第18話 世話人は辛いよ
滝野の貯水池の畔に建てた祠に石像を安置して滝野市場に帰ってきたのだが、雪月花は失意体前屈で“サータナ サータナ”と呟き続けている。
雪月花の母語はフィンランド語なので切羽詰るとフィンランド語がでてくる。
サータナは“悪魔”のことだが、ニュアンスとしては“最悪!”とか“ちくしょう!”に近い言葉。差し詰め“ああ、もう、最悪!”とか“どうしてこうなった。どうしてこうなった”といったところか。
グダっている理由は祠に納めた夫婦石像。
全体が研磨炭で磨き上げられてピカピカで、雪月花像は髪が金張りされているし、瞳には藍銅鉱が象嵌されていた。
それと像の後ろには書割よろしく讃岐岩を磨いて鏡面仕上げされた石板に稲穂と太陽と稲妻が彫られたものも据えられていて、正面から見ると雪月花像が太陽を、将司像が稲妻を背負っており、さしずめ光輪や光背のように見える。製作者はそう見えるように作ったのだろうけど。
美浦総会でお披露目された石像はあくまで仕上げ前の確認であって、その後に仕上げ加工が施されたのだが、ご両人は仕上げ加工の内容を説明しようとする匠に対して“もう諦めたから好きにして”と言って確認しなかった。
だから雪月花は今日初めて完成形を見たのだが、その時の雪月花の姿はタイトルをつけるとすると『絶句』『唖然』『呆然』といったところか。
どういう事だと詰問されても“もう諦めたから好きにして”と言ったのは将司と雪月花。
凝り性の源次郎さん、剛史さん、匠にフリーハンドのお墨付きを与えたら悪乗り全開になるのは火を見るより明らか。
そしてお墨付きがあるから誰にも止められない。
神様的な素振りも含めて自分が播いた種でもあるんだから諦めろ。
「ユヅちゃ ねんね?」
ほら、有栖ちゃんも心配しているから切り替えて元気出せ。
■■■
八月の例会も滞りなく終了し、大人達は若衆に声を掛けて帰り、雪月花も開幕の挨拶を行うと美浦へと引き上げていった。
被る猫が霧散するレベルで精神的ダメージを受けていたにも係わらず、ちゃんと演説できるあたりはさすが雪月花だと思う。
他の帯同者もオリノコや美浦に引き上げていったので、十五人の若衆の面倒は美野里と匠と俺の三人でみる事になる。
若衆の宿泊場所は“滝野市場”、“各集落用の竪穴住居”、“当初若衆用と考えていた竪穴住居のうちの一基”の中から各自に好きに選んでもらった。
何だかんだ言ったところで、彼らにとっては竪穴住居が居住空間で高床建物は倉庫だと思うんだ。
それと、いくら狩猟がチームプレーだといってもホムハルを除けば世帯数は五世帯内外なのだから一集落の男衆は十人も居ない筈。だから二つか三つに分かれた方が具合が良いのではとも。
そんな風に思っていたのだが、蓋を開けてみれば全員が滝野市場を希望した。
鉋はないだろうから床が珍しいんじゃないかというのが匠の意見。
「いってきます」
「いてあす」
「いってらっしゃい」
滝野市場からラトくんの主導で若衆が出発していく。
出かけるときの“いってきます”・“いってらっしゃい”
帰ってきたときの“ただいま”・“おかえりなさい”
食事の前の“いただきます”と食後の“ごちそうさまでした”
これらは、ハロくんがここの作法だと広めたため、みんなちゃんと挨拶をする。
その言葉の意味が分かって言っているわけではないだろうが、挨拶とかは元々の意味とか関係ないんで問題は無いと思っている。
発音やイントネーションが怪しい部分もあるが、それはご愛嬌というもの。初めて聞く外国語を間違えずにネイティブ並みに発音できるなんて無理。
◇
「さて、匠は石切りと狩りのどっちがいい?」
俺らも遊んでいる訳ではない。
主食となる米や乾麺は十分あるが、副食の食材を入手する必要がある。
もちろん、日持ちする物も持ってきてはいるが全期間保存食というわけにもいかないし、十五歳から二十歳ぐらいの食べ盛り育ち盛りの男子が十五人も居るのだから食材の確保は重要なお仕事。
美野里の報告によると、食材としては獣肉だと鹿、猪、兎、狸、穴熊あたり、鳥肉だと鶉と雉あたり、魚肉だと鮎、鱒あたりが狙い目で、植物は時季が悪いとの事。
そして一人で狩猟するのは危険なのでそちらには二人。
滝野を留守にするのもアレなのでこちらに一人。
どうせならお留守番は闘竜灘に架ける石橋の石切りをしておこうというもの。
この組み合わせだと、お留守番は匠か俺になるので美野里は狩人固定。
「狩りで」
「了解」
「ノリさん、今日の御飯は何の予定?」
「鮎の塩焼きかな?」
「鯰と鯉とモクズガニもちゃまえてたよね?」
「そっちは泥抜き中」
「ならさ、暖めてた泥臭さを克服する調理法を試したいからやらせて」
「断る!」
「即答?!」
「……一応、聞かせてもらおうか。その調理法とやらを」
「えっとね、一つ目がパクチーとか紫蘇とかの香草をジュースにしてそれで煮る。二つ目は炙り焼きして廃糖蜜と塩安で作ったタレをつける。三つ目は乾留して臭い成分を追い出す」
「全部不味そう。というか三つ目は炭になるだろ。匠、弁護はあるか?」
「二番目は雪月花なら食えそうな気がしないでもない」
「サルミアッキ味ってか? ともかく美野里、毒を以って毒を制すは止めろ。毒に別の毒を加えたらもっと厄介な毒になるだけだ」
「劇薬の塩酸に劇薬の水酸化ナトリウムを加えたら劇薬でない塩化ナトリウムができる」
「詭弁を弄すな」
「でもね、香草煮込みは香草揚げとかカレーの発展系、塩安風味はサルミアッキウォッカの応用。毒に毒じゃない」
「匠、弁護があるならどうぞ」
「無理。泥吐きさせるが正義」
「あっ、鯉こくの味噌と同じ大豆の発酵物って事で納豆を擂り潰した汁で煮るってのは? ああ、しまった。納豆は奈緒美が禁止してたっけ」
美浦で納豆を造ろうという声はあったのだが奈緒美が禁令をだしている。
酒や味噌や醤油の醸造所やチーズ工房など発酵させるところで納豆は禁忌になっているところが多く、最後に納豆を食してから七十二時間以上経ってないと立ち入り禁止という場所も珍しくない。
醸造所などで納豆菌が繁殖しても汚染された醸造物と器具の廃棄、最悪でもその醸造所が潰れるだけで済むのは、種麹屋や種菌屋などのスターターメーカーや日本醸造協会や研究施設などで菌株が純粋培養されて保全されているのと各醸造所でも自家酵母が保全培養されていることがあるからであって、美浦の場合は四零九六が安全で優良な酵母を提供する唯一の施設なので、ここに納豆菌がコンタミすると最悪のケースだと安全な酒、酢、味醂、醤油、味噌の醸造が二度とできなくなる。酒、酢、味醂、醤油、味噌を無くしてまで納豆を食べたいのかと言われると黙らざるを得ない。
大袈裟と思わなくも無いが、衛生管理がちゃんとされている施設であってもコンタミや変質などで二度と入手できなくなった菌株はあって、衛生対策がそこまでできない現状では杞憂とは言えないそうだ。
さらに麹菌や酵母は家菌といっても過言でないぐらい野生種や近縁種との差異が大きいので、四零九六で保持している麹菌と酵母を喪失すると、再生するには野生の猪を飼いならして品種改良を繰り返して黒豚種をつくるぐらいの運の良さと手間と期間がかかるから、四零九六が色々な地域に多数分散して菌株の保全と提供のディザスタリカバリ体制が確立するまでは余計なリスクは背負えないと。
「まあ、どうしてもと言うなら奈緒美が言うように食べたりした後は縁切りして三昼夜待機するしかない」
「そこまでして食べたいとは思わないけど」
「よし、じゃあ、献立は義教に一任として、美野里、今日の狙い目は?」
「括り罠の点検して……あとは鳥いってみよう」
「分かった。準備して出発!」
「おー!」
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ムィウェカパの若衆を預かって十日余り経つがまだまだ暑い日が続いている。
熱中症が心配なので若衆には経口保水液を詰めた竹水筒を毎朝渡している。
そんな炎天下に滝汗流しながら穴を掘っている。
滝野の塁内で用途としては家庭菜園かなって場所を掘っているが、夏野菜を植えようと開墾しているわけではない。
話は変わるが、人間に限らないが食ったら出す。
どれぐらい出すかというと、都市計画で必要な処理能力を割り出すのに使うのが、糞尿合わせて一人一日あたり一キログラムで、生物化学的酸素要求量の合計は十三グラム。現代日本では平均して分解するのに十三グラムの酸素を消費する排泄物を毎日出しているという事。
排泄物が一キログラムというのは現代日本の食習慣からでているもので、実は排泄物の量と食物繊維の摂取量は比例関係がある。
第二次大戦中に米軍が排泄物の量から日本軍の兵数を割り出したのだが、食物繊維が多い植物食が基本の日本兵は肉食中心の米兵の二倍以上の量を排泄していたので、推測した兵数は実数の二倍以上になっていたという話がある。
現代日本は当時の半分の二〇〇グラムぐらいしか大便をしないので排泄量は一キログラムですんでいるが、食物繊維の摂取量が増えると必要とする人口あたりの処理能力は増える。
何が言いたいかと言うと、植物食が多い現地の人達はたくさん出す。
滝野は例会の時だけ人がいる特異な場所なので、便所は穴掘って埋める方式にしていた。
そしてムィウェカパに備えて余裕を持った大きさの穴を掘ったと思っていたのだが、この間の推移をみるに、このままだとキャパオーバーしてしまうことが判明した。
一人あたりの量がそもそも多いのに加えて、食う量が平均を超えている育ち盛り食べ盛り大集合なんだから出す量も平均を軽く超えていくのは自明の理。
はい。私の設計ミス・計算ミスです。
と、いう理由で排泄物処理用の穴掘ってます。