幕間 第14話 うどん
うどんと言えば讃岐うどん。
もちろん、他のうどんを挙げる人はいるだろうし、それは人それぞれ十人十色で構わない。単に、自分はうどんと言えば讃岐うどんというだけの話。
初任地が讃岐うどんの名店がひしめく香川県の善通寺であった事。
そこに“幹部自衛官ならばある程度は任地の文化・風習・歴史・風土に通じ任地を理解する事を心掛けるべし”というありがたい心得をご教授くださった上官がいた事。
さらに、その上官が転任するまで色々なうどん屋に連れて行ってくれたり紹介してくれた事。
その結果、非番の日には自主トレの合間にうどん屋巡りをしたり、手打ちうどん教室やうどん講習会に顔を出す若き日の自分が爆誕した。
だからうどんには一家言とまでは言わないがある程度は思い入れはある。
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三年目の麦秋に十分な量の小麦が収穫された。
これまで蕎麦ぐらいしかなかった麺類だが、これにより素麺やうどんといった小麦粉系の麺やラーメンが視野に入った。
それを聞いた宣幸に“久しぶりにパパのおうどんが食べたい”とリクエストされた。
昔、宣幸が物心つくかどうかの頃、食卓にのぼった市販のうどんを渋い顔で食べていたら“そんなに気に入らないなら自分で何とかしろ”と奈菜に言われ、材料を取り寄せて非番の日にうどんを手打ちした。奈菜は半生麺か乾麺のお取り寄せと思っていたらしいが、到着した荷物がうどん粉だったため、どうしようかと悩んだらしい。
自分が打ったうどんは讃岐の名店には到底及ばないがまずまずのできで、奈菜も宣幸も満足気であった。それはいいのだが、それ以来“宣幸ちゃんもパパのおうどん食べたいよね”と言われ、我が家では月に一度は“うどんデー”なる家族サービスが定番になっていた。
リクエストされたからには応えたいが、一筋縄ではいかない事は火を見るより明らか。
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うどんの製法は蕎麦と違ってやってる行為自体は大して難しくなく一見簡単なように見える。しかし、うどんは製麺理論が複雑で、小麦粉の性質・温度・塩分濃度・加水量といった配合に関わる要因が多く、打ち方や熟成時間などもできを左右するし、安定して美味しいうどんを作るのは簡単ではない。
特に、気温・水温・小麦粉の性質から加水率と塩分濃度を決定する配合段階は最初の工程であると共に重要管理点なので、手打ちうどんの師匠は必ず計量するようしつこいぐらいに繰り返していた。この配合を勘とかでやるのは絶対に駄目で、これを勘でやっていいのは定評を得ているこの道何十年の職人だけだと。
讃岐に伝わる美味しいうどんの作り方についての口伝に『土三寒六常五杯』というものがある。
土用の頃の暑中には塩一杯を水三杯に溶かした濃い塩水で、寒中は六杯の水で溶かした薄めの塩水を使い、春と秋は水五杯で溶いた塩水で小麦粉を練るのが良いという教え。気温が高い夏は生地が柔らかくなりやすいので塩を多めにして締め、逆に冬は硬くなり過ぎないよう薄めにする。
もっとも、土三寒六常五杯は製塩技術や保管技術が未熟で塩自体に水分を相当含んでいた頃の言葉らしく、そのまま当て嵌めるとかなり濃いので実際はもっと薄い塩水を使う。師匠によると、質量濃度で一〇~一二パーセントをベースにして寒暖によってプラマイ二パーセントが目安で、素直に土三寒六常五杯をやると一五~二四パーセントとかなり塩分過多になる。
ただ、単純にその塩分濃度で良いというものではなく、気温以外にも小麦粉のタンパク質の含有率(粗蛋白)によっても変えないといけなくて、さっきの塩分濃度は讃岐うどんでよく使われているASWという小麦の小麦粉での話。租蛋白がASWより高ければ塩分少なめ低ければ塩分多めに調整しないといけないとか。
どれぐらいの塩分濃度にするのかを聞いたのだが、国産小麦での適切な塩分濃度を割り出すのに苦労を重ねたとかで先の塩分濃度以外は“企業秘密・禁則事項”と教えてもらえなかった。個人的にうどんを打つだけならASWを使えば問題ないとも。
更に塩分濃度だけじゃ片手落ちで、加水率(例えば小麦粉一キログラムに対して塩水五〇〇グラムを加えると加水率五〇パーセント)にも気を配らないと安定して美味しいうどんは打てないとも教えてもらった。
手打ちうどんだと加水率五〇パーセントが基本で、機械打ちだと四〇パーセントが基本となる。そこで、加水率を一定(仮に五〇パーセント)にして粗蛋白によって塩分濃度を調整するのが基本なのだが、小麦粉によってはそれだけでは調整しきれない部分もでてきて、加水率も変える必要がでてくると遠い目をしていた。
曰く、粗蛋白が高いと加水率を高くし低いと加水率も低くするのが“コツ”とか。
どんな小麦粉ならどの程度の加水率にするのかは例によって“企業秘密・禁則事項”で、明確には教えてくれなかった。ただ、手打ちで四五パーセントは低いらしいので大幅に変えるわけではなく“心持ち”の範囲だろうとの推測は成り立つ。
まあそれもASWを使うのであれば基本に忠実に配合すればそこそこ良い線には到達する。昔に打った時は讃岐からASWの手打ちうどん用の粉を取り寄せたので問題はなかった。
しかし、美浦にはASWは無いから同じうどんを打つのはうどん粉の確保からスタートになる。
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今年収穫された小麦は品種毎に保管されていてそれぞれに粗蛋白が記載されている。
検査機もないのにどうやってと思ったのだが、讃岐の粉屋さんが“昔は小麦粉を捏ねてぬるま湯で揉み解して取り出したグルテンの塊を吊るして強さを測っていた”と言っていたのを思い出した。
早乙女さんに聞いたらそれと似たような方法だったので、粉屋さんが言っていた方法は検査機が使えなかった頃は一般的な方法だったのだろう。ちなみに、取り出したグルテンは“お麩”にしたとの事。
ただ、リストに記載された物の中に自分が使っていた灰分〇.三八パーセント・粗蛋白九.二パーセントに一致する物はない。
この中のどれがうどんに向くか、またどれが使っていた小麦粉に近いのか全く分からない。仕方が無いので美浦とオリノコを行き来して忙しいのは百も承知だが早乙女さんに相談するしかない。
「ASW? ああ、うどん用の。それはさすがに無い。そもそも日本でいうASWって正しくはオーストラリアン・スタンダード・ホワイト・ヌードル・ブレンドって言って、オーストラリアン・ヌードル・ホワイトとオーストラリアン・プレミアム・ホワイトのブレンドだからそもそもASWになる品種は存在しない。更に言えばANWもAPWも品種というより規格だから元になる品種なんて下手すれば十数品種とかの世界」
「そっか……さぬきの夢とかは?」
「門外不出なんで香川県以外で栽培したら恐ろしい事に……それはまあ置いておいて、ASWに近い物を作ろうとするならブレンドして粗蛋白が近くなるようにするしかないけど……灰分は小麦のどの部位を製粉するかで変わるしそうすると粗蛋白も変わってくるから」
「そうか。それもあったか。どこを製粉するかと、粗蛋白の計測がいるのか」
どの部分を製粉するかというのは粉屋さんから聞いた事がある。
小麦の胚乳部だけを製粉すると純粋な炭水化物に近くなるので灰分は少なくなる。
提唱した博士の名をとってグラハム粉といわれる全粒粉は糠の部分や胚芽を含めた小麦の全部を粉にする。米に置き換えると普通の小麦粉は白米を粉にするのだが、グラハム粉は玄米を粉にするという感じ。グラハム粉だと灰分になるミネラルが多いふすまや胚芽が含まれるため灰分は高くなる。
ふすまや胚芽を除いた小麦の胚乳を製粉する場合も、外側はタンパク質や脂質が多いアリューロン層というのがあって、等級の高い小麦粉はこのアリューロン層も除いて胚乳の中心部分だけを製粉する。
このあたりは蕎麦粉も同じ感じかな?
更科粉とか何番粉とか、ひきぐるみとか。
栄養的にはグラハム粉、低等級小麦粉、高等級小麦粉の順で、調理のしやすさは正反対で、高等級小麦粉、低等級小麦粉、グラハム粉となる。
粉屋さんは“灰分が少ない小麦粉は真っ白なうどんになり、灰分が多少ある小麦粉はやや黄色味を帯びる”と言っていた。定評のあるお店のうどんは純白ではなくやや黄色がかった感じの物も多かった覚えがある。
「あっ、アミロース比率もあった。確かASWは低アミロースだった筈。……タピオカはないから馬鈴薯デンプンや白玉粉で代用して…………うん。たぶんブレンドは可能だろうけど相当試行錯誤しないと難しい。そしてゴメン。やってる時間ない」
「ブレンドは自分でやってみるので、やり方とか考え方を教えてください」
粗蛋白だけなら九.二パーセントより高い物と低い物をブレンドすれば良い。ブレンドするのが二種類なら二元連立一次方程式で簡単に割合は出せる。灰分については極端な差でないなら影響は少ないので結果論とするしかない。ただし、アミロース比率は食味に繋がるというのが早乙女さんの意見。
デンプンは植物の種類や品種によって粒の大きさや性質が異なるのだが、デンプンを構成している炭水化物の型の割合も重要らしい。
炭水化物の型はアミロースとアミロペクチンに大別でき、直鎖状のアミロースは粒感や歯応えなどを、枝分かれしたアミロペクチンは粘着性や柔軟性を作り出す。
デンプンのほぼ一〇〇パーセントがアミロペクチンでできている糯米と二割内外がアミロース(アミロペクチンが約八割)の粳米の違いと理解すれば大過ないとの事。
そして、ASWは低アミロースつまり高アミロペクチンの小麦粉なので、ASWで作ったうどんは柔らかさが出ていると。
もし美浦に今ある小麦粉の中にASWのアミロース率を下回るものがなければ白玉粉や片栗粉を混ぜてアミロース比率を調整しないと望んだ性質にならない可能性がある。
市販のうどん粉の中にはキャッサバのデンプンを添加して調整している物もあるそうなのだが、ここにタピオカは無いから近い特性を持つ馬鈴薯のデンプン(片栗粉)で調整するのが現状で採れる手となる。
しかし、片栗粉の方がタピオカよりずっとピーキーらしく片栗粉で調整するとなると僅かな差で性質が大きく変わる可能性があるとも。
うどん粉の配合については、強力粉と薄力粉の組み合わせとデンプン(白玉粉や片栗粉)の添加量で決まる事になる。
しかし、理論上の組み合わせパターンは千通りをかるく超える。
それだけでも面倒なのに、小麦粉などのアミロース比率は測定器が無いので測れないときている。
実際にやろうとすると、配合したうどん粉でうどんを打ってみて官能検査(試食)で加減するしかない。うどん粉の配合が悪かったのか自分の腕が悪かったのか分からない状態でそれをやるの? ……自分でブレンドしてみると言った事をちょっと後悔。
更に言うと同じうどん粉でもその日の気温や水温、加水率や塩分濃度で食味は大きく変わる。いったいどれだけ試作すれば……沼の深さを見誤った妄言をかなり後悔。
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「パパこれ、これパパのおうどん」
一つの配合案につき四〇〇グラムのうどん粉を使いうどんを打ち、一回につき五種類のうどんを試食会と称しておやつの時間に提供してきた。
そして十回目のうどん試食会でやっと宣幸から及第点をもらえた。試食会が十回に及んだのは宣幸に“美味しいけどパパのおうどんと違う”と言われて意地になったというのは認める。
小麦の配合は比較的簡単に決まった。
幸運なことに収量の良い品種同士のブレンドで、机上の計算ではあるが粗蛋白九.二パーセントが見込める組み合わせがあった。
この配合をベースに片栗粉や白玉粉の添加量を調整するのに試食会を繰り返した。
後半には粉の配合だけでなく塩分濃度や熟成時間にも工夫をこらし、上級者にしかお勧めできない裏技と師匠が言っていた加水率の調整にまで手を出した。
その努力が実を結び、ついに長いうどん坂の麓に立てた。
納得できる麺ができたらそれを通年維持できる加減を見つけて初めてレシピと言える。だからまだまだうどん坂の入り口に足をかけた程度。
あれ? 自分の本分はうどん屋じゃない。
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「政兄ちゃん、これ鉢伏山の向こうの?」
敷島くんが美浦に戻ってきたタイミングでうどんを出したら駐屯地から見て鉢伏山という小山の向こう側にあるうどん屋のうどんと似ているとの感想であった。
「そうか、そっちか……自分としては坂出のお稲荷さんの裏手の」
「ああ、あそこ」
「個人的にはそこが一番。それをイメージしたんだが」
「そう言われるとそんな気も……自分の一番は鉢伏山の南かな?」
「ふみぼ……敷島くんはあの系統が好きだもんな。滝宮の傍とかフィットネスクラブの裏とか土讃線沿いの丘の上とか。そういえば川崎インターの方は行った?」
「はい。行きました」
自分たちが善通寺にいた頃に巡ったうどん屋の一部だが、前に調べたときは今挙げたお店の半分ぐらいは閉店されていた。ウォッチャーのブログなどを見るに惜しまれつつの引退といった風であった。
「あらあら、パパ、何の話してるの?」
「ああ、これがどの店のうどんに近いかみたいな話。讃岐うどんと一口にいっても色々なタイプがあって好みも十人十色。どのタイプが好きかみたいな世間話」
「味付けとか具材?」
「麺のタイプ」
「太いとか細いとか長いとか短いとか?」
「……その辺りも無いではないが、どちらかといえば弾力とか靭性とかの傾向だな。口当りや歯応えが全然違う」
「そんなの分かるの?」
「素人でも分かるぐらいの違いがある。なあ」
「方向性ごとに特徴的なお店を回れば余程無頓着じゃなきゃ分かるかと。もっとも一種類の麺が全部のうどんにベストマッチかというとそんな事もなくて、かけならあそこ、釜揚げならどこそこって感じでメニューの数だけ贔屓のお店がある人も多いです」
「じゃあ“今日は肉うどんの気分だからどこそこの店に行こう”みたいな?」
「はい。そういう人も結構います。もちろん贔屓のお店一本槍という人もいます」
「そうなんだ。そうそう、パパ。乾麺にはしないの?」
「……乾麺はどうだろう。これから梅雨だし夏場は湿気が多いからな。それと乾麺なら五島手延べうどんがあるけど、小豆島や播州は素麺の名産地だから美浦だと素麺の方が気候的にも合うんじゃないか」
「素麺の作り方は?」
「知らん」
「冬になったら何でも屋に作らすで良いんじゃないですか?」
「酷っで」
乾麺は保存にさえ気を付けていれば年単位で持つし良い保存食ではある。
しかし乾麺プロジェクトが始まったら逃げよう。一から作るって大変すぎる。