第33話 乳児用品
日光を浴びながら幾つもの白い布がはためいている。
美浦の洗濯場の物干しエリアの一角を占拠しているのは布オムツ。
美浦では乳幼児が絶えないというか増えているのでオムツは常にフル回転状態であり、三年以上使われている古参と昨日今日出来上がったばかりに見える新参が肩を並べて干されている。
綿製品を供出させられて布オムツに化けたのはいつのことだったか。
たしか和広ちゃんと江理ちゃんの紙オムツのストックが切れる前だからかなり早期にそうされた筈。あっ、元々は俺のシャツだった奴めっけ。
「多いな……何枚あるっけ? 佐智恵知ってる?」
「知らない」
赤ちゃんは基本まとめて面倒を看ているんだけど、これがシンクロするのよ。
誰かがおしっこして泣くと他の子もさっき換えたばかりなのにおしっこしてとか……赤ちゃん時代から連れしょんっすか?
だから日に一人あたり二十枚前後使うので、それ掛ける人数だから普段でも結構な数のオムツが干されている。
今干してるのは……五十枚ぐらい?
「悪天候が続くと物干し場占拠するからオムツの乾燥室を造った方がいいかな? 有栖ちゃんはもう取れるだろうけど人数増えてるし」
「課題は送風、除湿、加温」
物を乾かす際に、空気の交換(風)がある方が、空気の湿度が低い方が、乾燥させる物の温度が高い方が早く乾く。
だから除湿した温風を当てるというのが手っ取り早く乾かす手段になる。
「何かアイデアある?」
「除湿温風……ヒートポンプ(温度の低いところから高いところに熱を移動させるもの。身近な例だとエアコンや冷蔵庫などに使われている)あるなら解決だけど」
「エアコンの衣類乾燥モードは便利だもんなぁ……無い者強請りしてもしゃあないから古典的にストーブ? 出端屋敷のロケットストーブ近辺をリフォームして乾燥室に」
「あそこは予備のユーティリティスペースだし取り壊し予定だから不適。使うとしても暫定利用。ロケットストーブもしくは薪ストーブを作成して新設が本命」
「それが無難か……」
「あら、お二人さん、なに話してるの?」
「奈菜さん出歩いてて大丈夫ですか? まだ産褥期ですよね?」
「ちょっとお散歩。それぐらい大丈夫なぐらい回復してるから恵さんと交代で気晴らししてるの」
「なら良いんですけど。うちらは消毒液の納品に来てまして、今後もオムツが増えるなら乾燥室を作った方がいいかなって話をしてました」
「ああ、ジアか。またお世話になります」
そもそも佐智恵と二人で洗濯場に何をしに来たかというと謎工房で佐智恵が製造した次亜塩素酸ナトリウム水溶液(略称:ジア)の納品。
洗濯場に常備しているのだが、ストックが切れそうということで荷物持ちをした。
なぜそんな物をストックしているかというと、オムツの消毒のため。
オムツは排泄物を処理して石鹸水に漬けておいて、ある程度溜まったら洗濯して次亜塩素酸ナトリウムの消毒液に漬けて消毒し、消毒が終わったら水洗いして干す。
オムツの消毒は毎日の事だから切らすわけにはいかないけど、そのまま使える奴だと量が量なので納品しているのは使う際に二十倍希釈して使う原液。
原液の濃度は約六パーセントだそうで、新品のうちは〇.三パーセント程度の濃さになる。
この消毒液に三〇分も漬ければだいたいの細菌やウイルスはやっつけられる。
というか、奈緒美や雪月花がいうには芽胞相手じゃなければ〇.一パーセントあれば余裕らしいから〇.三パーセントはかなり濃い。
芽胞相手だと一.〇パーセント以上の濃度がいるので芽胞相手だったら五倍希釈だそうだ。
なんでそんな濃さにしているのか佐智恵に聞いたら“テキトーにやっても必要な濃度が出せるようにしている”とのこと。
そもそも濡れたオムツの水分で薄まるし、次亜塩素酸ナトリウムは不安定な物質で、時間とともに分解して殺菌力が落ちるし汚れなどにも反応するから、最後の方にテキトーにやっても十分な殺菌力を維持できる濃度ということらしい。
次亜塩素酸ナトリウムは塩素系漂白剤としても使えるけど、漂白する際はそれ用の場で次亜塩素酸カルシウム(いわゆる『晒し粉』とか『カルキ』)を使うので俺の知る限りでは洗濯場の消毒液を漂白するのに使った例はない。俺が知らないだけかもしれないけど。
「そう言えばオムツの消毒に次亜塩素酸のカルシウムじゃなくナトリウムを指定したのってママさんでしたよね。今更ですけど何でですか?」
「ノリちゃん先生らしくないなぁ……さっちゃん」
「酸化力を失った後、塩化ナトリウムと塩化カルシウムのどっちがいいか」
「あっ」
「だからジアは乳児用消毒液にも使われているの」
「ママさん、たぶん今月中は持つと思うけど危なかったら言って」
「ありがと。でも大変でしょ? 大丈夫?」
「原料調合して機材セットして電気流しとくだけだから大したことない。電気の確保の方が大変な筈」
次亜塩素酸系統は電気分解で作っているので直流電源が必要になる。
だから太陽光発電パネルなどで発電した電気を電気自動車の予備バッテリーに充電して使っている。
次亜塩素酸系統は飲料水や処理水の消毒などにも使っているので電気は冷凍庫や冷蔵庫の次ぐらいに回ってきているそうだ。
もっとも、バッテリーもいつまでも持つものじゃないから将司が色んな電気製品をばらしながら発電機を作成中。
電気使うならエナメル線って地味に大事。
銅は貴重です。
線にするのは骨が折れます。
そしてなにより巻いても割れない絶縁被覆が大変です。
でもそれができないとコイルが作れません。
二百円ぐらいで一巻き(十メートル)買えたんだけどなぁ……
何で大変なのが分かるかって?
電気の授業の教材として準備してて心が折れたから。
「そういえば、ノリちゃん先生、K2ありがとね」
「いえいえ」
K2というのは乳児を持つ母親なら聞いた事があると思うけどビタミンK2シロップの事で、新生児にビタミンK2を経口投与するためのシロップのこと。
栄養学でのビタミンとは“三大栄養素(炭水化物、タンパク質、脂質)ではなく”・“生命維持や生育に重要な成分で”・“体内で必要量を生成できない”・“有機物”ということができる。ちなみに最後の有機物を無機物にすると栄養学の『ミネラル』になる。
つまり、体内で必要量を生成できないビタミンやミネラルは基本的には経口摂取が必要となる。
そんなビタミンの一種のビタミンKだが、このKはABCのように発見された順番ではなく、不足すると出血が止まらなくなる成分の発見者が凝血ビタミンと名付け、凝固を意味するドイツ語の頭文字のKがそのまま採用された。
このことから分かるとおり、血液凝固因子の生成にビタミンKは非常に重要な地位を占める。
他にも骨の形成に関わっていて骨粗しょう症の予防や治療にビタミンKが処方される事もある。
そういう大切な栄養素であるビタミンKなのだが、実は多くの食品に含まれていて調理しても損なわれる事が少ない上に腸内細菌叢も産生するので不足することはあまりない。
しかし、新生児や乳児は母乳やミルクしか摂取しないし腸内細菌叢も高が知れているので、母乳やミルクにビタミンK2が不足していると欠乏症になる事がある。(乳児用ミルクにはビタミンK2が必要量配合されている物もある)
そこで、新生児や乳児にビタミンK2を投与するビタミンK2シロップというものが作られ、突然死(欠乏すると頭蓋内出血が高確率で起こる)する乳児の減少に寄与している。
ビタミンKには1から5までの種類があるのになぜビタミンK2に限定しているかというと、人間が直接利用しているのがビタミンK2だから。
物凄く大雑把にいうと、植物性のK1と動物性や発酵系のK2が天然のビタミンKで、K3以降は合成ビタミンと思えば大過ない。
そしてK2以外のK1、K3、K4、K5は腸内細菌叢がK2を作るときの材料であったり、人体が吸収して体内でK2に変換するなどビタミンK2の原料みたいなものなので、新生児に投与するのはK2となっている。
K1は葉緑素に含まれるので植物にはかなり豊富にあるのだが、新生児に投与するのにK1が使われないのは腸内細菌叢も体内の変換能も貧弱な状態で原料だけあっても……ということらしい。
本田さんちのお二方が出産を迎えるころの俺は“ビタミンK2に拘らなくてもビタミンKなら何でもいいんじゃないか?”とか“母親がビタミンKをちゃんと摂取していれば母乳中にビタミンKが不足することもないんじゃないの?”なんて思っていた。(後者は間違いとまではいかないが正しいわけでもないらしい)
だから“ビタミンKは脂溶性だから植物油にも結構入っているし、ビタミンKの含有率が一番高い生鮮品はパセリだからパセリの精油を作れば含有率はバッチリじゃん”とか“卵黄は動物性の中では比較的高濃度だから赤ちゃんにあげるのはアレルギーとかあるからあれだけどパセリオイルで卵黄マヨネーズを作って母親が食べれば”なんて言ったら……奈菜さんと雪月花に思いっきり叱られた。
パセリにはアピオールやミリスチシンという精油成分があって、少量なら薬効もあるんだけど、過剰摂取すると流産とか肝障害や腎障害を誘発するから妊婦や授乳中の母親は避けるべきものらしい。
常識的な量のパセリやセロリ(セロリにもアピオールが含まれる)を食べるぐらいなら別に問題はないが、精油にして濃縮すると少量でも危険なんだって。
どれぐらいで危険になるかというとパセリ一袋(二〇〇グラム)を原料にした製油を短期間に摂取すると大人でも命の危険があるぐらい。
胎児や乳児はもっと少量でも危険なのは言うまでも無いし、母乳にアピオールやミリスチシンが混じると乳児が危険なので授乳中は避けるべき物との事。
「あれ、オリノコで作ったんでしょ?」
「ええ。週単位で美浦を離れるのは基本自分だけですので」
ビタミンK2が動物に含まれるというのは自分が使うために備蓄しているようなものなので含有率はそんなに高くは無い。
動物の多くは自分でビタミンK2を産生しているのではなく、ビタミンK1を変換したり腸内細菌叢が産生するビタミンK2を吸収しているという人間とさして変わらない取得方法をしているんだから卵とかならともかく食肉のビタミンKの含有率が低いのは当たり前の話。
なので高濃度のビタミンK2が欲しいときは細菌が産生するビタミンK2を掠め取るという事になり、医薬品のビタミンK2はアルトロバクター属の細菌が産生するビタミンK2を抽出して使っていたりするそうだ。
しかし、さすがの奈緒美もアルトロバクター属の菌株は持っていなかったので別の手段でビタミンK2を得る事にした。
その別の手段というのが定吉七番の宿敵NATTO……じゃなく納豆です。はい。納豆菌はかなりの量のビタミンK2を産生するんです。
しかし、納豆菌コンタミ恐怖症の奈緒美が禁令を出していて、美浦では納豆の作成や保持はもちろんの事、他所で作ったとしても納豆との接触があった場合は、七十二時間以上納豆との接触を絶ってからでないと美浦への立ち入りも禁止されている。
七十二時間以上美浦から離れる用があるのはたいていが俺なんで、俺が他所で納豆を作成してビタミンK2を抽出し、関連物の焼却処分や殺菌消毒をした上で七十二時間以上間隔をあけてから美浦に持って帰るという事になる。
これ、凄く面倒なのよ。
丸大豆の納豆よりひきわり納豆の方がビタミンK2の含有率が高いのは菌が繁殖する表面積広いからで、ビタミンKの抽出目的ならひきわり納豆の方がいい。
だから、石臼で大豆をひきわりにして、蒸した大豆を煮沸消毒した稲藁に包んで、稲藁で作った菰で保温しながらオリノコに向かう。
ひきわり納豆ができあがったら鍋にひきわり納豆と水と胡麻油を入れて火にかける。(稲藁はその時に燃料にする事で焼却処分)
加熱するのは脂溶性のビタミンKの油への移動を加速するのと酵素類を失活させるという二つの意味がある。
しばらく煮沸してから漉しとって滓は焼却処分。
その後は油水分離して油部分を持ち帰る。
使った道具や着ていた服は芽胞菌にも効果がある濃度の消毒液に丸一日ぐらい漬け込んで殺菌するのだが、消毒液は漂白剤と変わらないからこの作業するときは白い服(≠白衣)じゃないといけない。
「美浦で作ったらナオ姉ちゃん激オコの納豆だものねぇ……それに聞いたわよ? ノリちゃん先生は納豆が好きじゃないって」
「食べられますが自発的に食べたいとは思わないです。K2抽出も代わってくれる人がいたら代わってもらいたいぐらいです。黒岩さんたちが作ってくれたらいいんですけど断られまして」
母親が関西の出だからか家で納豆が食卓に上がる事がなかったし、父親も出されたら食べるけど自分から食べにいく事は無いって感じだった。
俺も父親と一緒で、自分から食べようとは思わない程度には嫌い。
だから正直なところ作業中の臭いには難儀している。
赤子の命には替えられないから我慢して作っているけど、誰か代わってくれるならよろこんでお譲りする。
「ご苦労様」
ママさんは身体が覚えているようで綺麗な敬礼をしてくれたので、俺は右手の手のひらを左胸に当てて答礼する。
「あっそうそう、知ってたらでいいんだけど、K2をあげる時にユヅ姉ちゃんが何か変な事言ってたんだけど何か分かる? 塩納豆コーンみたいな」
「……ああ、それって“ユマラ・シウォナットコーン・シヌア”だったんじゃないですか?」
「ああ、そんな感じ」
「フィンランド語で“あなたに神のご加護がありますように”といった感じですね。英語だと“ゴッド・ブレス・ユー”にあたります」
「なるほど……でもなぜにフィンランド語」
「彼女の母語はフィンランド語ですので」
「日本語は流暢だけど」
「でも綺麗な日本語が多いでしょ? 母語として取得した言語じゃないから教科書的な日本語がベースになっているんです」
「なるほどねぇ……ありがと。それじゃあ近頃ナオ姉ちゃんとフミちゃんが禁酒してるっぽいんだけど、何か聞いてる?」
「……そっとしておいてあげてくれませんか」
「生暖かい目で見てればいいのね」
「暖かい目で見守ってやってくだせぇ」
「明るいかぞ」
「それ以上いけない」
「はいはい。それじゃあ、さっちゃんは何箇月?」
「三箇月」
「美結ちゃんは?」
「まだみたいだけど、やることやってるから時間の問題かと」
「勘弁してください!」
「医療従事者としての確認よ?」
「……」
「はいはい。ゴシップ的興味が皆無とはいいません。そんじゃあ話戻すけど、オムツ乾燥室があったら凄く助かる。協力できる事があったら言ってね」
「その際はよろしくお願いします」
ビタミンK2の抽出ですが、こんな方法で抽出できるかは知りません。
ここで8章は一区切りとします。




