第3話 田植と目論見
出端屋敷が落成してから一ヶ月ちょっとが過ぎた六月一日。
今日は田植えです。
「明日は田植なので休みます」
そういって会社や学校を休む人もいたぐらい、田植は家族総出の行事であった。同じ田んぼは同じ日に植えないと育ちがバラバラになって水管理ができなくなり、収量が激減してしまう。
なお、稲刈りでも同じ事です。
水田二十枚、総面積五反。水入れも代掻きも終わって後は田植を待つのみ。
植える品種は五十品種。そうはいってもほとんどが種子更新用に少量を植えるだけなので、ある程度の量を植えるのは十七品種。
食米用の粳米が六品種(コシヒカリ、ひとめぼれ、はえぬき、ハツシモ、おぼろづき、日本晴)
酒造適合米が八品種(山田錦、五百万石、雄町、若水、亀の尾、白藤、一本〆、吟の夢)
糯米が二品種(ヒメノモチ、旭糯)
色米(赤米)が一品種(神丹穂)
食米が各四畝、酒米が各二畝、糯と赤米が各一畝をそれぞれ植える。
残りは種子更新用で各三~六坪といった感じ。
「それじゃあ割り当てを確認するね」
奈緒美が各自の役割を順に言っていく。協同作業なので役割分担は大事。
実際は、昨夜決めた分担を再確認しているだけだがリマインドも重要だ。
「ノリさんは悪いんだけど一人で色米と糯と飼料をお願いするね。終わったら言って頂戴」
「……種子更新は例によって市松で、配置はこの紙の通りだな」
「うん。よろしく!」
種子更新なので他品種の花粉がついて交雑するとよろしくないので離して植えるが、植える場所も開花時期が近いものはなるべく離れた場所になるように配置する。俺は品種毎の開花時期なんて知らないから奈緒美の指示通りに植えるしかない。
指示書の内容と育苗箱の目印を照合し、目的の育苗箱を一輪車に載せて田んぼまで持っていく。担当する色米(赤をはじめ、紫黒、緑などがある)、糯米、飼料米は非主流なのでこれらの田んぼは水田予定地の端の方に点々とあるのだ。
植える量はともかくとして凄く面倒。何回往復する必要があるのだろうか……
一期工事の水田配置を決めた時の奈緒美との会話を思い出す。
―――
「小さい水田が沢山欲しいってのは、百歩譲って分かったとしよう。だけど何でこんなにバラバラの場所になってんだよ」
「そんなの交雑を防ぐ為に決まってんじゃん」
「だいたい稲は自家受粉だろ?そんなに致命傷なのか?水田が間に合わないリスクを負ってまでやらないといけない事なのかよ」
「確かに稲は自家受粉が可能やし、基本的には同品種が育つよ。だけどそれは近隣に同じ品種を植えてるからって面も少なからずあるんよ。風媒花だから交雑だって十分起き得るの。だから交雑が致命傷になる色米と糯は隔離しないといけないの」
「糯は何となく分かる。確か劣勢遺伝だから糯にならなくなるんだっけ」
「そう。糯同士の交雑はノリさんじゃないけど百歩譲って諦めるにしても粳と交雑しちゃうと台無しだから」
「じゃぁ色米は何が問題なんだよ」
「んとね。色米が混じると品質が悪くなる。主に収量……それと食味」
「何それ」
「赤米って食味が悪くてさぁ『稲米の最悪の者なり』なんて書いてる文献もあるんだよ。それにほら、捨てる食材で料理を作る番組で『豚の餌にもならないゴミ』として貰ってたじゃない。だから色米が交雑しちゃうとアレなんだわ。収量も半分位になっちゃうし」
「じゃぁ作るの止めれば?」
「ところがね。雑草稲なんて呼ばれる事もあるってので分かると思うけど条件が悪くても育つし繁殖力も強いんで保険なんだよぉ」
昔は救荒作物的な意味も込めて作られていたそうなので、その名残なのか長野や埼玉などで雑草稲の繁殖が問題になっている場所もあるらしい。
平成の世では「田圃アート」とか「古代米」とかで作られてはいるが、昭和の終わり頃は基本的には神事用に極少量しか作っていなかった。これは明治政府が栽培を抑制(一説によると禁止)したので徐々に栽培されなくなったとの事。
分からなくも無い話しなので、将司も「奈緒美に一理有り」となってしまった。
だけど、色米の田んぼは食米の田んぼから二百メートル前後離れていて、苗置き場からだと四百メートル以上離れている。隔離するにしても遠過ぎじゃね?
―――
田んぼに着いて育苗箱を降ろしたら空荷の一輪車を返しにいく。育苗箱は重ねられないから一回で運べる量が少ない。苗運搬車が欲しい今日この頃。
苗を取り出したら籠に入れて田んぼに入って植えていく。
型付けというグランドを均す道具のトンボに似た農具で引いた線を目印に植えていくのだが、泥濘に足を取られつつ、腰を屈めて……ほんと昔の人は偉い。
昔は一日で一反の田植えができれば一人前と言われたそうなので、全体で五反だから十人の半人前がいれば一日で終わる計算。……んな訳ねえか。
「ノーリーちゃん!」「そろそろお昼ごはんだって」
子供達が呼びに来てくれた。美野里や奈緒美がノリさんと呼ぶので子供達からノリちゃんと呼ばれる様になってしまった。匠はタクちゃん、将司はマサちゃん、文昭はフミちゃん……こういうのって例え子供達が成人してもそのまま呼ばれ続けるんだろうなぁ。
昼までの進捗は、色米の種取り含めて三畝、糯米の種取りの一畝を植えた辺り。残りのノルマは糯米が二畝と飼料米の種取りが二畝の合計四畝だから何とか今日中に終われるかな?
場所が離れているので移動に時間が取られてしまったが、それがなければ昼までに五畝は植えられたと思う。ん?俺って一人前じゃん。
文昭と俺は奈緒美植物園で田植の経験があるから多少は早いが、初体験組みは遅々として進んでいない。榊原くん達は三人掛りで四畝が植え終わっていない。
これは拙い。このままだと一人一日に二~三畝程度しか植えられない。下手すると今日中に終わらない可能性も十分考えられる。
今年は明日植えればいいのだが、もし一日に五反しか植えられないとすると来年の十町歩は二十日近く掛かってしまう。
そうなると苗が育ちすぎたりして駄目になるので十町歩は無理がある。
開墾はともかく田植えできなきゃ意味がない。
畦道に座って昼飯を食べつつ奈緒美に懸念を話す。
「今年はともかくとして、来年以降の十町歩以上とか無理じゃね?植え切らんよ絶対」
「一人あたり一日一反植えて二十人掛りでやれば五日で終わるから大丈夫だよ」
「いやこのペースだと一人三畝が関の山だぞ」
「手植えが駄目なら田植器を使えばいいじゃない」
「はぁ?なに恵帝みたいな事を言ってやがる。どこに田植機があるんだよ」
「へへーん。田植器は順調に植えてるよ」
田植器というのは、筒を植える間隔に並べて、その中に苗を落とせば苗が田んぼに突き刺さるという物で、動力も駆動部分も何も無いので機械ではなく器具と言った方がいいという装置。屈まなくてもいいので楽だし作業もシンプルで、田植機に比べればあれだけど作業性もそこそこあるアイデア農具として農業誌に載っていたのを拝借したのだそうだ。
「酒米の五枚(二畝×五枚=一反)はもう少しで植え終わるぐらい。苗運びと田植器の二人一組なら二反を植えるのは現実的なペースだよ」
御見逸れしました。
「まぁ人力田植機の方はもう少しかかるって感じだけどね」
何でも昭和三十年代に実用化された人力田植機の構造を知っていたので匠に試作機を作らせたんだとか。
そういえば手押し車的な物を田んぼで押していたっけ?
てっきり目印を書いていると思っていたけどそんな事してたんだ。
ただ、こっちはまだまだ改良や調整が必要で機械の改良にするのか苗の育て方を変えるのかは検討中らしい。
「それにしても俺めっちゃ遠いし、嫌がらせかと思ったよ」
「いやぁーノリさんならできると思ってさ。他にできそうな人が居ないし」
憮然としてたら突然何かが背中に覆い被さってきた。
っ!くぁwせdrftgyふじこlp!
「できるんだから文句言わない」
佐智恵!……気配消して忍び寄るんじゃないって何度言ったら分かるんだよ。
どさくさに紛れてオニギリ頬張るんじゃない。
それ俺の食いさしだぞ。
「……話は変わるけど、奈緒美はどれぐらいの収量を見込んでる?」
「反収二百キログラムかな?」
現代日本では十アールつまり約一反あたり五百~六百キログラムの玄米が採れる。反収十俵というのは一反で十俵(=六百キログラム)の玄米が採れるという事で、恒常的に採れるなら結構多い部類に入る。(多収を目的にすれば一トンを超えた例もあるそうだが)
この反収だが奈良時代は約百キログラム、江戸時代で約二百キログラム、明治時代から伸びが良くなり昭和二十年代で約三百キログラムに達する。昭和三十年代から五十年代にかけて更に急速に伸びて五百キログラムを越えるまでになり、そこからは頭打ちに近い状態になっている。
「反収二百キログラムって江戸時代ごろの数字だな。粳米が合計四百八十キログラム、酒米が合計三百二十キログラム、糯米が四十キログラム、赤米が二十キログラムってところか」
「赤米は十キログラムだね。あいつ生産性悪いから」
「一反で一石三斗って感じだと三町歩ぐらい要るか」
米を文字通り本当に主食にするなら一人一年で約百五十キログラム程度必要になるので一人一反弱の水田が必要になる。石というのは容積の単位で約百八十リットルつまりドラム缶だと思ってくれればいい。(よく見るドラム缶は二百リットル入る)
一石の米の重量は約百五十キログラムなので一人が一年でドラム缶一つ分の米を消費する。
加賀百万石とかいう時の石高は米が何石採れるかというのが基本的な考え方だ。
米以外の産品も米に換算すると何石になるかで合わせているから加賀藩で米が百万石採れる訳じゃないけど、一石で一人暮らせるとすればギリギリ百万人暮らせるといった感じ。
でだ、俺ら大人二十人が一年間食べていける量の米を取ろうとすると二町歩程度の水田が必要で、子供たちの分とか不作の時とかを考えれば三町歩ぐらいあればそこそこ食べていけるようになるだろう。
種籾は一反あたり二キログラムが標準だから三町歩だと種籾が六十キログラム必要になる。
つまり一品種でも育てば来年の秋には食糧問題はかなり改善される事になる。
二品種育てばほぼ解決と言って良いだろう。
ん?だったら三町歩でいいんじゃないか?
何で十町歩も要るんだ?百人食って……あっ……
「でも二百キログラムってのは低過ぎねえか?」
「化学肥料なしだもん五百キログラムなんて無理だよ」
「ハーバー・ボッシュ法は全然見えてこないから難しいか」
「原料はともかく触媒と温度と圧力が無理。特に触媒は原料も作成手段も無い」
動植物の身体は極端な事を言えばタンパク質でできていて、タンパク質は極論を言えばアミノ酸の集合体なのだ。
そしてアミノ酸には必ず窒素が含まれている。
つまり窒素がなければどうやってもタンパク質合成ができず、生体を作る事ができない。空気中の窒素は結合が強固なので一部の窒素固定生物以外の生物は空気中の窒素を利用できない。なので、普通の生物が利用できる形態に窒素を変化させる事を窒素固定と言う。
大豆に共生する根粒菌が窒素固定をするとか聞いたことがあると思うけど、そういう窒素固定生物が作り出したアンモニアとか硝酸の形になった窒素を他の生物が使っている。
現代では工業的に化学合成するアンモニアが地球全体の窒素固定の四割以上を占めていて、そのほとんどが化学肥料になっている。
実は人類が地球最大の窒素固定源だったりするのだ。
バイオマスから考えれば化学肥料がなければ世界人口の半数近くが餓死する計算になる。
二十世紀初頭にドイツのフリッツ・ハーバー博士がラボレベルで成功したアンモニア合成をカール・ボッシュ氏が工業的に作成する方法を開発したハーバー・ボッシュ法は人類最大の発明と言っても過言では無いと俺は思っている。
世界人口が二十世紀初頭から急激に増えているのはハーバー・ボッシュ法と無関係ではない。
「窒素もそうだけど、NPK (窒素・リン酸・カリ)のとりわけリン酸が問題だね。燐鉱石やグアノが入手できるとは思えないからね」
リン酸肥料の素となる燐鉱石やグアノが入手できるようになって収量が飛躍的に向上したそうだ。グアノはリン酸や硝石が豊富にあるので、米国はグアノが採れる無主の島を米国人が発見したら領有できるなんて法律があるぐらいリン酸と硝石(窒素肥料)の入手が重要視されている。
あまり良い事ではないらしいがリン酸肥料を使えばアルミニウム分が多くてこれまで農地にならなかった土地でも栽培できるようにもなったらしい。
高生産性の品種と化学肥料と農薬で食料生産が飛躍的に伸びた「緑の革命」も良い面ばかりではないように、化学肥料も打出の小槌ではないので弊害も色々とある。
リン酸肥料の原料だが、日本の気候風土だと肥料に使える量にはならないのでほぼ一〇〇%を輸入に頼っている。燐鉱石の値上げや禁輸などのリスクも高い。そこで現代日本では下水からリン分を得ようと涙ぐましい研究もされていて一部実用化もされている。
「骨粉のリン酸カルシウムで頑張るしかないか」
「そこらはサッチとユヅに頼るしかないね。サッチよろしく」
「任せて」
佐智恵さんいつまで俺の背中に張り付いているつもりですか。
「どれぐらいまでなら伸ばせそうだ?江戸時代のテクノロジーとすれば二百キログラムで頭打ちって事もあり得るか?」
「うーん……何年かはそうだね。土がこなれてくれれば二百五十キログラムは行けるかな?江戸時代の二百キログラムは収量の悪い赤米を含んでの反収だし、正条植えでもなかったから、二百五十キログラムは行けるんじゃないかと思ってるけどね」
「正条植え?」
「等間隔で一列に並べて植えるやり方の事。明治時代に普及した方法だからそれ以前は乱雑植えって方法だったんだよ。正条植えの方が除草も楽だし風通しも良いから収量も上がったんだよ」
「そうか……田植機の方は頑張ってくれって言っても頑張るのは匠か……そうそう後で田植器を試させてくれ。どんな物か見てみたい」
「分かったよん。じゃ午後もよろしくね」
佐智恵いい加減背中から降りなさい。
午後も田植が残ってるんだ。
さっさと苗箱持って来なさい。