第10話 パープル
「また四間飛車っすか」
「儂の世代は四間飛車全盛やったからな。本もいっぱいあったで。そういうノリ兄ちゃんは居飛車党かい」
「特に居飛車党という訳では……敢えて言えば持久戦派ですね。周りが急戦派ばっかだったので自然と」
「儂はどっちかゆうたら攻め将棋やから……さあ受け切ってみい」
雨が降ってるので今日は野良仕事も工事もなしで将棋を指している。
七寸盤を挟んで上座に源次郎さんが座っているが、本来的には四間飛車という戦法は相手に攻めさせて攻めを切らせて勝つ守備的な戦法なんだけど、その守備的な戦法なのに積極的に攻めてくる変態将棋を指されるので、普通の四間飛車対策が役に立たないので困っている。
序盤は五分五分で中盤はやや優位だと思ったのだが、終盤になって源次郎さんの怒涛の寄せを何とか凌いでいる状況に持っていかれた。
「これでどうや」
そう言って源次郎さんが香車を打つ。くっ、そこは……
王手ではないが次の手番で詰められる所謂“詰めろ”の状態。
そうなると詰まされないよう守備するのが常道なのだが、上手い受けが見当たらない受け無しなので、こうなったら連続王手で詰めろを解除するか相手を詰まさないと負けになる。
「負けました」
形作りに記念王手をしてから駒台に右手を置いて一礼する。
将棋で自らの負けを宣言するのを“投了”というのだが、これは元々は持ち駒を盤上に投げていたから投了なんじゃないかって思っている。その名残で駒台に手を置く作法があるんじゃないかって。別にそうしなければならないルールがある訳ではなく、あくまで“そういう作法がある”ってだけだけど。
「ありがとうございました」
武道もそうだが将棋も礼に始まり礼に終わる。
「そんでな、静江が紫の染料をご所望なんよ」
感想戦の後で源次郎さんが今回の“お願い”を口にする。
何も賭けずにする将棋は面白くないので、勝ったら“ちょっとしたお願い”ができるという事になっている。
源次郎さんはアマ三段を持っているそうなので、プロ棋士の養成機関である奨励会(新進棋士奨励会)の六級ぐらいの棋力がある。
プロ棋士の先生が探していた七寸盤の天地柾が取れる日向榧の材を譲ったお礼の名誉段位で実際にはそこまでの棋力は無いと言っているがとてもそうは思えない。
対して俺はいってアマ初段ぐらいだから本来的には香落ちか角落ちが手合い(良い勝負になるハンディキャップ)なので、平手での俺の勝率は二割五分ぐらい。
見栄張りました。二割あるかないかです。
一発勝負ならともかく番勝負(何局か指して勝ち越した方が勝ち。例えば五番勝負なら先に三勝した方が勝ち)では勝てません。
だから、美浦全体の課題にするほど大袈裟なものじゃないけどやりたい事や欲しい物があるって場合に使う非公式ルートみたいになっている。
あくまで“お願い”なので駄目なら駄目で断ってもいいのだが、これまでにそんなお願いは一度もなかったが……今回は中々に厳しい。
「紫ですか? 他の色では駄目ですか?」
今現在のところ美浦で布に使える色は、無漂白の生成、晒し粉で漂白した白、それから茜・藍・柿渋あたり。そんなに多くないし、くっきりした色となると藍染ぐらいかな? 増やしたいって気持ちも分からなくもないが……紫色はきつい。
ターメリックの使用量を減らしたレシピを開発してウコン染めならまだなんとかなるような気がする。
「紫をご指名や」
「ええっと……紫根の収穫は晩秋ですから今の時季には……」
「そない聞いとる。でな、しーちゃんが言うには貝紫とかいうのがあって」
「えっ? そっちっすか」
「知っとるん?」
「一応は……巻貝のパープル腺とも言われる鰓下腺という部分を集めて染めるんですが、一個から僅かしか採れないので大量の貝が必要でして……聞いた話だとシャツ一枚染めるのに五千個ぐらいはいるとかなんとか」
量が採れないことと欧州では製法が秘匿されていたので貝紫染めした糸や布は大変高価で古代ローマでは貝紫で二度染めした羊毛は同じ重さの黄金と交換されていたとか。
欧州ではフェニキアのティルスが名産地だったためティリアンパープル(チリアンパープル)と呼ばれる貝紫色だが、カエサルやアレキサンダー大王が愛用し英語でロイヤルパープル――帝王紫――と言われる事から分かるように古代から権力を象徴する色であった。
直接は関係ないが日本でも冠位十二階の最上位の冠位の色は紫。
もっとも、日本では植物のムラサキの根で染める紫根染めの紫と規定されたので、貝紫は海女さんが頭巾に魔除けの印を染めるのに使われていた程度らしい。
そうはいっても貝紫色は大変美しく国際的にも高貴な色とされているので、貝紫染めのショールが皇室に献上された事があると聞いた事がある。
「さすが物知り館主のノリ兄ちゃんやな。しーちゃんとユヅ姉ちゃんが話しとってな、儂も貝殻と貝の身と染料の一石三鳥社やし、ええ思て」
一石三鳥は分からなくもないが、作業を押し付けられる身としては……とは言え、静江さんと雪月花が謀議しているなら抵抗は無意味だな。
「前向きに検討しますが、量とか時期は静江さんと相談でいいですか?」
「量は分かるけど時期って?」
「貝紫は採って直ぐに染めないと駄目なので」
パープル腺の分泌物(黄色い粉を含んだ粘ちょう物)で糸や布を染めて日光(実際に作用しているのは紫外線らしい)に当てて発色させると青っぽい色を経由して紫色になるのだが、これは空気に触れたり紫外線を受けたりして分泌物中の色素が化学変化して発色すると同時に水に不溶になるという原理で染めている。
パープル腺の分泌物を取り出して時間が経ってしまうと染める前に化学変化が起きてしまい染料として使えなくなる。
だから染める直前に染料を取り出さないといけないのだが、死んだ貝や活きが悪い貝は染め成分がパープル腺から漏出して化学変化してしまっているので染める時に活きの良い貝が大量に必要になる。
「しーちゃんは染料は保存できるゆうとったで? せやから秋までにちょっとずつ集めてとか」
「……日持ちするとは聞いた事がないですけど、そこらも含めて静江さんと相談という事で」
「よろしゅう頼むわ。お陰でやっと肩の荷下りたわ」
源次郎さんも静江さんには逆らえないからな。
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「イボニシは里川河口や西潟の潮間帯に幾らでもいる。牡蠣礁が一部食害を受けているから間引き駆除推奨」
「アカニシなら黒浜や弓浜にいますよ。打ち上げられたアカニシの卵塊が干からびてるの見たことありますし」
「パープル腺が目的ならアカニシを推奨。足りなければイボニシ」
「アサリ、ハマグリの保護を兼ねてアカニシを集中的に狙ってみますよ」
海産物という事で相談した安藤一平くん、由希さんのお二人がそんな事を言っていたけど、だからといって毎日々々三桁近い数を獲ってこなくてもいいと思うんだ。絶滅したらどうすんのよ。
「産卵前の今の時季がパープル腺の極大期。資源保護にも気を配っている。問題ない」
そうですか由希さん。でもアカニシガイの産卵期とかパープル腺の極大期とかよく知ってますね。
え? 俺が貸したブックリーダーの中にあった図鑑に書いてあった? そうなの?
毎日々々処理したお陰でアカニシガイのパープル腺がある場所を一発で叩き割れるようになりましたし、貝紫を取り出して身を茹でて貝殻を集める一連の作業にすっかり慣れてしまいました。
授業が終わった午後から前日に納品されたアカニシガイを解体して集めた貝紫を日光浴させる。表面が紫色に染まったら掻き混ぜて満遍なく紫色になるまで日光浴を続けたら第一段階は終了で、次は紫色の粘液を乾燥させて粉末状にするというのが静江さんに指定された作業。
でもね。分かって欲しいんだけど、パープル腺って要するに巻貝の内臓の一部なわけよ。だから腐臭が凄いの。大変なの。なのに(だから?)風呂は一番最後の残り湯。作業が終わったら里帰川でしっかり洗ってるけど風呂から上がるまでは有栖ちゃんも近付いてこないしちょっと涙目。
飯はその後になるし、そうすると有栖ちゃんがまとわりついてくる。
その他にもね、パープル腺って約めて言えば外敵や獲物に対しての武器なので要は毒腺みたいなもの。なのでその中身ってすっげー苦いの。パープル腺を取り除いてから売る業者もいるぐらい。
少量ならアクセントとしてそのままにして苦味を味わう事もあるけど、それは貝の身の極一部だからであって、単体で口に入ったら悶絶する苦さ。
何で分かるかというと事故で分泌物がついた指を口に含んでしまったから。
辛かった。からかったじゃなくてつらかった。
◇
乾燥させた紫色の粉末にしておくと日持ちするというのは、発色と不溶化の化学反応が終わった物質は繊維中にあれば染色済みなので少々の事では変化しないという事からもよく分かる。それは分かるのだが、重要な反応が終わってしまった物を保存しても……という思いがあるのは否定しない。
「ノリ兄ちゃん、不安なまま作業するのもしんどいでしょうからちょっと実演しましょうか」
「実演? ですか?」
「そう。サチ姉ちゃんが必要な試薬を用意してくれたからね。乾燥貝紫を二グラム用意してください」
乾燥させて粉末状にした貝紫を上皿天秤で測っていると佐智恵が瓶を持ってやってきた。
貝紫を雪平鍋に入れるよう言われたので測り終わった貝紫を入れると佐智恵が瓶から液体を注ぐ。瓶に入れている時点で劇薬系なのは分かる。
食塩の電気分解で得た苛性ソーダ(水酸化ナトリウム)だそうだ。
場所を謎工房に移して湯煎しながら何やら別の粉末を入れる佐智恵。
湯煎しつつ掻き混ぜていると雪平鍋の中身が紫色から黄色に変わっていく。
「建染って言えばノリ兄ちゃんは分かる?」
「藍染の手法の一つにそういうのがあったような覚えがあります。確かインディゴを尿素などで還元して水に溶けるようにして、糸や布を染めてから酸化させるんでしたっけ」
「そう。水に溶けない染料を水に溶けるように建ててから染めるから建染。でね、実は貝紫の紫の色素の化学式は藍染のインジゴの親戚みたいな構造なので還元してロイコ体だったかな? 水に溶けるように建ててから染めて、空気中で酸化させると染められるの」
「温アルカリ水溶液中で還元剤を入れればロイコ体を作れるのは実証されていると言われて用意した」
「前に染めた時は苛性ソーダとハイドロ使ってたわ」
「ハイドロ?」
ハイドロって水素とか水の事だろ?
「亜ジチオン酸ナトリウム。英語表記のハイドロサルファイトナトリウムの略称でハイドロ。ハイドロから始まる還元系漂白剤」
「ああ、あの色柄物ご遠慮くださいの」
「実際にはハイドロサルファイトナトリウムじゃないけど似たような物質が入っている。ハイドロは用意できなかったけど、還元剤ということでチオ硫酸ソーダを用意した。今回は既製品だけど再生産はできる。使い切るのにかなりかかる筈だけど」
「それ、カルキ抜きじゃ?」
「塩素の酸化力を奪うんだから還元剤」
「なる」
「ちゃんと建ったことだし、ちゃっちゃと染めちゃいましょう」
そういって結構な数の糸を雪平鍋に入れて掻き混ぜる静江さん。
黄色……つまりパープル腺から取り出した時の色に近い感じになっているから建ったという事か。
染める糸はメートル番手で二五番手の木綿糸が六〇本だそうだが……番手と言われても重さと長さの関係で決まるので番手が大きいほど細いというのは分かるけど色々な種類の番手があるので良く分からない。
「この糸を六本一組で緩く縒ったら一般的な刺繍糸になるの。六〇本あるから十本ね」
十日以上かかって解体した千個余りのアカニシガイから採った貝紫の少なくない割合を使って染めれるのが刺繍糸が僅かに十本。
イボニシガイだったら二万個ぐらい? もしも服一着分をイボニシガイでとかなったらこの近辺のイボニシガイが軽く絶滅すると思う。
「さて、干してしまいましょう。染め液は次使うときに継ぎ足せますからできればこのままとっておいて欲しいんですが」
「承りました」
あの聞かん坊の佐智恵が無条件承諾とは……美浦の真の支配者は静江さんだと思う。
「なかなか良い感じに発色してますね」
「ぬるま湯で苛性ソーダを落としてもう一度干して、できればもう一度染めたいけど、大丈夫?」
「資源保護もありますから直ぐには」
「分かりました。そうそう、ノリ兄ちゃん。ムイなんだっけ、あれに参加するオリノコの子たちの刺青の図って分かる?」
「本来なら入れる筈の形という事ですか?」
「そうそう」
「今度集めておきます」
「よろしくね。それとみんなの家紋が分かるならそれも」




