第12話 オリノコ改造論
終末処理場と下水道ができれば便所が近代化される。シャワー付きはさすがに無理だが水洗トイレには手が届く。
黒岩さんたちには長いこと不便をかけているし毎日の事だから早めに何とかしてあげたいと思っていたのだが、黒岩さんから疑義が呈された。
「東雲ちゃんよぉ、下水処理場ってこの規模で要るのか? それに昔は肥溜めで発酵させて肥料にしてたんだろ? ぼっとん便所から汲んで畑に撒いてたとか聞くし、都市化してないなら他優先でいいんじゃないか?」
「直撒きは肥料にならないし感染症とか寄生虫が怖いんで絶対やらないでください。かつて八割ぐらいあった蟯虫や回虫の罹患率が一パーセント未満になったのは下水道整備して下肥をやめたなどの衛生対策の賜物です」
寄生虫の罹患率は昭和二十年代で七~八割と高く、昭和三十年代でも半数以上は罹患していて、親世代はともかく祖父母世代より上は罹患していない人の方が珍しいぐらいで国民病の一つに数えられていた。
しかし下水整備が進み下肥をほとんど使わなくなった昭和五十年代には罹患率が一桁パーセントと劇的に改善している。
「直撒きがヤバイのは何となく分かる。でも発酵させればいいんだろ?」
「病原菌や寄生虫の卵が死滅する温度になるまで発酵熱を得るのはかなり困難ですし、そもそも下肥はあんまり良い肥料じゃないので」
「そうなの?」
「本当に有用なら原価ゼロ円の肥料が廃れると思います?」
江戸時代は“店中の尻で大家は餅をつき”という川柳があるように、長屋の大家は長屋の厠の糞尿を農家に売って副収入にしていた。実際は現金よりも野菜などとの物々交換が多かったらしいがそれでも利益は得ていた。
つまり江戸時代の糞尿は利益を得られる商品でもあったわけだが、下肥が使われない現代では汲み取り料金や下水道代という処分に費用がかかる廃棄物でしかない。
だから集める気さえあれば現代日本でも原価は限りなくゼロ円に近くても集められる筈だが下肥はほぼ使われていない。
廃れた要因に嫌悪感とか衛生面や環境問題があるのは間違い無いが、農家から見て他の肥料の方が安全で使いやすく効果的だという事もある。
下肥は何を食べたかで成分構成が結構変わるし、肉食していると結構厄介な成分を多く含むのでかなり面倒な肥料だと奈緒美と親父殿が口を揃えて言っていた。
家畜や家禽の糞尿は何を食べさせるかを管理できるので現代でも使用されているけど、人間相手に食餌管理なんてできないから(終末処理場で有効成分を抽出して化学肥料の原料とする事が無い訳ではないが)通常は使われない。
奈緒美は理論的に知っていたが、親父殿は理論的にはもちろん、実践的、経験的にも知っていた。ギリギリ使っていた世代だそうだ。
「それは……化学肥料とかがあるからやろ? 現状なら有用なんじゃ?」
「有用性が全く無いのかと言われるとアレですが……」
排泄物から食物や富を生み出す神を殺してその遺体から作物が生まれたという食物起源神話があり、東南アジアやオセアニア、南北アメリカなどによくみられハイヌウェレ型神話ともいわれている。
日本神話にも大気都比売神や保食神など類似の神話がある。
遺体はともかく排泄物というのは糞尿が肥料として有用だったからじゃないかと個人的には思っている。
鳥獣の糞から芽を出す植物の存在――食べられる事を前提として食べられても大丈夫な種や、動物散布型の種子散布をするので食べてもらえるよう美味しい実をつける植物は多い――もあるのかもしれないが、ハイヌウェレ型神話がある地域は芋類が主食の地域が多いことを思うと……
“神を殺して埋めたら芋になった”は分かるが、神殺しの動機が“食物を排泄物から生み出したから”というものが多い。別の動機でもいい筈なのに態々そうしているんだから排泄物に着目すべきだと思う。下肥を導入したいが嫌悪感を排除するには……と考えてそういう神話を作った可能性を思ってしまう。
「でもね、黒岩さん。鶏糞に魚粉、堆肥とあるのですから好き好んで使いたいわけじゃなく、衛生面での問題がある物ですから……」
「まあ、確かにそうやけど、なんつうか……もったいない気がすんや」
「佐智恵が下水からリン分を回収してリン酸肥料化を計画してますんで」
リン酸肥料は花肥や実肥とも呼ばれ、リン分が不足すると開花や結実に悪影響があり、果樹はもちろんのこと米、小麦、トウモロコシといった穀類にも非常に重要な肥料である。美浦では骨の主成分である水酸化リン酸カルシウムをリン分源とする骨粉や魚粉で賄っている。
このリン分なのだが、肥料として優秀という事は植物にとっては栄養分という事。
大量にたれ流すと河川や湖沼や海洋の富栄養化を招き、植物プランクトンの大量発生による赤潮を招くなど水質汚濁を引き起こす原因物質となる。
なので、リン分は窒素分(硝酸塩、亜硝酸塩、アンモニウム塩など)とともに法令で基準が設けられており終末処理場でのリン分の除去は重要な処理の一つになっている。
一方で、リン酸肥料の原料のリン鉱石は枯渇気味の資源で、現在のままの推移だと二十一世紀半ばには全世界的で深刻な資源不足が危惧される希少資源とも言える。日本では埋蔵量に乏しいし肥料に使えるコストでは採れないのでほぼ全量を輸入している。
そこで下水から除去したリン分を集めてリン酸肥料の原料にする手法も研究されていて一部は実用化されている。
秋川家や奈緒美や佐智恵が言うには、下水や汚泥に塩酸やら水酸化ナトリウムやら塩化カルシウムやら色々反応させ、最終的にアパタイト(リン酸塩)の結晶の形でリン酸成分を得る方法は複数あって、方法によってはリン分の回収率は九九.九パーセントとも言われているとの事。
塩酸と苛性ソーダは塩化ナトリウムの電気分解を起点に、塩カルはソルベー法で得られるので、下水からリン分を抽出するのはやろうと思えばやれると佐智恵が言っていた。
佐智恵はできない事をできるとは絶対言わないので佐智恵ができると言う以上はできる。できないと明言した事は梃子でも動かんけど……
もっともリン分が汚泥に濃縮してから回収するので何年か後になるとは言っていたけど。
「いやね、どうしても使いたいって訳じゃなくて、使い道が無い訳やないんやから優先順位落としてええ思うんやわ」
「衛生面の優先順位は結構高いっす。食糧と水の確保、雨風寒暖が凌げる寝床の次ぐらいには」
「その割には漆原さんとこの施設が先に建つけど」
黒岩さんが言っている施設というのは漆原剛史さんが主導している登り窯と漆原静江さん肝煎りの繊維工房の事。
繊維工房は一部完成していて稼働中で、登り窯は基礎工事が終わって材料の耐火レンガの搬入中で、そろそろ最後の耐火レンガ群がやってくる。
「……そう言われるとぐうとしか言えませんが、趣味人に言っても無駄ですし、女帝に逆らえます?」
「……せやな。けど、女帝って……言い付けるぞ」
「同意したんだから同罪っすよ?」
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オリノコの船着場から登り窯建築地に向けて耐火レンガを積んだ大八車が進んでいる。
大八車は江戸時代から戦前戦中ごろまで広く一般に使われてきた実戦証明がある荷役装置で、八人分の荷物を運べるから大八車という説があるぐらい有用で、現代ではリヤカーに取って代わられているけれど日本の人力・畜力での陸上輸送を支えてきた。
本当は大八車よりリヤカーの方がいいのだが、大八車の方が簡単に作れるのでオリノコでは取り敢えず大八車を作らせて使っている。
リヤカーと大八車の最大の違いは貫通している車軸の有無。
リヤカーは貫通していないが大八車は車軸が貫通しているから車軸の上にしか荷台をのせられないので車輪の半径より低い位置に荷台を据えることはできず、必然的に高重心になる。
車輪が小さければ大八車でも低重心にできるが、碌な軸受けがないので車輪の大きさと抵抗の大きさは反比例するので車輪が大きい方が楽に引けるためあまり小さくはできない。
対してリヤカーは任意の高さに荷台を作る事ができるため大八車より低重心で安定する。
大八車がリヤカーに取って代わられたのはある意味では必然ではあるが、リヤカーは大八車より車体強度が必要なので鉄パイプなどの比強度が高い部材が大量安価に入手できることと、それなりの加工精度が要求される。
だから現状では元々持っていた物と自転車のタイヤや車体を流用して作った数台が限界。
「ほんじゃ、いっちょ組んでくるわ」
「お気をつけて」
ワクワク顔の剛史さんが最後の大八車に続いて築炉現場に向かっていく。
これまで運び込んでいた分と合わせて今回搬入した耐火レンガ・耐火断熱レンガで予定している登り窯が造れるので、一気呵成に築き上げると意気込んでおられますが、さすがに一日じゃ無理でしょう。泊り込みになるんですから無理だけはしないでください。
「そんじゃ、俺らも」
「頼むわ」
「では、ノリ兄ちゃん。参りましょうか」
「はい」
荷揚げが終わったので、匠は橋の算段に、文昭は棒術講師に、俺は静江さんの助手として繊維工房に向う。
繊維工房は最終的には紡績、機織、染色ができる施設を予定していて当面急ぐ染色工程の部分は完成している。
オリノコには麻布も葛布もあるが、染色も漂白もされていない。
ムィウェカパには綺麗に染めた服で送り出してやりたいがそれが美浦の産物というのはよろしくなく自分たちで作る事が大事という静江さんの鶴の一声で染色するための施設が建てられた。
田畑を切り拓き食糧を確保し、登り窯と繊維工房を建築して殖産興業、道路や橋梁などの交通インフラを整備する。今後のオリノコの礎を築く差し詰めオリノコ改造論といったところか。