幕間 第13話 石窯パン
「石窯作りません?」
「ほう、石窯か」
「ええ、オーブンがあったら色々できそうですし」
「ほやのぉ……そや、漆原剛史さん。内緒で準備して親父パワー見せるとかどや? 美浦の若い衆はがんばり過ぎやし」
「いいですねぇ」
三回目の春を迎える前のまだ寒いころ、乗ってくれるだろう秋川さんに石窯を作らないかと持ちかけて始まった石窯作り。
「ピザ窯にすっかパン窯にすっかやけど、作れるんならパン窯がええと思っとる」
「違いは何ですか?」
「ピザ窯はいわば直火オーブンで熱源の輻射熱使こうて短時間で調理するんや。せやから耐火レンガで形作るだけでもええねん。そんでパン窯はどっちかゆうたら余熱でじっくり時間掛けて作るんで断熱材で周りをカバーせんといけん」
「なるほど……そこらは窯炉と同じですね」
「そんでな、大は小を兼ねるやないけど、パン窯でも加熱中はピザ窯とそう変わらんからパン窯は上位互換やな。まあパン窯の問題は断熱やけどな。土でも被せて断熱するとかかなぁ」
「断熱レンガはありますよ」
「へ? 珪藻土か木節粘土でも見っけたか?」
「よく原料をご存知ですね」
「何でできてるかは気になる性格でな」
「珪藻土があれば手っ取り早いんですけど無くても作れます。耐火レンガの原料に細かい大鋸屑を混ぜて焼成すれば大鋸屑が焼けて空隙になるんで断熱性がでます。天馬さんが窮余の策的な製法を思い出したとかで駄目元で作ったらそこそこ断熱してくれまして」
「ならパン窯やな」
「そうですね。後はどれぐらいの大きさにするか」
「せやな、大き過ぎず小さ過ぎず……調理室は七十センチ四方ぐらいでどや? 昔それぐらいのを作った事あんねんけど家庭用としては持て余した。せやけど美浦は三十人超えとるからそんぐらいいるんちゃうか思て」
六枚切りの食パンを一人二枚食べるとするとそれだけで十斤。三斤の型が三個で九斤、四個で十二斤……四個だな。
一斤が十二~十三センチメートルぐらいだったから、一度に焼こうとすると間口は五十じゃ足りないから六十センチメートル、奥行きは四十じゃぎりぎりだから五十センチメートルぐらいは欲しい。
隙間とか考えると結構絶妙な大きさに思える。
「そうですね、それぐらいあると使い出がありそうです」
その後は単層式か二層式かとかドーム型か箱型か蒲鉾型かとか色々詰めて必要なレンガを見積もった。
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組みあがって乾燥まで終えた二層式の蒲鉾型の石窯の燃焼室で焚き火が燃えている。
レンガの結着剤に使っているモルタルは加熱しないと硬化しないから窯を固めるために熱している
ここでいうモルタルはポルトランドセメントを使った建築に使うモルタルとは別物で、築炉に使うモルタルは物凄く大雑把に言えば形成前の耐火レンガで、もしレンガの形に形成して焼成すれば耐火レンガができる。
だから築炉用のモルタルは高温にしなければ強度が出ず、熱を加えないと硬化しないのでヒートセットモルタルとか熱硬性モルタルとも言われる。
エアーセットモルタルと呼ばれる常温で硬化する耐火結着剤もあるが、標準的にはヒートセットモルタルが使われる。
使っている耐火レンガと同じ組成のヒートセットモルタルを使えば耐火度も熱による膨張・収縮も同じになるので何かと都合が良いのもヒートセットモルタルの利点。
「とんな塩梅や?」
「もうそろそろですかね」
今はまだゆっくり温度を上げる“焙り”の段階。ここでしくじると“ふりだしに戻る”に成りかねない。
“焙り”は湿気や結合水を蒸発させたり有機物や炭酸塩を分解する工程でもあり、炉材や焼成物が熱膨張の歪みで破損しないよう均一に加熱するための行為でもある。
だから炉材や焼成物の熱伝導の速度を考慮しながらゆっくり温度を上げていくのだが、これが意外と手間がかかる。“金払うから誰か焙りやってくれんかな”と零した人も居たぐらい。
「前作った時はテキトーに焚き火したらそれで大丈夫やったんやけど」
「それ、たぶん、比較的低い温度で硬化する耐熱度が低いモルタルですね」
「粗悪品って事かい?」
「いやいや、適材適所でしょう。パン窯やピザ窯に窯炉並の耐熱度はオーバースペックです。ピザ窯でも耐熱温度は五〇〇もあれば十分でしょう」
「そういやそうか。で、窯炉用の材料しかないからそうとう高温にする必要があると?」
「ええ。八〇〇から九〇〇ぐらい行ってくれたら安心できるんですが」
「そこまで上げるって大変ちゃうか?」
「援軍呼んでます」
「呼んだぁ?」
天馬さんが手押し車に載せて貝灰炉から取り外した送風機一式を持ってきてくれた。
「電源は芹沢将司さんがケーブル引くからそれ使ってください」
「ありがとう」
「こっちの炭は乾燥済みだけど、炭熾しはもうちょっと掛かる」
「至れり尽くせり」
「格好良いお父さんをよろしく」
何かと思えば息子と娘がやってきた。
よーしパパ頑張っちゃうぞー!
送風機の風で赤熱した木炭の熱がパン窯の燃焼室に吹き込まれていく。
「これが援軍か」
「ええ、薪だけだと……下手したら三昼夜以上掛かるかも」
「そんなに掛かるんか?」
「薪で温度を上げるのってそもそもが笊で水を掬うような物ですし、これは容量が小さいですから」
「焼物窯より時間が掛かるってか」
◇
天馬さんの取説を参考に木炭を継ぎ足して送風量を調整して徐々に窯の温度を上げていく事一時間。確認用に抜けるようにしておいたレンガを一つ抜いて中を見る。
「パパー、あたしも見たーい」
「よっと……美恵姉ちゃん、どうだ?」
「うーん……まだみたい」
「うん。よく分かったね。まだ六〇〇度に届いてないですね。さあ子供たち、まだまだ掛かるから晩御飯食べておいで」
「はーい」
窯の温度が直ぐに熱風の温度になる訳では無い。
直ぐに熱風の温度になるならそれは窯の熱容量が凄く小さいという事になる。
そうなると蓄熱できないので余熱で焼き上げるパン窯としては役に立たない。
「せやけど、本当にここまでする必要あったんか?」
「……アリマスヨ」
「……ほんまに?」
「本当です! その時にできる最高の物を目指す姿を子供たちに見せたいんです」
「……まあ、そゆことにしとこか」
「……ソウシテクダサイ」
更に三時間ばかし焚き続け、日はとっくに暮れていて送風口から洩れる光が一段と存在感を醸しだしている。
温度計代わりに入れておいた鉄片を覘き穴から確認すると、やや橙色掛かった赤色を帯びている状態が続いているが、さっきより橙色の傾向が強くなっている。
これはパン窯が八五〇度ぐらいまで加熱されている証拠なのでそろそろ火を止めてもいいだろう。
「パパー どう?」
「美恵姉ちゃんも見てみるかい?」
「見るー」
「よっ! どうだ? 見えるか?」
「見えたー! ……最初に焼くのこれぐらいかな?」
「よくできました」
目視で温度が分かるなんて我が子ながら素晴らしい。
この様子なら私の後を継ぐのはこの娘かな?
素焼きの焼成温度は人によってまちまちで、一,〇〇〇度超えの高い温度で焼成する人達もいるし、逆に六〇〇度ぐらいで低温焼成する人達もいる。
そのあたりは流儀というか流派というかそれぞれに一長一短があるのだが、私は八〇〇~九〇〇度ぐらいで焼成するのが一番性に合っている。
「そろそろ塞ぎます」
「わあった」
「美恵姉ちゃん、そろそろ火を止めるからサチ姉ちゃん呼んで来てくれるかい?」
「分かった」
色々なところにショックを与えないように送風を止めるのにはコツが要るそうで、止めるときは呼んで欲しいと天馬さんに言われていたので美恵をお使いに出す。
その間に開口部を塞いでいる耐火レンガの目地を確認して怪しいところは粘土を盛って補強する。
「そろそろ終わると聞いて来た。塞いで自然放冷で良い?」
「それで頼む」
「そちらの段取りは?」
「いつでもいける」
焚口を閉鎖して後は自然に冷えるのを待つのみ。
「どれぐらいで冷える?」
「最低で三日、たぶん五日ぐらい」
「結構かかるんやなぁ」
「そういうものです」
「面倒だけど必要経費」
「だな」
天馬さんはこのあたりの事を理解してくれる貴重な存在。
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「アンパン、アンパン」
「ジャムちょーだい」
「ママ、それ何?」
「コッペパンよ。ホットドッグ食べたい人」
「ハイ! ハイ! ハイ!」
「あたしも食べたい!」
休日という事になっている空曜日のお昼前、広間では母子パン作り大会が開催されている。パン生地を作るところから子供たちが関わっていて実に楽しそうにしている。
それは良いのだが、私自身はフランスパンに代表される歯応えのあるパンの方が好きなのだが……
「ユヅ姉さん、フランスパンはないの?」
「すみません。今日用意した生地はリッチタイプなので不向きなんです」
「ん? 焼成方法が違うのは何かで聞いた事があったけど生地からして違うん?」
「ええ、小麦粉、水、塩、酵母といった基本材料のみみたいな副材料が少ないパン生地をリーンって言うんですが、バゲットとかのハード系のパンはこのリーンタイプの生地が基本です。対して糖質、卵、油脂、乳製品などの副材料が多い生地をリッチって言うんですが、リッチタイプはフンワリとしたソフトな感じに焼き上がります。日本で普通に見かけるパンはほぼリッチタイプなので今日はリッチタイプしか用意してないんです」
「色々違うんだ」
「ええ、一口にパンと言っても原材料の違い、発酵の有無や発酵方法、加熱方法などで結構変わります。初めて聞いた時は笑いましたけど、定義しだいではお好み焼きもパンと言えなくもないそうです」
「はあ? さすがにお好み焼きはパンじゃないだろう」
「パンを研究しているとある先生が言うには、広義のパンの学術上の定義は“小麦ならびに穀物の粉を主原料として他の原料と混ぜあわせて生地を作り、それらを最終的に加熱した加工食品”だそうです。その定義に従うとお好み焼きも入っちゃうんですよね」
「小麦粉その他で生地を作って焼く……確かに」
「学術的な定義は往々にして一般的な認識からずれるものです」
一般には瀬戸焼や唐津焼でなくても陶磁器全般を瀬戸物とか唐津物と言うし、案外そういうものかもな。
「ところで、漆原さんもハード系がお好みですか?」
「近所に拘りのベーカリーがあって、そこのバタールが美味しくてね。ん? 『も』ってことはユヅ姉さんも?」
「母親が北欧なのが影響しているのか、私の感覚ではハード系は食事でソフト系はお菓子なんです。まあ私の趣向は皆さんの趣向に合わないと思います。たぶん酸っぱくて顔を顰めるかと」
「……酸っぱい? パンが? 焼いた後発酵させるの?」
「いえいえ、ルイスレイパです。フィンランド語でルイスはライ麦でレイパはパンですのでまんまライ麦パンですね。結構酸味があります」
「ライ麦って酸っぱいの?」
「ライ麦が酸っぱいんじゃありません。ライ麦は小麦と違いグルテンを形成できないのでライ麦の割合が高いとイーストでは発酵が上手くいかないんです。そこで乳酸菌が大量にいるライサワー種というパン種で発酵させます。なので、ルイスレイパは乳酸の酸味や風味が特徴のパンですし、乳酸が防腐剤の役割をしますので結構日持ちします。水分が多い焼成直後より二、三日経って水分が抜けた物の方が酸味が強くて私は好きです」
「なるほどね」
「フィンランドは寒いので小麦が育ちにくくライ麦が主体なのでライ麦パンが主食になります。中でもドーナツ状に穴の開いたレイカレイパ、フィンランド語で“穴あきパン”っていう意味のルイスレイパがあるんですけど、母曰く“フィンランド人にとってのレイカレイパは日本人にとってのお米のような存在”だそうです。母も日本でレイカレイパを探したそうですが納得できる物は中々入手できず、偶にフィンランドから取り寄せていたぐらいです」
「へぇー……一度食べてみたい気もする」
「フィンランド料理は欧州のメシマズ選手権の優勝争いをしているという定評がありますから、おそらく一度で十分だと思いますよ。まあ、気になるようでしたら奈緒美さんと東雲さんに頼んでみましょうか?」
早乙女さんと東雲くんはフィンランド式のライ麦パンを作った事があって、南部さんのお母さんがたいそう喜ばれたとか。
さて、そろそろ石窯に火を入れてくるか。
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「ハード系のパンですか? なんなら来週作りますよ? パン粉用のパンが欲しいのでリーンタイプ用のイーストの準備してますんで大丈夫です。どんなパンをご希望ですか?」
「ライ麦パンですか? えっ? ルイスレイパの方? ……ええっと……ちょっとそれは早乙女と相談させてください。あっ、もしかして南部の希望ですか? 違う? 個人的な興味……」
後日、東雲くんに打診したところ二つ返事で了承してくれたハード系のパンに対してフィンランド式ライ麦パンは考えさせてくれってあたり大変なのかな?
「北欧などの寒冷地ならともかく温暖湿潤な日本で作ろうとすると色々と対策が必要でして、それを美浦で実現できるかを確かめてからじゃないと何とも言えないんです。それに準備に一週間以上かかりますし……」
美浦でライサワー種を造る事自体が難度が高く期間も要するらしい。そして例え大変であってもそれで美味しいものができるのなら苦労のし甲斐もあるが、できあがるパンはおそらく……だから興味本位だと二の足を踏むという事らしい。
まあ、それはそうだな。納得の、な。