第31話 冬はつとめて
美浦の朝は早い……とは限らない。特に冬場は。
作業できるような明るさの照明器具は普段使いできないので、日の出の三十分前ぐらいからしか手元が暗くて真っ当に作業できない。
この太陽が隠れていても人工照明無しで屋外活動ができる時間帯を市民薄明という。
市民薄明というのは英語のシビル・トワイライトの直訳なので日本語としては奇異な響きだからか常用薄明と言われる事もある。
態々市民薄明というのは薄明には段階があって、市民薄明の他に天文薄明と航海薄明というものもあるから。
天文薄明は六等星が肉眼で見えない明るさで、第一薄明ともいう。
航海薄明は水平線や地平線が判別できる明るさで、第二薄明とも。
そして作業できる明るさになる市民薄明が第三薄明。
一日は夜、第一薄明、第二薄明、第三薄明、日の出、昼、日の入り、第三薄明、第二薄明、第一薄明、夜というサイクルになる。
薄明の時間がどれぐらいあるかは太陽が水平線の下の何度ぐらいの位置にあるかでほぼ決まるので緯度や季節で異なるが、美浦ではだいたい日の出前三十分(日没後三十分)ぐらいが市民薄明の時間になる。
今の時季の日の出は七時ごろだから市民薄明は六時半ぐらいかな?
夏場は四時半ぐらいの事もあるので朝が早いと言ってもいいかもしれないけど、冬場は六時過ぎからが活動できる最速だから冬場は朝が早いとは言いづらい。
まあ、そうは言っても日の出のだいぶ前に起きるんだけどね。
日の入り後に何か作業ができる時間も三十分ぐらいしかないからその後は基本的には寝るだけなので、十九時とか二十時にはだいたい寝ている。
すると四時五時には目が覚めてしまう。
さて、今朝は早番なのでそろそろ起きないといけない時間なのだが、俺の鳩尾あたりに涎を垂らしている有栖ちゃんと、有栖ちゃんに乗っかって寝ている猫のキッテンをどかさないと起き上がることができない。
キッテンよぉ……猫は薄明薄暮性だったと思うけど、薄明なのに寝ててどうする。
そぉっと一匹と一人を降ろして朝の支度に取り掛かる。
服を着替えて家を出ると身震いする寒さ。
東に見える山の稜線の近くがやや明るい感じに見え、枕草子の第一段の“やうやう白くなりゆく山ぎはすこしあかりて”という感じだな。
今は春ではないし、紫がかった雲もないけど。
航海薄明だから六時過ぎかな?
ちょっと遅くなったかもしれないから瑞穂会館に急ごう。
◇
瑞穂会館に入って最初にするのが火熾し。
調理するにも暖を取るにも灯りを灯すにも火は必要。
窓を開けると少しだけ見えるようになるので竃とストーブの灰を掻き出して薪を組む。
そして手製の固形燃料を着火材として薪に塗って、こいつを焚き付けにして薪ストーブに火をつける。
火種から引火した固形燃料が組んだ薪を炙って何れ薪が燃え出しくれる。
以前は火種から薪に火をつけるまでの間は息を吹き込んだりしていたものだが固形燃料を作り出して以降はかなり楽になった。
固形燃料以外にも着火材は作っているけど、固形燃料が一番使い勝手が良い。
ストーブは廃油ストーブとか熱量が高いストーブも作れなくは無いが、油は重量あたりの熱量の大きな燃料なので基本的には蒸気船の燃料にしている。
そして地上利用で据え置きのストーブは油に比べて重量あたりの熱量が一桁も二桁も低い薪が主体になる。
ストーブに火をつけたら薬缶を載せてちょっと休憩。
休憩したら米を炊くために米を研がないといけない。
美浦では米を炊くのは男の仕事になっている。
男の仕事になっている理由は重たいから。
五升炊ける鋳鉄製の羽釜でご飯を炊くとなると羽釜だけで十キログラムはあって、米と水と羽釜の重さを全部合わせると三十キログラムに迫る重さになる。
そんなに沢山炊かなくてもと思うかもしれないが、一食で四升は消費するのだから仕方がない。
美浦では基本的に肉体労働が多いのでたいたいはお茶碗や丼で二杯ぐらい食べるから一人あたり三五〇から五〇〇グラムぐらい食べる計算になる。
そして美浦の構成は成人が三十一人、子供と乳幼児が五人ずつの四十一人。
今後、食べ盛りが増えるので五升羽釜だと足りなくなるかもしれない。
羽釜と竃はセットなのでそのときは竃も誂えないといけないな。
薪ストーブは暖まるまで時間が掛かるが、完全に暖まるのを待っていたら朝食に差し障るから適当なところで気合を入れて取り掛かる。
分量を量った米を研いで竃に据えてある羽釜に入れて水も入れる。
身を切るような冷たさの水に浸かった手をよく拭いて……手が悴んで手ぬぐいが上手く取れない。
濡れたままにしておくとしもやけになるし……手をプルプルと振ってから両脇に挟んで暖めるのも已むを得ないだろう。
脇は体温を測ることから分かるように体表面の中では温度が高い代表的な場所だし、体勢的にも手を暖めるのには打って付け。
寒いからうろうろ歩きながら“早いとこ竃に火をつけないと……”などと考えていたら今日の朝食当番の大林さんがやってきた。
「おはようございまーす……って何してんですか?」
「おはようございます。いやぁ……水が冷たくて冷たくて、手の感覚がなくなったのよ。ってもうそんな時間だっけ?」
「早めに目が覚めたので……竃の火、付けましょうか?」
「そうしてもらえるとありがたい」
「はーい。手が暖まったらデベラの骨砕きお願いしていいですか?」
「おお、分かった」
デベラというのはタマガンゾウビラメという手の平ぐらい大きさのヒラメのことで、このタマガンゾウビラメの鱗と内臓を取り除いてからカチカチになるまで干した上乾品をデベラと呼んでいる。
デベラという呼称は五十嵐さんの影響が大きくて、彼女が製塩場の見学のときに泊まった尾道で食した干物がとても美味しくて店の人に聞いたらデベラというのだと教えてもらったらしい。
このカチカチの干物のデベラだが、金鎚などで叩いて骨を砕いてから炙るととても美味しい。
そうかそうか。今日の朝食の一菜はデベラか。
美浦の普段の朝食はご飯と具沢山のお味噌汁(猪肉や鹿肉が入る事も多いのでお味噌汁といっていいかは不明だが)とおかずが一品に箸休め的な漬物や佃煮などがつく一汁一菜のスタイル。
米を恒常的に食べて問題ない収穫を得て、味噌も年中使って問題ない量を仕込むようになってからはこうなっている。
食料的にはおかずを増やしてもいいのだけれど、調理の手間の問題で朝食は一汁一菜が基本になっている。
人数も人数だし日の出前の暗いうちから何品も作るって面倒なのよ。
大林さんがストーブから火を取って竃に移して鍋をかける。
鍋には前日のうちに水を張って干し椎茸や頭とワタをとった煮干を入れているので朝にある程度の出汁は出ている。
切っている物をみるに、今日のお味噌汁の具はボタン、白菜、大根、ニンジン、サツマイモといったあたりか。
お味噌汁というより豚汁、猪汁といった感じだな。
「イリコ出汁にも慣れましたけど鰹出汁や昆布出汁が恋しいです。そういえば鰹チャレンジは田植え前でしたっけ」
「春分あたりから半月ぐらいと聞いてる」
この間、雪風、春風に続く三番船の『黒潮』が就役した。
本格的な外洋船を目指した黒潮は紆余曲折があって結局は純粋な蒸気船になった。
コンパクトで重量あたりの出力が高い内燃機関(焼玉エンジン)の作成は一応は成功したが耐久性の問題でお蔵入りになったため、動力は当初の選択肢には無かった蒸気機関になり、重量のある蒸気機関を搭載するということで船体の再設計……新規に設計して名前だけ引き継いだ形になった。
黒潮を春風のように帆走も動力航行もできる機帆船にするのを諦めた理由は人員不足。
帆船は帆の操作などで人手が必要で、小型のヨットなら一人で操船できなくもないが、日本の千石船は十人前後の人間が乗り込んで操船していた。
黒潮の規模だと帆走するとなると十人とはいわないが五人ではキツイ感じになりそうだったので、船長、航海士、機関士あたりで何とかなる純粋な動力船にした。
その黒潮が外洋航行も視野に入れて設計した春風を随伴船として明石海峡と紀淡海峡を越えて紀州沖で初鰹を狙う『鰹チャレンジ』が企画されている。
「……目には青葉 山ほととぎす 初鰹、鰹って初夏のイメージなんですが」
「それって関東での話。九州、四国とのぼってきた鰹が関東に着くのが五月から六月にかけての初夏。高知で獲れたての鰹のタタキを食おうとゴールデンウィークに勇んで出かけたら料理屋のおばちゃんに“高知沖の初鰹は三月下旬から四月中旬ぐらいまで。来るのがちょっと遅かったね”って言われた。もっとも“獲って直ぐ船で冷凍にするから鮮度はいつでも一緒。うちはB1を指定して買ってるから年中獲れたて”って笑ってたけど」
「B1? Aじゃなくて?」
「ブライン凍結の一級品の略なんだって。後で調べたけど、ブライン凍結っていうのは急速凍結の手法の一つで、凍結寸前のマイナス二〇度まで冷やした飽和食塩水をブライン液っていって、このブライン液に生きたままの鰹を突っ込めば一分ほどでカチカチに凍るんだって。その後はマイナス五〇度の超低温冷凍庫で芯まで凍結して保管するのが鰹漁では一般的な方法らしく、その中で厳しい温度管理をしていて品質の良い物をB1凍結、そうでないのをブライン凍結っていうんだって」
「ブラインのBってことか」
「そ。よし、手もだいぶ暖かくなったからデベラに取り掛かるわ」
「はーい。よろしく」
デベラを炙る炭を熾して骨砕きに邁進しまっしょい。




