表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
文明の濫觴  作者: 烏木
第8章 幕間
165/293

幕間 第18話 燃料屋さん

秋川春馬は化学屋である。

家が家なので農作業はできるけど、双子の妹の美結と違って僕は化学が好きで小中高と化学部だったし高校も工業化学科だった。


しかし美浦で化学屋というと佐智恵姉さんになる。

それはよく分かる。

普通科よりは実践的とはいえ高校までの授業とそれプラス趣味のレベルとは比べることが間違いで、現状では世界で一番化学に詳しい人だと思う。


それでも、アセチルセルロース製作などをはじめ、実務面では僕が担うことも多くあり、第一人者ではないけれど化学屋の一人だと自負している。

そう自負してはいるが、周りの僕を見る目は「油屋」や「燃料屋」だったりする。


理由は結構な時間を油脂作成、特に燃料油作成に費やしているから。

油脂作成では揮発したり発火したり毒性があったりと取り扱い注意な事も多いし、脱ガム、脱遊離脂肪酸、脱蝋などの化学的な精製工程を必要とする事もあり、劇薬を使う事も多いので誰がやってもいいとはいかない。


だから極々簡単な物――ほぼ融かすだけの獣脂とか、ほとんど精製する必要がない胡麻油など――を除いて油脂作成には化学の素養がある人物が携わらないと危険なのだけど、佐智恵姉さんは手一杯だから自分が油脂作成を担うことが多くなり、結果として油屋・燃料屋として認識されてしまったようだ。


「春ちゃん、どんな塩梅?」


棉の種を擂り潰して蒸したものを玉締め圧搾していると、蒸気船の燃料油の具合を確かめに安藤くんがやってきた。


「一平ちゃんか。そこの鉄製燃料油容器(ジェリ缶)五つは上がってるけど……ヤベー問題がある」

「えっ!? 何? 何?」

「ジェリ缶の在庫が尽きる」

「そっそうなの?」

「樽に移してジェリ缶は返す約束だったよな。返って来ないから在庫がない」

「…………」

「よもやジェリ缶で備蓄してないよな? ……いい、顔に書いてある」


鰹チャレンジのために淡路島の集積地に燃料油を備蓄する必要があるので集積地に油樽を設置している。

美浦で作った燃料油をジェリ缶で輸送して、向こうで油樽に移したら空のジェリ缶を戻して次の輸送に使う。

つまりジェリ缶は輸送用容器なんだけど、そのジェリ缶が返ってこない。


油樽から蒸気船に直接給油はできないから集積地で給油するには一度油樽からジェリ缶に移して、ジェリ缶から蒸気船に給油するという二度手間な方法を採らざるを得ない。

だから一つ二つなら集積地に留め置かれるのは織り込み済みだけどジェリ缶で備蓄されるとさすがに足りなくなる。

佐智恵姉さんと匠兄さんがそれなりの数を作ってくれたといえども物には限度がある。


「直ちにジェリ缶を返すか、樽渡しにするか、製造休止にするかの三択だ。好きなのを選べ。お勧めは製造休止だな」

「早急にジェリ缶を返却いたしまする」

「そうしてくれ」

「すまんかった。何かドロドロで樽に移したら固まりそうな気がしてさぁ」

「綿実油は半乾性油だから多少粘度は上がるが固まらないから」

「それに赤黒いのが沈殿しそうでさあ」

「沈殿してくれるなら苦労しない」


綿実油は絞ったままで未精製の物は赤黒くて昔は『赤油』や『黒油』と呼ばれていた。

江戸時代初期の元和年間に大坂の油屋が赤油に石灰を混ぜると脱色して火付きも良くなる事に気付いてこの脱色した綿実油を『白油』と称して売り出したという記録があるそうだ。


二十一世紀でも植物油の精製にはアルカリを使って遊離脂肪酸などの脂溶性の不純物を除去しているから石灰を混ぜて精製するというのは正しい方法でもある。

化学処理もなしに静置していたら分離してくれるぐらい精製が楽なら苦労しない。


ちゃんと精製すれば綿実油も透明になるし、食用にもできて綿実油を『サラダ油の王様』という人もいるそうなのだが、美浦では精製してまで食用油にはせず、未精製の『赤油』のまま燃料油にしているのは精製する手間と資源がもったいないから。


油とアルカリを反応させるという事は要は石鹸を作るのと変わらないから歩留まりが悪いし、食用油はそんなに大量には要らないし、和紙で濾過する簡単な精製で実用範囲に持っていける胡麻油があるから色々な用途で引っ張り蛸の石灰を使ってまで食用にするのは……ね?


「あの赤い色素……ゴシポールっていうんだけど、あれ毒だからな。大量に摂取すると低カリウム血症になって最悪死ぬし、少量でも下手すると種無しになるぞ」

「種無しって……」

「百年ぐらい前に中国で出生率が異様に落ちた村があって、調査したらゴシポールが男性不妊を引き起こしていたことが分かった。その村では油代を節約するため綿実油を自作して未精製のまま使っていたらしく、男の九割以上が種無しになっていたとかなんとか」

「九割以上って……」

「子ども世代が通常の十分の一って廃村レベルだよな」


ゴシポールは棉が虫の食害から身を護るために作り出している防衛物質で、殺虫剤にできるぐらいの殺虫作用があって棉の植物体全体に遍在しているが特に種の含有率が高い。


ゴシポールがなければ綿実はかなり栄養があるので偶々発見されたゴシポールを生成しない棉を栽培したところ虫害が凄まじくて、とてもじゃないが商業的な栽培ができる代物ではなかったらしい。


「油代をけちって廃村……油ってそんなに高かったの?」

「俺も先生から聞いただけだけど、当時は油一斗と米一俵が同じぐらいの値段だったそうで、その比較だと平成の世の十倍ぐらいしたらしい」

「十倍!? 十倍だったら結構な節約になる……のか?」

「まあ安物買いの銭失いではないけど、代償が村の壊滅だから笑えん」

「だよなぁ」

「更に昔の江戸時代だと油一斗が米二俵だから平成の世の二十倍とか。だからジェリ缶五つは米十俵な。心して持ってけ。それとジェリ缶の返却忘れるなよ」

「へいへい」

「それと天候にもよるけどたぶん五日後には搾り滓も引き渡せると思うから」

「了解しました!」


綿実油の搾り滓にも搾り切れなかった油はもちろん、ゴシポールも残留しているので固形燃料に混ぜて燃料にする。

燃料油(液体燃料)だけで蒸気船を動かされると生産が追いつかないから固形燃料と併用してもらっている。というか固形燃料が主で液体燃料が従なんだけどね。


綿実油を燃料油にしているのは美浦では綿実がそれなりに採れるから。

繊維需要を満たすため、大量の和綿を植えているから種子だけで一トンを軽く超えるので綿実油は一年にだいたいジェリ缶十五本分ぐらい採れる。

さっき渡した五本というのは年間生産量の三分の一だから四箇月分になる。


これまでは一箇月にジェリ缶一本ぐらいのペースで作っていたけど今年は鰹チャレンジがあるから全部油にするよう言われている。

実は今絞っているのが来秋までに油にしていい綿実の最後の分。

これが終わったら木酢液から酢酸カルシウムと低質揮発油の確保とメタノールと油脂でバイオディーゼル(FAME)の合成……うん。燃料屋だな。


■■■


植物の種子は葉をつけて光合成ができるまでの栄養を全て備えていないといけないので、植物の種子には結構な割合で脂肪が含まれている。


胡麻なんか半分ぐらいが油分で、健康相談だかのコーナーで“健康の為に毎日胡麻を一袋食べてます”という投稿に対して“胡麻は油です。取り過ぎに注意してください”と栄養士さんが返していたのには笑ってしまったことがある。


まあ、種子には油が含まれているから採れる油の質や量、種子の集め易さなどを考えなければ、ほとんどの種子は擂り潰して熱を加えて絞れば油は採れる。


そうはいっても油分の含有率が高く種を集め易いものから油を採るのは当然で、美浦では和綿以外にも胡麻、菜種、荏胡麻(エゴマ)、麻、椿、油桐(アブラギリ)などの種から油を採っている。


大豆油は日本では一番安価な油として主に業務用に使われている。

安価なのは油を採ったあとの残滓である脱脂加工大豆が醤油の原料として使われるので、というか丸大豆よりも脱脂加工大豆の方が醤油を造り易いから大豆油は醤油醸造の前処理の副産物ともいえる。

だから行きがけの駄賃ではないがお金になれば十分という事情もあるから安価という説もある。


美浦では大豆からは油は採っていない。

大豆は他の搾油種子に比べて脂肪分が少なくて圧搾では油が採れないというのが最大の理由ではあるが、大豆は食料品の箱であって搾油種子の箱には入っていないというのもある。似たような理由でトウモロコシ(コーン)からも搾油していない。


そうはいってもこの時季に搾油できるものは粗方搾油したから、次に搾油するのは菜種油だな。もっとも菜種の収穫時季は梅雨前だから暫らく搾油はお役御免ってところか。


菜種油は日本を含む東アジアでは大昔から食用油として使われてきたけど、実は菜種にはエルカ酸という毒性のある脂肪酸が含まれていて、摂取し続けていると心臓疾患などを引き起こすこともある。

他にも水溶性だから菜種油には含まれないし除去も簡単だけどグルコシノレートという種類の毒性のある物質も含まれている。

まあグルコシノレートは辛子やワサビに含まれる辛味成分だし常識的な量ならほとんど問題ないけど。


食用にされている菜種油はエルカ酸を生成しないよう品種改良された油菜(代表例はキャノーラ種)を原料にしているから大丈夫だけど、そうでない品種から油を採るとその菜種油の四割ぐらいをエルカ酸が占めている事もあって過剰摂取の原因になりうる。

菜種油は食用油だから大丈夫だと思ってそこらの菜の花の種から菜種油を採って食用にすると危険だったりする。


実は小学生の頃に家の休耕田で菜種を栽培ししていたんだけど、食用油の搾油用の品種じゃなかったから親父が搾油して食用にしようとしたのを全力で止めた事がある。

なんで小学生がそんな事を知っていたかというと、高校生ぐらいのお姉さんが教えてくれたから。

休耕田の菜の花を見ているときに話しかけられて「種ができたら油採るんだ」って言ったら「毒があるかもしれないから」と教えてくれた。


最終的には何故か農林高校の先生まででてきて親父に説明してくれて、搾油した菜種油は食用にはせずランプオイルとして使われた。

あの時のお姉さんはある意味では秋川家の命の恩人かもしれない。


エルカ酸もグルコシノレートもアブラナ科の植物にはたいてい含まれているので、実はキャベツや白菜や大根などにも含まれてはいるが、濃度は低いので毎日数キログラム食べ続けるならともかく常識的な量を食べるぐらいなら問題はない。

しかし、油や油粕のように濃縮すると大丈夫とは言い辛くなってくる。

カラシ油(マスタード・オイル)の過剰摂取はお控えください。適量が大事です。用法用量を守って正しくお使いください。


美浦で採油している油菜は品種改良された油菜ではなく永原に元々生えていた野生の油菜なのでエルカ酸を豊富に含んでいると考えた方が良い。

だから採油した菜種油は食用にはせず、燃料や灯火用の油として使っている。

そうそう、菜種油の絞り粕にはグルコシノレートが含まれるので綿実油の絞り粕と同じく固形燃料の材料にする。


以前奈緒美姉さんに搾油用の油菜があるのか聞いたら“持っているには持っているけど、交雑が怖いから休眠させている”と言っていた。


アブラナ科、特にアブラナ科アブラナ属の植物は自分の花粉では受粉しない自家不和合性で更に虫媒花なので交雑が激しくて変種が生まれやすい。

アブラナ属の栽培作物には油菜をはじめ芥子菜、キャベツ、ブロッコリー、小松菜、青梗菜(チンゲンサイ)、水菜、蕪、白菜、野沢菜などがあるが、これらは他の野菜と交雑する可能性が少なからずある。


種苗会社などで採種するときは、周囲数キロメートルの範囲に他のアブラナ科の植物がない状態で栽培するか、ハウスなどで隔離した上でこれまでアブラナ属の受粉をさせていない蜂で受粉させるなどの交雑防止策を立てた上で行っている。


周囲数キロメートルの範囲に他のアブラナ科の植物がない状態ってあるのかって?

あるよ、見渡す限りすべてその品種の畑とか。

日本では滅多に無いかもしれないけど海外なら普通にあるから。


そういった交雑防止策なしで自家採種するとキャベツのつもりで蒔いたのに小松菜っぽい物が育ったなんて事が起きる。

美浦では自家採種しているけど交雑防止策も薹立ちさせる時期をずらすぐらいしかないから偶に変なのが生える事がある。


そのあたりの変種は見た目で分かるからいいんだけど、油菜だとエルカ酸を生成しない食用の搾油用の油菜とエルカ酸を生成する野生の油菜が交雑すると見た目で判断できないので危険という事で封印したんだって。

義教兄さんが蜜源植物として養蜂場(ブンブン)の近辺に野生の油菜を大量に蒔いてしまったものだから美浦で食用油用の油菜を育てるのが不可能になったとかなんとか。


菜種油は油鞣しにも使うので消費量が多い油の一つだけど、原料である油菜の種はブンブン近辺で大量に採ってこれるから需要は賄えているから良いんじゃないかと思う。

だって義教兄さんが蒔いた種があるってことは近辺に野生の油菜があるってことだから義教兄さんが蒔こうが蒔くまいと近辺に交雑しかねない油菜が存在しているってことだもの。


どうしても食用の菜種油が欲しいならハウス栽培して蜂の代わりに人間が受粉させるという方法がなくもないがそこまでして食用の菜種油が欲しいという人はいない。

言い出しっぺの法則で蜂代わりに受粉させられるって大変だもの。誰もいわない。


でも種子更新が要るからいつかはハウスで育てるんじゃないかな?

アセチルセルロースはその布石だと思っている。


■■■


「春っち、春っち」

「何すか? 奈緒美姉さん」

「綿実油作りは一段落ついた?」

「ええ」

「そんじゃあ、燃料用アルコール蒸留して欲しいんだけど」

「燃料用ですね」

「うん。三番蔵まで()アル取りに来てもらえる?」


粗アルというのは粗製アルコールの事で、美浦では酒類(蒸留酒の原料含む)以外の低濃度のエタノールを含む液体を粗アルと呼んでいる。

酒粕の再発酵とかドングリのデンプンとか麺類の茹で汁などの食用にしない糖質の発酵などで造られるそれらを十把一絡げで粗アルと呼んでいる。

その粗アルを蒸留してエタノール濃度を上げるのだが、どこまで濃縮するかや不純物除去をどれだけやるのかで、燃料用、消毒用、薬品用、アルコール添加(アル添)用とランク分けしている。


燃料用は何回も蒸留してできる限り濃縮して作る。

目標としては九〇から九五度だけど実質的に可能なのは八五度を超えるあたり。

ちなみにエタノールと水は共沸するので通常の蒸留で得られるのは九六度ぐらいが限度で、それ以上の濃度にするには高濃度のエタノールを分子(ふるい)(一定以上の分子量の分子が透過できないフィルターみたいなものなど)を用いて水を除去するとか濃硫酸とか生石灰などの脱水作用のある物で処理した上で改めて蒸留するなどの処置が必要。


消毒用は七五度から八〇度ぐらいまで濃縮する。あまり濃すぎると殺菌力が落ちるとかなんとか。

もっとも粗アルの状態によっては燃料用ぐらいまで蒸留したエタノールに加水して、蒸留しなおすことで不純物の除去をする事もある。


蒸留しては加水してを繰り返して不純物の除去を徹底した上で限界まで濃縮したのが薬品用となる。この薬品用の薬というのは試薬の薬。


最後のアル添用は奈緒美姉さんが手づから蒸留するので自分は蒸留した事はない。


「分かりました。どれぐらいですか?」

「五〇リッターぐらい。(燃料用アルコールは)一リッターぐらいいける?」

「少し切るかもしれませんがそんな感じですかね」


五〇リットルから一リットルと原液の二パーセントぐらいしか採れないがこれでも上出来の部類。

気化したまま逃げていったり残滓に残ったりするので蒸留で全部のエタノールが回収できるわけではないし、粗アルの度数は五度前後だから三回から五回は蒸留しないと必要な濃度になんないから歩留まりが悪いのは已むを得ない。

連続式蒸留器があれば歩留まりも多少は違うだろうけど無い物強請りをしても仕方がないし、連続式蒸留器を使うほどの量にはなんない。


そういや燃料用アルコールは固形燃料にするからそのまま固形燃料を作ればいいのかな?


念のために確認したら農薬の原料にするから液体エタノールで欲しいとの事。


確認してよかった。

燃料用とは言いつつも固形燃料以外の用途も偶にあるんだよね。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ