第1話 食わねば生きれぬ
美浦の冬の風物詩の一つに酒造がある。
米も少なくて少量しか造れなかった初年度は奈緒美と文昭の二人がメインで、後は雪月花や俺が偶に手伝う程度で何とかなったのだが、去年からは大幅に人員を増やして十人体制にしている。
それだけ皆が酒好きという訳ではなく、農閑期で特段やることがない者が多いという事。
繊維関連工房も労働集約型だった糸紡ぎはキャンプ場からの輸入や紡績機に置き換わり、機織も単純な無地の平織から糸を染めて模様付きで織るとか綾織(斜文織)や繻子織(サテン)など専門性が高くなってきたから、素人が“ちょっと時間あるし手伝いでもしようか”が難しくなってきていることも農閑期の農業従事者が酒造に入る要因の一つになっている。
歴史的にみても杜氏に率いられた蔵人は晩秋から早春にかけての農閑期に全国各地から灘や伏見を筆頭とした酒蔵に出稼ぎにきて酒造していたので、農家と酒造職人の兼業というのは江戸の昔からあった伝統的な様式とも言える。
美浦の清酒の酒造は生酛造りなので酒母ができるまでに一箇月ぐらいかかるし、酒になるまでは更に一箇月かかるので酒造が終了するのは二月末から三月頭になる。
結構な長丁場にはなるが、全工程において全員が付きっ切りというわけではなく、何人かの当番が点検していれば十分という期間もそれなりにある。
そんな奈緒美の手透き時間を見計らって、八頭馴致した牛の飼料問題について相談したいと美野里が奈緒美と俺を呼び出した。
飼料問題というからには飼料作物の栽培計画についてだと思ったのだが、放牧地の確保などもあるから都市計画担当も聞いておいて欲しいとの事なので俺も参加する事になった。
美浦にはヤギと鶏がいるが、これまでは飼料が余るぐらいだった。
飼料用の作物はある意味では片手間でなんとかなっていたから、卵用鶏のための牡蠣殻粉を除けば飼料には困っていなかったのだが、牛は鶏やヤギと違ってかなり食うから飼料の余裕が無くなったどころか足りなくなる公算が高くなった。
牛八頭を馴致というのは上出来ではあるが拙速だったかもしれない。
春になれば永原に放牧する手があるので今冬を乗り切れば一息はつける。
だから、これまでの貯蓄を大放出したり、鶏の飼料から牛に転用できるものは転用し、鶏には魚粉などの動物性飼料を増量するなどの手を打って一応は今冬は乗り切れる見込み。
しかし、今冬は何とか耐えられるとしても、このままだと来冬は耐えられず、最悪だと来秋に何頭かを潰すという事になりかねない。
飼料が足りないなら飼料作物の栽培面積を増やすのが手ではあるが、既存の畑の中で人間用の作物の栽培面積を必要最小限まで減らして飼料作物を増産したとしても足りない。
元々人間用も余裕があるわけではなく、大豆や綿花など外せない作物が幾らでもあるから飼料用に転換できる面積がそもそも小さいから焼け石に水という感じで、新たに飼料用の圃場開拓が必要という事。
「ミノっちの試算だとどれぐらい必要になる?」
「五ヘクタールぐらい」
「そんなに増やしたら今の倍まではいかなくても一.五倍以上になるじゃん」
初年度に整備した畑は四ヘクタールで、その後増やしていって今はだいたい七~八ヘクタールぐらいだから一.六から一.七倍になる。
「それ以外にも放牧地が四〇ヘクタールは欲しい。理想を言えば倍の八〇ヘクタールぐらい」
「美野里、一頭あたりの放牧地は五ヘクタールが最低限で、理想は一〇ヘクタールという事?」
「最低限はちょっと違う。最低限だと一頭あたり一ヘクタールぐらい」
「ミノっち、ちょっと待って。私の知る限りだけど、一町歩で牛二頭飼育できた筈だけど」
「それはチモシー、オーチャードグラス、アルファルファ、クローバーといった牧草があればの話。ナオは持ってる?」
「さすがに持ってない。鴨茅と白詰草はキャンプ場に生えてるかもしれないけど」
オーチャードグラスやクローバーは牧草として移入されたが現代では散逸していたる所に生えている帰化植物なのでキャンプ場に生えていても不思議はない。
「耕作放棄地に牛を放牧する例があるんだけど、全体で見れば一ヘクタールに二頭ぐらいいけそうなんだけど、中には一箇月ぐらいで食べつくしてしまう例も結構あって、そういう場合は三から五箇所ぐらいを順繰りに回すこともある」
「なるほど。一頭あたり最低一ヘクタールで、保険で五倍までは分からなくもない。でもその倍の八〇ヘクタールはやりすぎじゃない?」
「後から放牧地を増やすの面倒じゃん。それに基本多年草の牧草と違って一年草は食い尽くされてしまって再生に時間が掛かる可能性もある」
「……とりあえずだ、一キロ四方を放牧地にする予定地として設定しておいて、その中を適当に区切って当面の放牧地にするって感じでいいか?」
「当面の放牧地も幾つかの区画に仕切りたいけど」
「なんで?」
「牛は新芽とか穂先が好きだから順々に回して常に新芽を食べさせてあげたいのと、全体に散った牛を牛舎に戻すのは大変ってのと、状況によっては群れを割ってやらないと食べられない個体がでる可能性があるから」
「納得のな。区画の素案をくれたら柵がどれだけいるか検討しておく」
「よろしく」
「放牧地はそれで良いとして、飼料作物の栽培が別途五ヘクタール必要と?」
「必要! になると思う……」
「………………」
「いやいや、要るって」
奈緒美と俺がそろってジト目になる。
「飼料作物と放牧地を合わせて五ヘクタールが死守ラインだったんじゃ?」
「ミノっち、目が泳いでる」
「えっと……」
「稲藁は幾らでも確保できるから粗飼料は問題ないから濃厚飼料用の穀物類や冬用のサイレージの草用だよね? 本当に五町歩も要るの?」
「稲藁は他の用途でも使うからあんまり当てにできない。それと仮に全部粗飼料に使ったとしてもたぶん足りない。だから粗飼料用の牧草地は必要になる」
「それは放牧地と兼用できるでしょ?」
「飼料用も新規開拓だと生産性が悪いから」
「それは……分からなくもないけど、さすがに人手が足りな過ぎる」
まあ、只単に畑を造るだけなら造れるが、種撒いて放っておけばそれでお仕舞いというわけにはいかない。
水田は今冬から冬期湛水を試みるぐらい元々人手が足りていないのだから追加の圃場といわれても“吾に余剰戦力なし”としか返せない。
「……ノリさん何かアイディアない?」
「畑は諦めて留山や恵森の藪を掻き集める」
「牛が食べられる植物だけ集めてもらわないといけないから厳しいし、その人手があるなら栽培した方が良くない?」
「そうだよね。有毒植物も結構あるし、人間は大丈夫でも牛には毒ってのも。堆肥とは違うから無差別とはいかない」
「そしたら放牧とかどうすんの? 事前に牛にとっての毒草を根絶してるの?」
「ノリさん、牛だって食べられる植物を選んで食べるよ? それしかなくなったら食べちゃうこともあるけど」
「少量でも危ないシキミとかトリカブトの類は永原では見かけてないから永原に放牧するのは問題ないと思う」
「……永原にはってことは恵森や留山にはトリカブトあったりすんの?」
「当然」
「分かった。どっかから人手を捻出しないといけないって事だな……そうだ! キャンプ場やオリノコから人を出してもらうってのは?」
「キャンプ場はちょっと……余計な波風は立てない方がいいと思う。それよか川合は?」
「できたてホヤホヤだから分散させるのは忍びないのと、中核の人員を外すとグダグダになる」
「そういやそうだ」
「ミノっち、オリノコは何れ牛の飼育をしてもらう候補として実習名目で準成年の子らに来てもらう。その線でどう?」
「ノリさんの教育計画に支障がないならいいんじゃない?」
「あったら言ってない」
「そうなの?」
そうなのだ。
川合や滝野に絡んで、先住者向けの学校というか教育については抜本的に転換する事にした。
これまでは先住者の中で希望する者には国語・数学・算数・自然科学を義務教育レベルまでという感じで考えていたのだが、これはあくまでオリノコのみを対象に考えていたからに過ぎない。
しかしオリノコ以外にも対象が広がる見込みとなった。
川合はまあ分かるが、他の集落にも広がる可能性がでてきた。
他の集落も滝野で美浦やオリノコの者が文字を使っているのを見て気になっていたのだそうだ。
そうなると当初想定していた読み書き算盤と自然科学を義務教育レベルまでという目標の実現はかなり厳しい情勢になるので、目標水準を読み書きは原則として片仮名と平仮名(場合によっては片仮名のみ)、算数は足し算と引き算、それと可能なら掛け算までとした。
そして自然科学は割愛する。
“必要だと思っているし惜しいとも思っているけどやむを得ず諦めて省く”という意味そのままの割愛。
自然科学教の信徒からすると断腸の思いだが、身近で見聞きしないものを理解するのは難しい。理解してもらうのも。
平仮名・片仮名・加減算までといった簡素化というか手解きレベルまで下げないと俺の身体が持たない。俺の身体が幾らでもあるのなら対応できるかもしれないが、残念ながら(?)俺は分身の術を使えない。
手解きレベルなら習う方も教える方も何とかなるし期間も短くてすむし、それならオリノコはクリアしているといってもいい。
それと美浦では最低でも高等学校卒業レベルまでというのは堅持しているから、それ以上を学びたい者がいるなら美浦に留学してもらうとう手段もある。
それに学問だけでなく、職業訓練あるいは技能実習的な感じで色々な技術や実践方法を学んでもらうのも有りだと思っている。
だから技能実習で美浦に来てくれるならそれはそれであり。
「それで何とかなりそうか? なるなら黒岩さんと村長に問い合わせてみるけど」
「たぶん、二、三年もしたら牛糞肥料と畜力での耕耘で生産性も上がるだろうから繁殖させていって大丈夫だと思う。カウボーイになってもらって何頭かオリノコに預託するって手もあるし、畜力使って田畑の耕耘や牛車輸送とか夢が広がりんぐ」
「血統とか大丈夫か? 近親交配の嵐になりそうだけど」
「そうそう問題にはならないと思う。黒毛和種はほぼ全部が田尻号の子孫だし」
田尻号というのは但馬牛の、というか黒毛和種(黒毛和牛)の確立に重要な役割を果たした種牛のことで、日本全国の黒毛和種の九九.九パーセント以上が何らかの形で田尻号の血をひいているとも。
そうは言っても二十一世紀に生きている人間の全員がミトコンドリア・イブとY染色体アダムの末裔と言えるので近親交配が問題にならない論拠にするには弱すぎる気がする。
まあ、この牛の群れが最後の一群であるとも限らないし、繁殖してくれないと牛乳も採れないから納得した振りをしておこう。
……もし牛の数が増えたら必要となる飼料も増えるからこの魔のサイクルから抜け出せないんじゃ?
よし。気付かなかった事にしよう。
「それじゃあ、俺が気になっている点について。永原を牧場にすると水源としては永水(永原にある自噴井)が最有力候補になると思う。上が牧場になっても深井戸の自噴井だから地下水汚染の心配はないと思うけど、家畜への給水で手一杯になるんじゃないか?」
「そうなったら醸造用の水は留山の横井戸に全面シフトする。あっちも難透水層をぶち抜いた深井戸だし」
「醸造所の建て直しか……今ある建物は牛舎に改造ってなりそうだけど」
「床や天井はできるだけ使い回してして欲しい」
醸造所には醸造に使われた酵母が生き延びて建物や床土などに付着している事が多く、これを俗に『蔵付き酵母』とか『家付き酵母』という。
奈緒美が言うにはこれが結構馬鹿にならず、移築したり建材を再利用した蔵と新品の蔵では安定して醸造ができるようになるまでの期間や品質が目に見えて異なるらしい。
琺瑯を使っていて衛生的な工場と思えるような醸造所でとてもじゃないが蔵付き酵母なんて関係ないと思えるようなところでも違いはあると言い張っている。
戸板一枚だけでも有ると無いとでは異なるといわれると迷信や信仰の部類に思えるのだが、大した手間ではないし建材の節約にもなるんだからそうすべきだと思う。
「まだまだ楽できそうにないな」
「ノリさん、楽隠居なんて百年早い」
「百年って……逆にあと百年生きてる方が吃驚だわ」