第9話 橋
「義教、いくぞ」
「ばっちこい」
対岸にいる文昭が紐を括り付けたボールをこっちに投げる。
ボールに括り付けられている紐を手繰り寄せて紐を対岸との間に張ると向こう側が紐にロープを結ぶので更に紐を手繰ってロープを川に渡し、次はロープにワイヤーを固定して渡してこちら側の岩に設置した固定具と接続する。
「こっちは固定した」
「巻き取るぞ!」
「OK!」
こうやって渡したワイヤーロープをガイドに橋桁を渡して仮設橋を据え付ける。
「仮設橋はこんなもんかな?」
「板を渡しただけに見えるが、こんな物で大丈夫か?」
「大丈夫だ、問題ない」
仮設橋の見た目は川に梯子を渡して板を敷いただけの欄干も何も無い幅二メートルの板が渡っているだけという簡単な物。
登山道とかにある丸太を並べて渡しただけの丸太橋ほどではないが、美浦の里川に架けている橋に比べると結構な手抜きに見えなくもないから将司の心配は分からなくもない。
しかし、強度は十分にあるし、横幅も畳の長辺より長いから言うほと危なっかしくはない。(安全とは言っていない)
「増水したら簡単に流されそうなんだが」
「流されたら流されたで架け直せばいい」
「その度に重機出動ってのは厳しいぞ?」
「下りてくる道と作業場所はできてるから後はどうとでもなる」
一番長い橋桁は十五メートルぐらいあるのでこの橋桁をハンドリングできる場所が橋の袂に要るのだが、それを重機無しで用意するとなると労力的にも期限的にも難しかった。そして袂に作業できる広さがあるなら橋を渡す事自体はさっきのように人力でも何とかなる。
「分かった。そこらは任せる。そういや渡り初めはどうすんだ?」
「こいつは位置付けとしては支保工だから別に」
支保工というのは隧道や橋梁を工事するさいに工事期間中に崩れたり落ちたりを防ぐ仮設構造物のこと。
工事が終わったら撤去する工事用のものを組んだところでお祝いもなにもない。
「正規の橋は石橋だっけ?」
「ああ石製のアーチ橋。幸いなことに石材の現地調達ができるからな。一梁分ずつちまちま石切りしておく」
「人手が要る時は前もっていってくれると助かる」
「了解」
■■■
「今回の遠征の目的を全て達成できたことを祝して乾杯!」
「乾杯!」
熊退治と仮設橋の設置という目的を達成した我々は無事美浦に帰着した。
全員怪我も無く無事に予定より早く戻ったし目的も果たせたので万々歳で問題なし。
……といかない人物がいた。
置いてけ堀をくらった有栖ちゃんがいたくご機嫌斜めで往生している。
膨れっ面でしがみついてくる幼子には道理が通じないのが道理なので、気が済むまで甘えさせるぐらいしか手が無い。
食べたい物を指差して口を開ける有栖ちゃんにせっせと食べさせているけど自分で食べられるよね? これって赤ちゃん返りかな?
弟や妹が産まれると赤ちゃん返りするというのはよく聞くけど必ずしもそれだけではなく一人っ子でも赤ちゃん返りはあるそうだ。
有栖ちゃんは物心ついてから初めて十日近く両親役の誰もいないという環境変化で赤ちゃん返りしたのかな?
まあ、赤ちゃん返りは人格形成において重要な位置を占めるらしいから受け止めよう。
何もできなくて何の役にも立たなくて自分の欲求を主張するだけなのに、無条件で可愛がってもらい世話をしてもらい愛情を注いでもらえるのが赤ちゃんという存在。
その赤ちゃんのように何もできなくても自分の存在が大切なものなのだという自己肯定感を得たいがためにするのが赤ちゃん返り。
だから赤ちゃん返りしている子を突き放すと自己肯定感が低くなりやすく、できるだけ甘えさせて(≠甘やかす)欲求を満たしてあげると自己肯定感は高くなりやすい。
自己肯定感が高いから良いとか低いから悪いという訳では無いが、人格形成の土台が自己肯定感で、その土台の上に躾があって、その上に知識や技能といった物が乗って人格が形成されると説く研究者もおり、全面的にとはいわないが頷ける部分は多い。という訳で、ばっちこい有栖ちゃん。
◇
しっかり甘えさせたので満足したのか有栖ちゃんは佐智恵に突撃しに行ったので人心地つく。
「お父さんは大変ですな」
「ああ匠か。そうそう、すまんな、木材とっちまって」
「前倒しで建てようと思ってた分の取り崩しだから構わん。そもそもあの分は岩崎で伐採した奴だからな」
オリノコとの連絡道路を造るために去年伐採した分が救ってくれた形らしい。
「それはそうと、オリノコの橋はどうすんだ?」
「それな……」
オリノコ川を渡った対岸に良い粘土があるのは漆原父さんが証明しているので、オリノコ登り窯で焼成するレンガの原料採掘地として有望視されている。
しかし、現状だと運搬手段が人が持って川を渡ってなので、橋を架けて荷車で運ぶ要望が出されている。
「使用材は石か木、できれば木な。少量なら三和土は認めるが、鋼鉄とか鉄筋コンクリートとかプレストレスト・コンクリートは逆立ちしても用意できん」
「当たり前体操」
「桁橋でも吊橋でもトラス橋でもアーチ橋でも斜張橋でも何でもいいが、ラーメン橋は勘弁な」
「ラーメン橋は無理すぎる」
ラーメン橋というのはラーメン構造の橋のこと。
ラーメン構造のラーメンは食べ物のラーメンは全く関係なくて、ドイツ語で額縁という意味。
額縁のように四角形(長方形)の接合部分を剛接合といって変形しないように強固に造ることで構造物の強度を持たす構造の事をラーメン構造という。
筋交いも要らないし荷重を支える必要がないから壁がなくても大丈夫なのでレイアウトの自由度が非常に高くマンションや倉庫など色々なところに使われている建築方式の一つ。
現状のリソースだと剛接合する手段がないからラーメン構造は造れない。
「でだ、やってみたいを言っていいなら、吊橋」
「ほう……荷車を通すんだが」
「太さが三〇(ミリメートル)もあれば麻でも大丈夫だろう」
「……たぶん三〇だと橋桁吊るのが精一杯。三六はないと辛い」
「そうか?」
「スリルを味わう観光用とかアスレチック用の幅員が狭くてシースルーな隙間が七分で板が三分といった橋ならともかく、荷車渡すなら幅がもっと要るし桁橋っぽい床板にしないといけないから橋の自重は一トン程度にはなる」
直径三〇ミリメートルの麻ロープの引張強度は約四トンなので安全係数を八とすると一本あたり五〇〇キログラムぐらいで、荷車が通れる幅と強度と隙間の橋桁となると橋桁だけで一トン近くの重さになるのでメインケーブルが二本だとそれで限界。
直径が三六ミリメートルになると引張強度は約六トンになるので一トンの橋桁を吊っても五〇〇キログラムまでの荷重に耐えられる。
耐荷重五〇〇キログラムだと人間が十人も乗れないという事から分かるように結構ギリギリ。
「それと計算が面倒なのとアンカーをどうするかも問題」
ケーブルは荷重の掛かり具合や寒暖や乾湿によって伸縮するので吊橋というものはある程度は揺れ動く事を許容している構造なので安全な橋にするにはかなり複雑な計算が必要になる。
瀬戸大橋のときは福井県の九頭竜湖(九頭竜ダムのダム湖)に通称『夢の架け橋』(正式名:箱ケ瀬橋)という全長二六六メートルのプロトタイプの橋を建設してテストしたなど、計算誤差が無視できない規模になる大きな橋だと机上の計算と現実が一致するかのテストが行われることもあるぐらい吊橋は計算要素が多くて面倒。
対して橋桁を橋台(地面)や橋脚に乗っける桁橋は、極論を言えば橋台と橋脚と橋桁の強度計算だけで何とかなる。
もう一つのアンカーの問題というのは、吊橋のメインケーブルを両端で支えるアンカレイジ(アンカーレッジ)をどうするか。
橋の自重(死荷重)と橋の上を渡っている物(活荷重)を合わせた荷重とアンカーとが釣り合っていないと駄目なので最低でも七.三五キロニュートン(七五〇キログラム重)以上の力に耐えて動かないアンカレイジが必要になる。
小規模で同時には数人程度しか渡らない吊橋だと太めの立ち木にメインケーブルを結んでアンカレイジ代わりにする事もできるが、橋が長いほど、荷重が大きいほどメインケーブルの張力が強くなり、それを受け止めて地盤に流すアンカレイジも相応に強く地盤を保持できるように造らないといけない。
世界最大のアンカレイジは瀬戸大橋の坂出側の物で、地下(海面下)五五メートル・地上(海面上)七六メートルと霞が関ビルぐらいの容積に達する。もちろん、諸々計算して必要最低限に止めてなおそれだけの大きさが必要だという事。
「ただなぁ……段丘下りて橋渡って段丘登るってどうよって思うから段丘同士で繋ぎたいんだわ。そうすっと橋脚無しの木製桁橋だと怖い長さになるんだ。それに吊橋が一番資源使わんだろ?」
「まあ原則的にはそうなんだがな」
空中に物を固定するばあい、一番楽なのが“吊り下げる”だったりする。
安全係数を八として太さ一センチメートルのナイロン紐で二〇〇キログラムは吊れるが、これを下から支えるとなると材質も必要量も桁違いに必要になる。
さらに、吊橋だと橋桁はメインロープから垂らされるバンカーロープの間隔での曲げ強度が持てばよいので、橋桁を渡しただけの桁橋に比べて強度が低い部材で大丈夫など、同じ耐荷重の橋なら吊橋の方が少ない資源で造る事ができる事が多い。
「吊橋というより、橋脚を用意するか吊るかって整理でいいか?」
「それでいい」
「なら、双方の河川敷に橋脚建てて桁橋。なんならそこに主塔建てて斜張橋か吊橋にして補完するかトラス橋にする」
「その線で詰めるか」
「お二方、話は終わりましたか?」
「おお、雪月花か。まあ終わったようなもんだけど、何?」
「では、東雲さん。有栖ちゃんのご機嫌とりにお戻りください」
そうか……まあ赤ちゃん返りは数箇月以上継続するらしいからなぁ。