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文明の濫觴  作者: 烏木
第7章 幕間
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幕間 第16話 ウスターソース

「ちゃんとエプロンしてますね。みんな手ぇ洗いましたかぁ?」

「はーい」

「それじゃぁこれからウスターソースを作りまーす」

「はーい」


まだ肌寒い三月初旬の昼下がり、今日の学童保育は第三厨房でウスターソース作り。

ウスターソースが残り少ないと親父殿から圧力がかかったので、親父殿に忖度して今日の学童保育ではウスターソースを作る事にした。


第三厨房というのは調理専用の建物で、一昼夜煮込むとかの時間が掛かる調理とか煮干しや焼干しの前処理を大量にするなどの普段の食事を作る台所を占拠すると拙い用途で使う。

ちなみに()()となっているが第二厨房は無い。

何故かは気にしたら負けと思っている。


一人一枚野菜用のまな板を渡して洗うよう指示する。

美浦のまな板は“野菜用”・“魚用”・“肉用”・“その他用”の四種類があって、ご丁寧にも側面と表面に大根やマンガ肉などの焼印が押してあるのでどの用途の物かは一目瞭然になっている。

ここ第三厨房は一気に大量に処理する事もあるので野菜用と魚用は各八枚、肉用とその他用は各五枚ある。


まな板を洗ったら次は薄刃包丁(うすばぼうちょう)。手を切らないよう良く言い聞かせる。

家庭用として馴染みがある(刃先がV字形になっている方の)両刃の菜切包丁(なきりぼうちょう)でなく、右利き用と左利き用の区別があり切れ味鋭いプロ仕様の香りがする(刃先がレの字形になっている方の)片刃の薄刃包丁という辺りに佐智恵の強い拘りを感じる。


子供用なので軽量で握り易いよう全体的にコンパクトに造られているが、切れ味の方は折り紙付き。念の為に佐智恵に昨日研ぎ直してもらってるから間違いない。

子供用の刃物は鈍ら(なまくら)の方が良いという意見と、鈍らだと切るのに力が要るから(むし)ろ大事故が起きやすいし刃物は切れる物だと理解するには鋭い方が良いという両極の意見があるが、美浦では後者の切れ味鋭いが採用された。

尤も佐智恵は刃物は偏執的なまでに拘るから選択肢なんて端っから無いんだろうけど。


最初にやるのはニンジンの皮を剥いてみじん切り。


「ノリちゃん先生(センセ)、競争!」

「危ないから駄目。美恵ちゃん、刃物持ってるときにそういった事をしちゃいけません」

「ええぇー」

「早くやるより安全に。早くやるより確実に。安全第一です。さ、言ってください。早くやるより安全に」

「……早くやるより安全に」


早くやるより云々は東雲組(うち)の安全標語。

とは言っても色んなところで似たり寄ったりの標語はあると思う。親父もどっかで見たのを繋ぎ合せた的な事を言っていたし。


作業に取り掛かった三人をチラ見しながらニンジンをみじん切りにしていく。

作業分担は彼らは各二本で俺は十八本と九倍の作業量だから競争するとさすがに負ける。別に負けるから競争にしなかった訳では無い。あくまで安全第一。


作業量の差は単純に作る量の差で、彼らが作るのは各二リットルで俺は一斗(十八リットル)という事。合計二十四リットルも作ってどうするんだって思うかもしれないけど、三十人超えの食事なのでウスターソースを多めに使う料理だと一食で一リットルとか平気で使うからこれだけ作っても結構消費されてしまう。


三人とも危なっかしくてヒヤヒヤする段階はとっくに卒業していて六~八歳にしては手際は良い方だと思う。


始めのうちは子供たちに料理を教えるのは母親の役割なんじゃないかという葛藤があった。別に料理は母親が教えないといけないなんて思っていないし、事実俺は母親からは教わっていないが、母親が教えたいと思っているなら尊重したいと。


そのあたりを聞いたところ、二人とも“気にせずやっておしまい”的な反応だったのと、お手伝いの練度が上がった事を喜んでいてちょっと複雑。



ニンジンの次にもどした干し椎茸をみじん切りにしたら野菜は終了なのでまな板と包丁を変える。


リンゴはどうしたって?

リンゴ(そんな物)は無い。無い物強請りしても仕方が無いからリンゴは抜き。


トマトは?

ハウスも無いのに冬や春先(この時季)にトマトが生るとでも? 昨夏に大量のトマトペーストを作って保存しているからそれを使う。


タマネギは? ニンニクは?

両方ともみじん切りにした物を古式エールを酢酸発酵して造ったモルトビネガーに漬け込んでいるからそれを使う。



「次はちょっと臭うかもしれないけど我慢してね」


塩漬け鰯の気密をしていた油紙を外す前に予防線を張っておいたが、史朗くんが“うわぁ”と呟いて仰け反る。

うんうん。分かるよ史朗くん。

口の悪い人は“悪臭を放つ塩辛い醤油”と評することもあるナンプラーの醸造途中みたいな物だから、控えめに言って“生臭い”大袈裟に言えば“腐った魚の臭い”なんだから仕方ないよね。


塩漬け鰯をみじん切りにするよう言ったところ、美恵ちゃんと宣幸くんは壷から取り出して刻み始めたが史朗くんはちょっと嫌そうな顔で躊躇している。

まあがんばれ。そのうちに意を決して手に取るだろうから暖かい目で見守ろう。


この塩漬け鰯は簀立て(定置網・エリ漁の一種)で大量の鰯が獲れた時に塩漬けにした物。

極稀に鮫に追われたか何かでパニックになった魚群が簀立てに飛び込む事があるようで、その時は“うじゃうじゃ”という擬声語(オノマトペ)がぴったりな状況になるらしい。

大半は大きさに合わせて丸干し・目差し(メザシ)・煮干などの干物にするのだが、一部は三枚におろして塩に埋めて塩漬け鰯にしている。


この塩漬け鰯だが、塩漬け中に出てきた水分はナンプラーとほぼ同じ物で、身の方は塩を落としてオリーブオイルに漬ければアンチョビになる。

もっとも塩漬けしただけの状態でもアンチョビと言えなくも無いし、そもそもアンチョビはカタクチイワシ類を指す言葉なのでカタクチイワシならどの段階でもアンチョビと言えばアンチョビだけど……


今回のウスターソース作りに使うのは塩漬け鰯(アンチョビ的な物)出てきた水分(ナンプラー的な物)。鰹節や旨味調味料が無いので旨味成分のイノシン酸を得る手段としてアンチョビ的な物とナンプラー的な物を使うという訳。これは別に突飛な手法ではなく、欧州の元祖ウスターソースではよく使われる原材料だったりする。


塩漬け鰯を刻み終わったら今の段階での下拵えは終わりなので材料を鍋にぶっ込んで行く。

史朗くんの塩漬け鰯のみじん切りは全体に粗くしかも大きさもばらばらだが煮込んで擂り潰すからこの程度なら問題ない。それとまな板と包丁を洗うときに念入りに念入りに洗っていたし、手を何度も洗っていたのはちょっと微笑ましかった。


先程みじん切りにしたニンジン・椎茸・塩漬け鰯にモルトビネガーから取り出したタマネギとニンニクを加え、そこに干し椎茸のもどし水とナンプラー的な物を入れる。

このままだと水分が圧倒的に足りないので足りない分は水を加え、米麹とトマトペーストを入れてかき混ぜる。


米麹を加えるのは美浦オリジナル(というか俺のオリジナル?)なのかは自信が無いが、メイラード反応(アミノカルボニル反応)に必要な糖分が足りないと考えて入れている。言わばリンゴの果糖の代わりという訳。

ウスターソースの褐色から黒色は近代製法だとカラメル色素とかで着色している事もあるが、本家本元の最初期の製法だとメイラード反応で付いた色。


それと塩は入れない。塩漬け鰯とナンプラー的な物の塩分が相当あるから塩を加えると塩分過多になってしまう。

魚に塩を(まぶ)して出てきた水分という成因から分かると思うけど、ナンプラー的な物は飽和食塩水とほぼ同じ二六度ぐらいの塩分濃度――醤油は一五度ぐらいなので一.七倍ぐらいの濃度――がある。

それに身の方もそのままだと特殊な人以外は塩辛くて食えたものじゃないぐらい塩分が濃い。やっぱアンチョビはそのまま食べる食材ではなく調味料に近い位置付けだよね。


「さあ、火に掛けるよ。竃に薪を組んで」

「はーい」


鍋は子供たちの物でも五キログラムぐらいあるので鍋の据付は俺がやる。

火熾しはジャンケンで宣幸くんがやる事に決まり、ファイヤーピストンで種火を作って焚き付けに火を移している。

一つ目の竃に着火したらその火を順々に移して四つの竃に火が入った。


火に掛けられ掻き混ぜられた事で塩漬け鰯からでていたのと同種の臭いが立ち篭めて史朗くんが顔を顰める。


「臭いは熱したら飛ぶから明日には気にならなくなるよ」

「そう?」

「今までソースが生臭かった事あった?」


史朗くんは首を横に振る。


ふつふつと沸いてきたところで今日の子供たちの作業は終了。


「続きはまた明日。さあ、お家で服を着替えて食堂に集合!」



夕食後に追加で薪を()べて、それが燃え尽きるまで火の番をする。

子供は寝る時間まで掛かるから火の番は当然俺一人。

時折掻き混ぜながら煮込んでいき、薪が燃え尽きる頃には鍋の中の液面は最初の半分ぐらいまで減っている。


うん。良い感じ良い感じ。


鍋に蓋をして翌朝まで放置(寝かす)


■■■


翌朝に蓋を開けると芳醇なウスターソースの香りが漂う。この芳香はメイラード反応でできた香り成分によるもの。

味噌や醤油の着色や香りもメイラード反応によるものなのでメイラード反応自体は低温でも起きるが熱した方が圧倒的に反応が進み、摂氏一五〇度ぐらいが一番進むらしい。確かステーキの焼き方の話でそう聞いた事がある。


「ノリちゃんセンセどうなった?」

「自分で確かめてごらん」

「うわっ! ソースになってる」

「まだ完成じゃないけど、味見してみる?」

「うん」

「じゃあ、先ずは史朗お兄ちゃんのから」


お玉杓子で掬って四つの小皿に少しだけ入れる。

それぞれが仕込んだウスターソース(未完成)の味を見る。


「しょっぱい」

「これソースになるの?」

「塩味が強いのと酸っぱさが足りない。他にも何か物足りない感じ」


コメントは美恵ちゃん、史朗くん、宣幸くんの順。

この後に酢で薄めるから現時点では濃い目になっているのは確かだが、宣幸くんのそれは小一のコメントじゃない。というかプロの料理人のそれ。君は味吉陽○か劉○星か?


「ここに香辛料を足して、お酢も足すからね。じゃあ、先ずは香辛料からいってみよう」


山椒の実・唐辛子・パセリの葉などの香辛料を加えてもう一度火に掛ける。

香辛料を昨日加えなかったのは香りが飛んでしまうからで、今日の加熱は沸騰するかしないかぐらいまで暖める程度。

最終的には絞って液体部分だけがウスターソースになるので単に入れただけだと意味が無く、ある程度加熱して香味成分をだしてもらう。


今の段階では酢は入れず、加えるのは火を止める直前ぐらい。防腐剤を兼ねているので飛ばれると困る。

十分な防腐作用を維持するために大量の酢を投入する。具体的には鍋の中身の半分ぐらいの分量の酢をいれる。つまり、できあがったウスターソースの三分の一が酢という感じにする。

加える酢はニンニクやタマネギを漬けていたモルトビネガーだけど、入れる量が入れる量なので足りない分は米酢を使う。



「準備OK?」

「できた!」

「よし、じゃあ、蛇口捻って」

「えい!」

「出てきた出てきた」


圧搾機の吐出口から迸る褐色の液体(ウスターソース)。勢いが衰えたらハンドルを回して圧力をかけて搾っていく。

圧搾機には木綿袋に移された鍋の中身が入っていて木綿をフィルターにして固液分離をおこなっている。


「はい。史朗兄ちゃんのウスターソースです。壷に移し替えてね」


搾り出した後は保存容器に詰めればほぼ完成。

“ほぼ”なのは、別にこのまま使っても問題はないけど、数日放置して味が馴染んでからの方が美味しい気がするから。


次の搾りのために木綿袋から搾りかすを取り出して取っておくのだが、宣幸くんがそれに目を付けたようで、どうするのか聞いてきた。


「今晩のカレーに入れるんだよ。どうなるかはお楽しみに」

「よっしー! カレー!」


カレーに入れると風味とコクが増す……ような気がする。

搾りかすは煮込まれてどろどろになったニンジンやタマネギと言えるし、残っているウスターソース成分もウスターソースは欧州では香り付けや隠し味に使われる事も多いので不自然ではないと思う。


俺はカレーにウスターソース類(ウスターソース・中濃ソース・濃厚とんかつソース)を掛けるのはどちらかといえば否定派だけど、隠し味とか香り付けとしてカレーに入っているのは“有り”だと思っている。

美味しいかどうかは脇に置いてカレーの隠し味にチョコレートというのは聞く話だがチョコレートトッピングは“無し”だろうというのに似た感じ?



壷にボトリングしたらラベルを貼付する。


品名:美浦式ウスターソース

原材料:醸造酢・野菜(タマネギ・ニンジン・トマトなど)・アンチョビ・魚醤・米麹・香辛料(山椒の実・唐辛子・パセリなど)

製造年月日:四年三月八日

作成者:漆原史朗

保存方法:冷暗所にて保存


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