱で自然発火する事もあるから粉体のまま保存するのは危険が大きい。

だから褐炭は現地で消費するか現地で乾燥・圧縮してブリケットに加工してから運び出すのが一般的。


ブリケットを作るのになぜ消石灰が必要なのかというと脱硫のため。

なくても形にはなるし燃えるのだが問題が多い。


石油や石炭などの化石燃料はある意味では生き物の化石なので多寡はあれど生物由来の硫黄が含まれていて、その硫黄が燃えると亜硫酸ガスに代表される有害なSOx(硫黄酸化物)が発生する。

大気中に大量のSOxを排出したらまずいので、事前に硫黄を取り除いておくとか排気ガスからSOxを取り除くといった脱硫処理が必要になる。


現代では原油から硫黄を取り除いてから精製するのが一般的なので現代のガソリンや灯油などの石油製品に硫黄はあまり含まれていない。

石油は液体だから比較的簡単に硫黄を除去できるが石炭は固体なので石油ほど簡単ではない。

なので、燃やした後にSOxを除去する方法が採られることも多い。


SOxはカルシウムがあるとやり方にもよるが硫酸カルシウム(石膏)として除去できるので、石膏にして取り除くというのが基本的な対処法の一つ。

現代でも硫黄分の多い燃料を使用する施設では、排煙を石灰乳(水に溶解度以上の過剰な消石灰を加えてかゆ状の懸濁液としたもの)にくぐらせてSOxを回収しているところも多い。


まあ、そんな脱硫装置を蒸気船に積むのは難しいので、褐炭に消石灰を混ぜてブリケットにすることで対応している。

これは褐炭をブリケットにして利用するときに使われている脱硫手法の一つで、九割ぐらいの硫黄は石膏の形で焼却灰の中に残る。


利便性でみればブリケットは電気や石油とは比べ物にならないぐらい劣るが、安価な褐炭や石炭粉に安価な消石灰を混ぜて圧縮して固形化するだけなので施設の維持管理の手間が少ないなど、ローテクで作れる安価な燃料であるのは間違いない。

原料に農業残渣や大鋸屑など植物系の可燃物を加えてブリケットにしたものはバイオブリケットとも呼ばれていて廃棄物処理も兼ねる燃料として普及させようとしていると聞いた事がある。


淡路島には幾つか褐炭が採れるところを見つけているし、佐智恵がいうには小豆島にも褐炭の炭鉱があった筈ということで、蒸気機関のベース燃料は褐炭ブリケットもしくはバイオブリケットを利用することになった。


産業的にみると低品位炭だし、たいした埋蔵量ではないかもしれないけど、使う人数が人数なので俺らが生きている内に使い切ることはないと思う。

ちなみに、以前佐智恵が言っていた半炭化チップ(トレファクション)は製造難度が高くエネルギー効率も現状の美浦のインフラではよろしくなかったのでお蔵入りになった。


試行錯誤した榊原くん、ごめんなさい。


■■■


「誤差は経度でマイナス三分、緯度でプラス一分」

「緯度の方が自信なかったんですけど経度の方がずれてましたか」

「天文航法でこの程度の誤差なら実用上問題ない。あと何回かやって全部三分以内なら安心して任せられる」


一平ちゃんと将司が何をしているかと言うと、航海年鑑と六分儀と時計を使って緯度経度を測定する訓練で、太陽や月や星の位置などから現在地を割り出すのは天文航法とか天測航法と呼ばれるものの根幹になる技術。

誤差が何分といっているのは緯度経度は一度の六〇分の一を一分というので、割り出した緯度経度が示す場所は測定した場所から北に六〇分の一度(約一.八キロメートル)、西に六〇分の三度(約四.六キロメートル)離れた地点にあるという事。


分をさらに細分化して一分の六〇分の一を一秒という事もあって『東経○○○度◇◇分△△秒 北緯○○度◇◇分△△秒』という感じで使うこともある。

ものによっては秒の小数点以下四桁程度まで使って『東経一三九度四四分二八.八八六九秒 北緯三五度三九分二九.一五七二秒』という感じに使う事もある。

しかし小数点四桁というと三センチメートル四方より狭い範囲に特定しているわけで、これは動かない土地なら意味がある行為だが、移動体の船舶でその精度を出すのは技術的に難しいしそもそも意味がない。


将司がいうには天文航法での観測機器の精度での限界は〇.一分(六秒)ぐらいだから航海系だと分の下は小数点以下一桁までで、一分三〇秒は一.五分と表現するのが一般的なのだそうだ。分の単位で小数点以下一桁だと特定できるのは二〇〇メートル弱の範囲。

しかし、移動中の船舶で限界精度はだせず、相当技能が高く経験豊富な航海士でもないど〇.二五分(一五秒:四六〇メートル強)に迫るのは難しいらしい。

そして、実は数分ぐらいの誤差だったら実際のその位置はほぼ視界内にあるので実用上の問題は皆無といっていいらしい。


緯度で一分の誤差というのがどれぐらいの誤差かというと、経線(子午線)上で一分の距離が一海里(一八五二メートル)の元々の定義なので緯度が一分違うというのは南北方向に一海里程度の誤差があるということ。

経度が一分違うばあいは赤道上なら誤差は一海里ぐらいになるが緯度が高くなると一分の距離は短くなっていき北極と南極だと誤差はゼロになる。

北緯三四度四五分ぐらいのこのあたりだと……cos(コサイン)三四.七五度が近似するから……〇.八二海里ぐらい?


なぜ一平ちゃんが天文航法の訓練をしているかというと鰹チャレンジでは陸地が全く見えない大海原にでる可能性があるから。

そうなると陸地などの基準物を見ながらの地文航法ができなくなるので天文航法ができないと位置を見失って遭難する(おそれ)がある。


この天文航法なのだが、天体の動きと観測したときの日付時刻の両方が分かっていないと成立しない。厳密には他の方法もあるけどもっと難度が高くなる。

その天体の動きなのだが、将司や由希さんがこつこつと天体観測し続けて作った天体暦の精度が実用に問題ないぐらいまで上がったことも鰹チャレンジの後押しをしている。


そして時刻についてだが、天測に使うには精度が高い方がいいのでできればクォーツ時計を使いたい。しかし、拉致られてからそろそろ四年になるので大半のクォーツ時計は電池が切れて沈黙している。

例外は太陽電池付きのクォーツ時計で、今も元気に動いているので今回はこの太陽電池付きのクォーツ時計を使用する。


最後の精度の高い測定機器だが、六分儀を使って天体の角度を測る。

六分儀で水平線と太陽や月との角度や月や恒星や惑星の間の角度を測り、それを天体暦の抜粋である航海年鑑と照らし合わせて観測日時から現在地を割り出すのが天文航法の基礎。


例えば、ある日時に太陽がとある高度(角度)に見える地点は太陽の等高度円といってたいていは円周状になるから観測地点はその円周上のどこかということになる。

そしてそれは月でも恒星でも一緒なので、複数の天体の等高度円が交わる交点が現在地ということになる。その交点は基本的には二箇所になるのだが、普通は思いっきり離れた地点(例えば日本近海とインド洋とか)になるのでどちらかは自明という感じになる。


問題は観測した角度の計測精度がガバガバだと観測地点から何百キロメートルも離れた場所が算出されてしまうなど使い物にならなくなる。

つまりは天測用の六分儀は高い計測精度が求められるのだが、天測機器に求められる精度の六分儀を新たに作製するには工作機器が貧弱すぎて現在の美浦では無理。

約めていえば今あるオーパーツを使うしかない。


ちなみに太陽電池付きクォーツ時計と六分儀は両方とも将司の私物。

それなら将司が航海士をやればいいじゃんって思うんだけど、将司曰く「やらない方が良い」だってさ。


「でも南中時刻が十二時じゃないってのが凄く違和感があるんですよね」

「太陽が南中してからもう一度南中するまでの時間は一年中一定じゃなくて変動している。だから一日の長さを平均の長さに固定して結果として南中時刻が正午から前後することを許容するのを平均太陽時、逆に南中時刻を正午に固定して一日の長さが変動するのを許容するのを視太陽時(したいようじ)とか真太陽時(しんたいようじ)っていうんだ。まあ、差としてはプラマイ二十分もないんで精密な時計がなければ一般の生活だと後者の視太陽時の方が都合がいいから江戸時代とかは視太陽時を使っていたようだ。だけど精密に測れるようになると一日の長さが変動するのは影響が大きすぎるから普通は平均太陽時を使う」


「まあ、一日の長さが変わるよりは……でもなんで一日の長さが変わるんですか?」

「大きな要因は二つあって、一つは地球の公転軌道が楕円形だという事と、公転面に対して地軸が傾いている事。正確には他にも色々あるけど大きな影響があるのがこの二つ」


「地軸の傾きが季節を作っているってのは分かりますけど、何で一日の長さが変わるんですか? 地球の自転速度ってそんなに変わらないですよね?」

「地球の自転速度については、だんだん遅くなっていく筈だけど一秒遅くなるのに万年単位の時間がかかるから人間のというか人類のスパンでは一平ちゃんが言うようにそんなに変わらないから一定と思っていい。だけど、その自転速度というのは太陽を基準にするんじゃなくて太陽系を俯瞰してみたばあいの事で、そのときに地球が一回転する時間……天文学では恒星日って言うんだけど、この恒星日は二十三時間五十六分四秒ぐらいなんだ『兄さん殺し』って語呂合わせがある。太陽を基準にした視太陽日はもう一度太陽が南中しないといけないから公転した距離分兄さん殺しから余分に回らないと駄目ってのは分かる?」

「…………ああ!」

「でだ、ケプラーの第二法則って分かる? 惑星と太陽とを結ぶ線分が単位時間に描く面積は一定って奴」

「聞いた事があるようなないような……」

「分かりやすいよう極端に描くとこんな感じになって……つまり、地球の公転速度は遠日点で最も遅くなり近日点で最も早くなる」

「なるほど」

「それとさっきの余分に回るを合わせると、太陽が南中してからもう一度南中するまでの時間は遠日点で最も短くなって、そこから徐々に長くなっていって近日点で最長になり、そこから徐々に短くなっていくっていう一年周期の波動がおきる」

「そういう事ですか」

「こっちは言われればって感じだろ?」

「はい」


「もう一つの地軸の傾きだけど、公転で動いた距離が一緒でも地軸が傾いているから余分に回らないといけない距離は変わってきて、その時間は春分点や秋分点が最も短く、冬至や夏至が最も長くなる」

「…………どういう事です?」

「冬至や夏至では地軸の傾きの方向と太陽の方向が平行に近いから公転で動いた角度の丸々を自転しないといけないけど、春分や秋分だと傾きの向きと太陽の方向が直角に近くなるから地軸の傾きがアシストして余分に回る距離は少なくて済む。まあ分かりにくいとは思うけど」

「ええっと……」

「まあ、現実はそうだからそういう物だと思ってくれ。で、こっちは春分が最短で徐々に長くなって夏至で最長、また徐々に短くなって秋分で最短、そこから長くなっていって冬至で最長になり徐々に短くなって春分を迎えるって寸法になる。こっちはだいたい半年周期の波動になって、異なる周期の二つの波動を合成すると高い山、深い谷、低い山、浅い谷といった感じの周期になりやすい。これは潮汐も一緒で、太陽の潮汐と月の潮汐の合成……実際は沢山の要素があるけど太陽と月がかなりの部分を占めているからおおまかにはこの二つの合成と思えばいい」

「月で大潮や小潮があるのは分かるんですが、一日で満潮や干潮の潮位が違うのが分からなかったんですけどそういう事だったんですか」

「電気とかもそうだけどこの辺りの波の性質って色々繋がって面白いんだぜ」


「そうですね。あっ! 南中時刻が暦によって違うってなると日時計って視太陽時でしたっけ? それしか測れないって事になりませんか?」

「良い着眼点だね。単純に影の角度だけで測るならそうなるが影の長さも合わせて測れば違ってくるし、設置されている日時計には平均太陽時と視太陽時の差を表す均時差のグラフが添えられている事も多いからそれで補正すればいい。日時計に潮汐表みたいな山二つ谷二つの図があったりするのは見たことあるか?」

「あれ何なのか不思議だったんですけどそういう事なんですか」

「そゆこと。分かってないと天体暦は作れないから由希さんはよく分かってる。詳しく聞きたかったら由希さんに聞けばいい」


由希さんは将司の天測試験を突破している。

一平ちゃんは予備というかバックアップ?


■■■


満潮のころに美浦から出発して引き潮に乗って明石海峡を抜けて大阪湾に出て、そこから淡路島を右手に南下したら集積地に到着する。

帰りは干潮のころに出発して上げ潮に乗って北上して明石海峡を通って美浦に帰着する。

この航路は四〇海里ぐらいあって春風だと(帆走だと風次第だけど)動力航行だと四時間ぐらい掛かるそうだ。現代の船舶と違って潮流をものともせずに進むだけのパワーはないから潮流が逆の時は六時間以上かかるらしく潮流に合わせた運航が必要になる。


今は四時間かけて集積地まで行って、二時間で積荷の積み下ろしや燃料補給をして出港可能な状態にする訓練を繰り返している。

これは春風が生鮮品を積んで集積地に行って黒潮や集積場をサポートする練習も兼ねている。

黒潮が漁場と集積地を往復し、春風が集積地と美浦を往復する体制を確保しようという事。


鰹チャレンジは半月程度を予定しているが、半月前に獲れた魚なんて腐ってしまう。

獲れた鰹の保冷のために虎の子のポータブル冷凍庫を黒潮に搭載するが、容量は小さいし電力には限りはあるので過度な期待は禁物。

クーラーボックスも用意しているが、バラスト的な部分を使った魚倉に納めることもあると思う……できれば魚倉を使うぐらい獲れて欲しいものだ。


黒潮が漁場から真っ直ぐ美浦に帰ってきたとしても獲れたその日の内に帰ってくるのは無理だろうから、冷凍庫に入る分はともかくクーラーボックスや魚倉だと美浦に着くころには痛んでしまっている可能性もある。


黒潮に十全な冷凍装備があれば大丈夫なのだが、そうもいかないので鰹は集積地に水揚げして集積地で鰹節などの日持ちする物に加工する必要がある。

鰹節を完成品にするには時間が掛かるから完成品でなくてもいいが、少なくとも煮熟してある程度まで焙乾して保存性を高めてからでないと美浦に移送するのは厳しいと思う。

つまりは、鰹チャレンジの期間は何人かが集積地に常駐する必要がある。


この常駐者だが、希望者が殺到した。

希望者の顔には“鰹の刺身”とか“鰹のタタキ”などと書かれている。

気持ちは分かる。分かるけど鰹節優先は忘れないで欲しい。


大雑把な計算だが、現代日本の鰹節消費量は一人あたりの年間二本ぐらい。

これには花かつおなど鰹節としての姿がばっちり残っているものだけじゃなく、出汁や調味料などに加工されたものや外食などでの消費を含めての数字。

だから可能であれば鰹節は一六〇から二〇〇本ぐらい欲しい。

鰹節は鰹一尾から四本(背節と腹節が二本ずつ)取れるから、四〇から五〇尾ぐらいは鰹節にして欲しい。


そうそう、希望者の中には顔に“酒盗”とか“心臓(へそ)”と書かれていた者もいたが、鰹のへそや内臓は鰹節製作時の廃棄部分(副産物)だから心行くまで堪能したまえ。

堪能できるだけの量が獲れるかは神のみぞ知るだけど。

というかそもそも獲れるのかも神のみぞ知る。


ちなみに俺は辞退している。辞退というか拒否の方が近いかな?

鰹チャレンジの時季は滝野交換市の再開と重なるので無理。

先住者フロントとしては、川合の世話や滝野交換市の準備の方が大事。


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[一言] 遂にカツオかぁ
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