幕間 第17話 うっしっし
遥々来たぜハクバル。
寒風吹きすさぶ中、滝野から川沿いを三十キロメートル近く辿ってたどり着いた。
昨晩はちょっと離れた場所で野営して朝一にハクバルを訪れる。
わざわざ出張ってきた目的はハクバルで目撃情報があった原牛と思われる生物の調査とあわよくば捕獲と馴致。
今はノリさんが手土産の毛皮や薪などを渡しながら今回のミッションの目的を説明して許可をえようとしている。
きっかけは川合に篠竹の刈り方を教えに行った秋川さんからハクバルに牛がいるようだという報告がなされた事。
言葉が通じないときの万能言語は絵という事で川合では色んな動物や植物の絵を見せてコミュニケーションを取っていたんだけど、ハクバル出身の二人が牛相撲(日本の闘牛で雄同士が頭をぶつけ合って押し合うやつ)の絵に反応したんだって。
この牛相撲は群れの中の雄牛の順位付けの行動を抽出したもので、家畜化前のオーロックスもそうやって群れのボスを決めていたのではないかとも言われている。
他の動物でもこういうボス争奪戦はあって、ボス争奪戦に敗退した個体は群れから放逐されるという例も多い。
日本の各地に幾つか残っている牛相撲だが、牛相撲に負けた雄牛はボスに挑戦して失敗したわけで、群れから放逐された扱いなのか即時引退というところもある。
某所の闘牛(牛相撲)の横綱はいつでも全戦全勝なのはそういう訳。横綱に限らず全部の牛が無敗(全戦全勝か初登場)なんだけどね。
牛相撲に反応したという事なので、追加情報を得るべくウシ属とバイソン属の絵を見せる事にした。
その絵の見本については、本来の所有者はノリさんだけど現在の実質的な所有者は由希さんのブックリーダーの中から牛やオーロックスやバイソンの画像をセレクトした。
さすが何でも屋のノリさんのコレクションだけあって、ラスコー洞窟の壁画とかオーロックス復元を試みた個体の写真とかなんで入ってんだろって物まで入ってた。
史朗くんが描いた特徴を捉えたデッサンを二人に見せたところ、例の生き物は牛に近い外見をしているのも分かったし、ハクバルではその推定オーロックスを獲物にはしていないという情報も得た。
なぜ彼らが狩らないのか分からないけど、そういう事ならうちらで捕まえて滝野か美浦に連れてきて馴致して牛にするしかないじゃない。
人類は牛脂を口にすると幸福を感じるようにできてるんだから群れごとご案内して増やせばみんな幸せになれる。
そう力説して総勢五名のオーロックス調査団が結成された。
調査団長は不詳私江戸川美野里、副団長はノリさん。
おお、交渉は纏まったようだ。
んじゃ生息しているという場所に向けて出発進行!
「美野里、まだ駄目。儀式がある」
「儀式?」
「そ、大雑把に言えば俺らを名誉市民にする儀式。市民なんだから縄張り内をうろついても問題ないって事」
「なる。で、何すればいいの?」
「そこにいて、やってきた子供達をハグして」
珍しいのか代わる代わるやってくるので結構疲れた。
気の済むまでやらせてたので、八周ぐらいやったと思う。
◇
山あり谷ありの山ん中を二時間弱歩いて彼らが『ウェス』と呼ぶ例の生き物が目撃される場所に到着した。ここらに生息しているのではなく、ここから見下ろす盆地に偶にいるのだそうだ。
ここに二時間ほどでこれたのはハクバルが派遣してくれたガイドさんのお陰。ありがとう。
ノリさんは調査・捕獲の許可の他にガイドまで手配してくれていた。
この周到っぷりをタッちゃんも見習って欲しい気もするけど、それをやったらタッちゃんじゃないからそのままでいいや。
そしてここにきてみて彼らが獲物にしなかったというのがだいたい分かった。
朝一にハクバルを出発してここに着き、ここから斜面を降って狩ったとしよう。
狩った獲物はそのまま持てないと思うので橇に載せるか現場で解体して手分けして持つかして運ぶ事になる。
そうすると、ここまで持ってきた頃には日が暮れている可能性が高く、ここから更に山あり谷ありの山中を荷物を持って進むって自殺行為じゃん。
これは縄張りからは見えるけど、事実上獲るのが不可能だから手を出さなかったが正解かな?
もしそうだとしたら、このハクバルとの微妙な位置に生息していたのが生き延びてこられた理由なのかもしれない。
「△※◇○!」
言葉は聞き取れないけどあそこに居るという意味なのは理解できる。
ほほう……黒毛でちょっと小振りだけどちゃんと角があるし、見かけはかなり牛。
しかし、思ったより小さいから子供かな? でもこの季節に子牛?
それに冬の入り口にも関わらず結構痩せている……あれで冬を越せるのだろうか。
「ノリさん、もしあっこから最短で加古川水系に出ようとするとどういうルートになる?」
「ここまで戻ってきてハクバル方向に帰る。右手奥に加古川水系に合流する流出河川があるとは思うけど、新ルートの開拓はやめた方がいい」
「…………」
「途中に滝があったら詰む。道を造った今なら二時間かからん岩崎越えを藪漕ぎしながら手探りで越えたときは半日以上掛かっただろ? たぶんその比じゃないから丸一日描けても位置が分かる加古川水系に辿り着かんに一票」
「……ノリさんはここから帰れるよね?」
「そりゃもちろん」
「うん。じゃあ今日一杯はここから生態観察して、それから捕獲作戦を詰める」
「ガイドはどうする?」
「戻ってもらって構わない」
「じゃあ、そこら聞いてみるわ」
ガイドさんは日帰り想定だったようで、ノリさんが近場で掘った二本の立派な自然薯を手にニッコニコでハクバルに帰っていった。
◇
「作戦は明日払暁から開始する。私が一人で向こうに行くからみんなはここで待機。ボスを見つけて連行できるようなら連行してくる。無理だったら尻尾を巻いて逃げてくる。どちらにしたかは無線で報せる。もし危険な状態だとノリさんが判断したら威嚇射撃して」
「一人で大丈夫か?」
「一人の方がいい。複数だと不測の事態が起きかねないからね。ノリさんは牛追い祭やりたい?」
「ヤダ」
「……牛追い祭って闘牛場に牛を追い込むお祭でしたっけ?」
「起源でいえばそうなんだけどちょい違う。闘牛場に向かう牛の前をどれだけ牛に近い位置で走ったかっていう度胸試しみたいなものなので、人間が牛に追われる絵面になる」
「……牛に追われるって事は」
「もしね、縄張り荒らしとか捕食者といった感じで敵認定されたなら、群れごと突進してくるとかありえないわけじゃないから。で、そっから逃げるってさながら牛追い祭」
「気をつけてください」
あのさぁ“無茶しやがって”のAAを髣髴とさせるなんちゃって敬礼はフラグ臭いんでやめてくんないかなぁ秋川春馬っち。
「とりあえず、作戦は分かったから飯食って寝るぞ。炊飯とテント張りのどっちするか申告して」
「はーい。俺、テント」
◇
家畜家禽は色々あるけど元はと言えば全て野生動物。
その中で牛は大型の部類。
豚の野生種である猪でも危険なんだから牛の野生種であるオーロックスが安全な訳がない。
家畜化が無理なほど気性が荒いわけではないけど、オーロックスは家畜化できた動物の中では気性が荒い方とも言われている。
それと、馬は例外で大型化したけど、基本的には家畜化すると小型化するのでオーロックスは牛より大型であった。
ギネスに載っている世界最大の牛の体高は約一九〇センチメートル(ホルスタインの平均は一四〇センチメートルぐらい)だから肩の高さは人間より高い。
カエサルはオーロックスを“象よりは幾分小さく、姿形や色は牛によく似ている”と評したとかなんとか。
それではどうやってこの気性の荒い大きな動物を飼い馴らしたのか。
ウシ系の動物って、基本的には臆病だから大きな音を出したり急接近するといった突発的な変化があると逃げたり攻撃したりするし、死角からの接近や茂みなどに隠れながら近付いてくるもの(たいていは捕食動物)には敏感だけど、逆に言えば視角内を静かにゆっくり近付いてくるものには無頓着な傾向が見える。
だからゆっくり静かに堂々と近付けば群れの中に入り込む事は不可能ではない。(簡単とは言っていない)
そしてリーダー格の一頭を捕まえてそいつを誘導したら群れごとついてくる可能性がある。
現代のウシ系動物の生態とかからの推測だけど、最初期はこうやって捕まえていたと思われる。
そして、その説が正しいのか、そして今回適用できるのかを試す。
確信が無いから万が一のときの犠牲は一人で十分。
もちろん、他者の不用意な行動でご破算になるのを嫌ってってのもある。
事前に双眼鏡で見つけた推定オーロックスが屯している盆地の縁に向けて歩んでいるが、違和感が拭えない。
それは双眼鏡越しに見えた推定オーロックスが小さい事。
測った訳では無いけどホルスタインとさして変わらないかそれより小さいように見える。
ねぇ? ハクバルの近くの草原で二本の角が生えた山ほど大きな動物をたまに見掛けるんじゃなかったっけ?
まぁ、ホルスタインだって人間に比べたら十分大きいし、角で突き上げられたり踏まれたりしたら死ねるから油断禁物で行きまっしょい。
◇
居た居た。ひのふのみの……八頭か、この中でボスは誰じゃろほい。
……一頭が立ち上がって近付いてきたからこいつがボスかな?
他の個体はその様子を窺っているっぽいからこいつがボスでいいや。
尻尾をゆっくり左右に振っているから緊張してんだね。
犬は喜ぶと尻尾を振るけど牛はそうではない。尻尾を早く振りだすと凄く緊張しているサインだし、上下に振り出したら攻撃カウントダウンと思った方がいい。
今はゆっくりだからまだいける。
そろりそろりと近付いて……よし! 取り付いた。
それじゃあ、私のブラッシング力が君に通じるか勝負だ!
◇
ブラッシングを始めて約二十分。
フッフッフ……年季が違うのだよ年季が。
既に君が堕ちているのは、だらんと垂れ下がった君の尻尾が雄弁に物語っているのだよ。
良い子の君には鼻環をつけてあげよう。
穿孔するのはもうちょい落ち着いた場でやりたいから今はただ単に挟む奴。
「さあ、行くよ」
鼻環に結んだ手綱を引くと大人しくついて来る。
他の個体をちらっと見たら立ち上がってついてきたから群れの捕獲は大成功と言っていいだろう。
ノリさんに無線で八頭の捕獲成功を報告し、集合場所にサイレージの用意を依頼する。
◇
「むしゃむしゃしてやった。美味しいサイレージだった。今は反芻している」
「だいぶ改変入ってるな」
「いいじゃん別に」
集合場所に用意されていたサイレージの食付きは大変良かった。
餌箱を舐めるようにというか舐めてた。
気に入ったのか餌箱を片付けるノリさんに“なんで仕舞うの? もっとないの?”みたいな目を向けていた。
その後に山を越え谷を越えハクバル近郊の加古川水系(まだ名はない)まで連れてきて一休み中。
「そんで今日はどこまで進む?」
「行けるとこまで」
「ノープランって事でいい?」
「一応は川が合流してるとこまでは行けるとは思うけど」
「牛の歩みで行けるか?」
「たぶん大丈夫だけど、駄目だったら機に臨み変に応ずるまで」
牛の歩みや牛歩は牛がゆっくり歩くので遅々として進まない様をいう言葉だけど、あれは一部分だけを見ての話。
飼われている牛はのんびり屋に見えるかもしれないけど、スペインの闘牛とかを見れば分かるけど牛は歩いたり走ったりが遅いわけでは無い。そんな鈍間が野生の草原で生き残れる訳がない。
「私はブラッシングしとくから、ノリさんはハクバルに挨拶しに行ってもらえる?」
「りゃうかい」
人間といる方が快適だと思わせるのが肝要。そこに手は抜かない。
「藤蔓おいで」
藤のように蔓を広げ根を張って欲しいと思ってボスをそう名付けた。




