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文明の濫觴  作者: 烏木
第8章 紡ぎ織る
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第13話 衣装

染色の工程では悪臭や刺激臭などの異臭が生じることがままあるので繊維工房は集落の外れに建ててある。

柿渋は青い柿の実を発酵させて作るが嘔吐(えず)くぐらい強烈な悪臭を放つし、藍も発酵させて建てる手法があるし、貝紫造りの悪臭は有栖ちゃんが近寄らないという実績もある。

発酵させない染料でも酢酸や塩素酸などの刺激臭を放つ薬品を使うことも多い。

中には劇薬を使う工程もあり、それらの工程を行う施設は集落から離れた場所に建てた。


設計・施工はカケさんラトさん親子で、俺と匠はあくまで監修と後見。

小屋レベルだし道具や釘などは美浦産(佐智恵謹製)ではあるが、自分たちで建てられるようになったのは意義深い。


工房の玄関に吊り下げられているカンカン(いし)の石板を撞木(しゅもく)で叩く。カンカン石というのは叩くと澄んだ金属音を発する安山岩の一種で、板状に割ってドアノッカーに使っている。


カンカン鳴るからカンカン石と俗称されるが、正式にはサヌカイト(讃岐岩(さぬきがん))といい、瀬戸内を中心に東海や関西から九州北部にかけて分布している岩石。もっとも量が採れる地域は多くなく、質と量を伴っているのは香川県坂出市近辺ぐらいで名前の由来になっている。


サヌカイトやその仲間は、硬くて鋭利に割れることから石器の材料として先土器時代から使われていて、包丁、鏃、槍の穂先にも加工できる。

しかし俺らからすると鉄の方が使いやすいので、強いて石器として使うとしたら破片を(やじり)に使うぐらい。

なので、楽器や呼び鈴といった叩いて音を出す用途に使っている。


応答があったので中に入るとムィウェカパに参加する女衆のマイさんとライさんの二人が待っていた。


「オトケレル。ちゃんとできましたか?」

「オトケレル。できている 思う」

「では、見せてください」

「はい」

「ノリ兄ちゃんは、茜の根の裁断具合を見ておいてください」

「みじん切りでしたね」

「そうです。よろしくね」


今日は静江講師による第三回染物教室の日。

工房の中には水平にピンと張られた布が三つあり、一部が藍色や黄色に染められている。

氏族記号は藍色に染められていて、他にも藍色と黄色で柄とかアクセントという感じに染められている部分も多いが無地というかまだ染めていない部分もそれなりにある。


薄い青っぽい水性塗料(青い露草の花の汁らしい)で下絵を描いて、その線をデンプン糊でなぞって染料が滲まないようにするのが第一回。

筆で染料を柄の中を塗って色付けし、乾かした後に染料を定着させるのが第二回。

全部の柄を染め終わったら柄の部分もデンプン糊でマスキングして刷毛で染料を生地全体に塗って地の色を染め上げる地染めとか引き染めと言われる工程が今回の第三回。

染料を定着させてから水でデンプン糊を落としてやれば下絵の水性塗料も落ちるので染め上げられた反物ができあがる。


うん。これ一着百万円超えの“手描き友禅”の技法。

もっとも素材が絹ではないので現代日本に持っていってもそんな値段にはならないだろうけど、手間隙が掛かっているのは間違いない。

素材にもよるが一着百万円以下の友禅は模様を彫った柿渋紙の型紙を使って合成染料の色糊を使う“型友禅”が多くなり、数万円以下になるとインクジェットプリンターで印刷した物になる。


ちゃんとできたかと聞いたのは生地を染める茜染料の準備とマスキングが終わったかという問い。


刻まれた茜の根をざっと見て粗そうな物をピックアップする。

染料の抽出量は表面積に比例するのでできるだけ細かい方が効率が良い。


「ノリ兄ちゃん、どんな塩梅?」

「大体は大丈夫ですけど、粗そうなのはよっこしてます」

「そうねぇ……じゃあお二人さん、跳ねられたのを刻んでください」

「はい」



刻みなおしも終わった茜の根はお酢と(もろみ)が入った陶製の鍋に入れられて火にかけられている。

日本酒の醪(どぶろく)はこの時季には無い筈なんだけど、静江さんの要請で奈緒美が醸したそうだ。お疲れさん。


水に溶ける物質だと洗濯するたびに色落ちして染料にならないから(ターメリックなど一部例外はあるけど)染料は水に溶けにくい。

だから多くの場合、水に溶けるよう化学変化させて染めてから不溶化するよう化学変化させたり、生地を別の薬品で処理しておいて染料と化合させるとか、水以外の物質――例えばアルコールなど――を媒介させて染めるなどの手法が採られる。

それは茜も例外でなく、茜の色素成分も水に溶けにくい物質なので酢や醪を加えて色素を抽出しやすくするのだという。


静江さん曰く

“水だけで抽出すると褐色というか赤系の暗い色にしか染められません。まあ、染まるだけマシですけど”

“ペーハーが低い方が色素の抽出率がいいのでお酢を入れます”

“醪を入れるのは本当はアルコール抽出だと思うんですけど、他の有機酸や糖や酵素とかの成分との相互作用も捨てきれないのでお手本どおり醪を使います”


静江さんって水素イオン指数のpH(ピーエイチ)を独語読みのペーハーと言う世代だったんですね。というか、豪く化学に明るいじゃないですか。

そう問うと“初めに覚えたのがペーハーだったからで、そういうとよく笑われた”、“好きこそ物の上手なれ、門前の小僧習わぬ経を読むですよ。サチ姉ちゃんみたいに自分では作れないですし”だと。


ゆっくり加熱され、黄色から赤を経て黒っぽく変わっていく鍋の中の液体。

そして立ち込める酢酸と酒精と後何とも言いがたい臭い。


「こんな感じに赤い泡が出てきたらOKです。分かりましたか?」

「はい」

「火からおろして冷まします」

「はい」


冷めたら茜の根や醪の固形分を濃し取り、茜染料が完成する。


■■■


「そう言えば帯はどうするんですか?」


今日の教室が終わってカムサキに引き上げた後で気になっていた事を静江さんに聞いた。


「羽織ですから帯は要りません。紐ぐらいなら付けてもいいですけど」

「えっ? 羽織? 着物じゃないんですか?」

「和装という意味では羽織も和装ですが、ノリ兄ちゃんの言う着物ってたぶん長着(ながぎ)の事だと思うので、そういう意味では着物ではないですね」

「ナガギが何かがよく分かんないんですけど、漠然と振袖と思ってたんで」


手描き友禅の未婚女性の衣装といったら振袖と思うのは俺だけではない筈。


「長着というのは足首ぐらいまである長い和服の事ですので振袖も長着の一種です。一般的に着物と呼ばれている物とほぼ同義と思ってもらって結構です」

「長い着物だから長着ですか。じゃあ、短い短着もあるんですか?」

「ええあります。半着という事の方が多いですけど、馬乗袴などのズボン状の袴を穿くときは長着だとかなりおはしょりしないといけないので腰回りがもっさりします。なので膝ぐらいまでの半着にする事もあります」

「分かりました。話を戻して、羽織って男物って気がするんですがいいんですか? 女の人で振袖に袴は卒業式とかで見ますけど羽織を羽織っているのは見ないんですけど」

「そうですね。紋付羽織袴は男の正装で女の正装は留袖や振袖で羽織は使いません。羽織は戦国武将の陣羽織の発展形で元々は男物なのでノリ兄ちゃんの印象はあながち間違いではないです。しかし、江戸時代に辰巳芸者が男装的な感じで着だしたのが広まって、明治以降は女性の羽織は変ではありません」

「そういうものですか」

「そういうものです。洋装だとスラックスは男性の正装にも使われるある意味では男物です。そして女性の正装はワンピースやドレスやスカートでスラックスの正装はありませんが、スラックスを着用している女性は別に変ってるわけじゃないでしょ?」

「そりゃ多少は活動的な印象は受けますが別に変じゃないですね」

「でしょう? だから問題ないのです。現実的な事を言うと振袖は絹で作りますがオリノコで作れるのは麻ですので素材の時点で外れています。仮に麻製だとしても振袖だと襦袢に帯にと色々必要になりますからそれだけの糸や布を揃えるのはきついですから」


たぶん、素材を麻か木綿にして美浦の生産力ならなんとかなるかもしれないけど、それをオリノコでは言われるとおり厳しい。ちなみに葛布(かっぷ)は広義の麻布なのでオリノコで作れるのは麻だけというのは間違いではない。


「ここには和装警察はいませんからもっと自由でいいんです」

「和装警察ですか?」

「格とか、柄とか、組み合わせとか、着方とか、所作やマナーを口煩く言ってきたり顔を顰めたりする人達の事です」

「言わんとする事は分からなくもないですが」

「ノリ兄ちゃんね、初めて入った飲み屋で常連客がどこにどう居ろとかどの順に杯を持てとかその持ち方や何回で飲むとかごちゃごちゃ言われたら、また来たいと思いますか?」

「いやいや、二度と来るかって帰りますよ」

「だから和装でそういう野暮な事を言うのは和装への門戸を閉ざしているのと同じなのです」

「野暮ですか? でも言っている事は間違いではないんですよね?」

「そうなら良いんですけど……先ほどの例ですが、もしそれが婚礼の三々九度だったら、どこにどういてどの順に杯を使ってどのように飲むと言われて不快に思いますか?」

「それは逆に言ってもらわないと困ります」

「ですよね? 冠婚葬祭の儀式なら色々な仕来りや作法があって然るべきですし、それを若い人に教えるのは良い事とも言えます。ですが、普段の飲み屋で三々九度と同じ作法をしろっていうのは……ね?」

「…………」

「そもそも庶民の日常の普段着に細かく厳密なルールやマナーは存在しません。強いて言えば周りに大きな不快を抱かせなければそれでよいのです。その周りというのは狭い和装愛好家の世界ではなく、世間一般の事を指します。もしそれが洋装なら若者の奇抜な衣装に対して年寄りが“はしたない”とか言ったら“流行のファッションも知らないなんて終わってる”って返されるのが落ちなのに、和装だとそれが許されると勘違いしているんですよ。カジュアルな日常にフォーマルの作法を持ち出して馬鹿じゃないのって。ハレの日にはハレの日の振る舞いが、ケの日にはケの日の振る舞いがあります。趣味のコスプレで仲間内のローカルルールで縛りプレーをするのは勝手ですけど、他人にとやかく言うのはおかしいのです」

「め、珍しく、凄い毒吐きますね」


高級路線に舵を切り普段着を洋装に明け渡してハレの日の晴れ着に注力した結果、和装は特別な装いになり大多数の人間にとって着る必要が全く無いものになってしまった。洋装なら十万円も出せばたいていの冠婚葬祭で問題ない略礼服が買えるので、態々何百万円も出して和服を買う理由はどこにもない。


購入者が少ないから一点あたりの利鞘を大きくする必要がありどんどん高級品に注力していき、それが更なる購入者の減少を招き高価格化・購入者減に拍車がかかる。


流通は食べていけないので、原価を抑えるために原料も製造も海外製にして国内産業を切り、純日本製の品は少数しか作られなくなり常軌を逸した値段になった。

呉服屋には価格だけ高い外国製の工業製品と下手すれば家が買える値段の文化財かと勘違いしそうな日本製の反物や着物が並び、普段着扱いである筈の小紋や紬が何十万円というのも珍しくなくなって久しい。


また、購入者が少ないというのは着方を知っている人も少なくなるという事。

百年前は言い過ぎかもしれないが、多くの人が日常的に和服を着用していた頃の子供は和服の着方なんか自然に覚えるものだったのに、今や着付け教室でお金を払って覚えるものになってしまっている。


色々な意味で、和装できる人は特別な人になっていて、和装自体も基本的に晴れ着しか残っていないし、本来的には和装で普段着とされる物も洋装の礼服より高価で実質的には普段着にはならず、和装での作法は全てハレの日の作法になっていてケの日の作法なんて絶滅寸前か野生絶滅状態。


もはや和装は文化ではなく趣味の世界に限りなく近付いている。

静江さんの目線での見方をまとめるとそういう事らしい。


「和装はお寿司と違い、道を誤ったと思っています」

「へ? お寿司ですか?」

「お寿司も高級路線を選びましたが、手軽に買える安価な持ち帰り寿司やスーパーのお寿司。気軽に寄れる回転寿司。少し気合を入れたらいけるお寿司屋さん。そして庶民ではそうそう手が出ない超高級なお寿司屋さん。このように選択肢がたくさんあります」

「はあ」

「時に背伸びして高級なお寿司を食べようと思えるのは、気軽に食べられるお寿司があるからだと思います。高級路線を選んだお寿司ですが、庶民が気軽に味わえる場は切り捨てませんでした」

「和装には普段でも気軽にが無いと?」

「一万円以下で買える和服なら普段使いもできるかもしれませんが、そういう値段の物だと食べていけない産業構造になってしまいました。買うとなると入門編の外国製の安物で数万円から数十万円。ちょっと良い品で百万円超え、改まった席で見劣りしないとなると数百万円。一級品だと青天井。気軽に試したり安易にお勧めするのは躊躇います」

「普通の人は特別な時にレンタルするぐらいしか、という事ですか?」

「そうです。それも値の張る女物が多くを占めます。もはや何でもない時に気軽に着れる着物はないのです。実に嘆かわしい」

「えっと……これから望ましい文化を創造していきましょう」


美浦にはゾーンに入ると手がつけられない人しか居ないのか?


すみません。

また間隔が空きます。

出張ががが……

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