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文明の濫觴  作者: 烏木
第7章 三年目
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第22話 池の水を抜く

「こんなものかな?」

「ええ、これ以上は抜けません」

「分かった。そんじゃあ始めるか」


瓢池(ふくべいけ)(オリノコ川の支流の恵川(めぐみがわ)を堰き止めて造った溜池で、池の形が瓢箪型だったのと『福』に掛けて瓢池と名付けた)の括れ部分にある脇堤(わきてい)天端(てんぱ)から取水用の斜樋(しゃひ)の一番下の取水口まで下がった水面を見ながら黒岩さんと話す。

数日前から取水口を全開にして抜いていた水がほぼ抜けたので掻い掘りを行う。


「先ずは池の底に残ってる魚とかを獲るぞ。者共、掛かれ!」

「おー!」


残り少ない水の中に(ひしめ)く魚群を網や(たらい)を持ったオリノコの男衆が蹂躙していく。


「鰻、鰻! 鰻居た!」

「そっち行った! 捕まえろ!」

「うりゃ! ……よし! 獲ったどー!」

「よくやった! 偉いぞ!」

「あそこに居たという事は……ここはどうだ? 居た居た!」


オリノコの皆も大好きな鰻。一箇月ぶりぐらいの鰻にテンションアゲアゲで漁獲に勤しんでいる。

秋に醤油ができて醤油・味醂・酒という和食の味付けの基本形ができた事で蒲焼のタレが安定的に作れるようになった事からオリノコでは週一ぐらいのペースでうな丼が食卓に上がっていた。

しかしいくら天然鰻の旬は秋から冬とはいっても厳冬期はさすがに活性が落ちていわば冬眠しているような状態になるので年の暮れあたりからほとんど獲れなくなっていた。今回の掻い掘りはその冬眠中の鰻の寝床を急襲したようなもの。


精力的に漁獲されたが、そんなに馬鹿でかい池ではないので二時間ぐらいで目立つ魚がいなくなったところで漁獲大会は終了。

主な成果は鰻が数匹で、後は小物が合計十キログラムぐらい。


小物の魚種については俺はほとんど区別が付かないが黒岩さんの見立てではモツゴ類・タナゴ類・モロコ類といった溜池によくいる魚種をはじめ鮒や鯉の子供や目高(メダカ)もいたそうだ。

冬なので多くは枯れているが藻や水草などの水生植物も根付いているし、亀類・蟹類・貝類・水生昆虫の類も棲みついている模様。

できてから一年ちょいなのに、いったいどこから来たのかご苦労なこって。


「そんじゃあ、次は泥を掻き出すぞ!」

「はい!」


湛水(たんすい)しだしてから一年ちょいの間に溜まった砂や泥はそんなに多くはない。全部は集めきれないし集める気もないが、浚渫できる泥はだいたい三立米ぐらいかな?


掬い取った泥は池の脇に山積みにして仮置きしているがこれがちょっと臭うんだ。

泥だけに泥臭いというか(ドブ)の臭いというか……


泥は粒子が細かいので水が滞留する場所に溜まりやすいが、そういう場所では新たな酸素が供給されないので貧酸素状態になりやすい。貧酸素状態になるとどうなるかというと、嫌気性の硫黄還元菌の働きで硫化水素などの有毒物質が増える事が多い。


土木の世界では『止水は死水』という言葉があって、撹拌されず留まり続けている水は結構な確率で硫化水素などの有毒物質を放出していて稀に死傷事故も発生する。それだけでも厄介なんだけど、発生した硫化水素が酸素のある場所に移動すると硫黄酸化菌が硫化水素を酸化して硫酸にする事も……これ、下水道のヒューム管(正確には異なるが、鉄筋コンクリート製の土管)が腐食する要因の一つなんだよね。


下水道だけじゃなく、近年では石膏ボードの硫酸カルシウムを硫黄元とする硫化水素による中毒事故も起きている。これは石膏ボードがある場所が雨漏りや結露で水浸しになって放置されていると起きるし、石膏ボートを埋め立てると同じ現象が起きる。廃材の石膏ボードの処理って頭痛いのよ。


人工の止水であれ天然の止水であれ、そもそも硫黄がなければ硫化水素は発生しないが、生物は基本的には硫黄を含んでいるから死骸の一つ糞の一つでも入ると硫黄が含まれてしまうから硫黄を排除する事はまず不可能。

生体を構成している物質の中には硫黄原子を含む物質が結構あって、メチオニン、システイン、ホモシステインなどの含硫アミノ酸とか、アミノ酸ではないがタウリンも硫黄原子を含んでいる。第一、細胞のエネルギー工場とも言えるミトコンドリアでは鉄硫黄タンパク質と呼ばれる鉄と硫黄を含む物質が重要な役割を果たしているので、動物・植物・菌類・原生生物などのミトコンドリアを持つ真核生物で硫黄を一切含まない生物は居ない。と思う。たぶん。


少量であっても有毒物質を含む泥をどうするのかというと……空気に晒して無毒化します。下水処理もそうだけど、水の浄化は好気発酵だけでも嫌気発酵だけでも駄目で、両方する必要がある。嫌気発酵していた池の底を空気に晒して好気発酵させるのも池干しする理由の一つ。


そうやって処理した泥の中には有機塩が溜まっているので干して水分を飛ばしたら堆肥と混ぜて田畑に撒きます。



「お昼の準備、始めていいですか?」

「おう、華さん、あんがと。よろしく。あっ、そうそう。すまんが先に手ぇ洗うお湯沸かして貰っていいか?」

「はいよ。みんな、取り掛かるよ」


黒岩(旧姓:吉崎)華さんに率いられたオリノコの女衆と子供衆が様子見と昼食の準備にやってきた。

女衆は溜池を造る時に建てた雨宿りと仮眠と簡単な料理ぐらいはできる小屋で昼食の準備に取り掛かり、子供衆は獲れた魚を覗き込んでいる。


「どんな塩梅ですか?」

「おお、秋川さん。生き物の種類は結構あったように思うけど、泥は思ったより無かったかな? 東雲さんはどうだい?」

「概ね同意します。種類の多さについてはびっくりしました。ただ、泥はこんな物だと思いますよ」

「そうかい? テレビなんかだと凄くあったけど」

「あれって何年ぶりだと思います?」

「毎年やってんじゃないの?」

「そんなのテレビ的に美味しくないじゃないですか。“五十年放置されていた池の底には!”とかの方がテレビ映えするでしょ?」

「そりゃそうか」

「ちゃんと管理していた頃でも二、三年とか五年おきとかが多かったと聞いています。中には毎年やってた池もあったかもしれませんが」

「じゃあ何で一年しか経ってない今年やるの?」

「そりゃあまだ試験湛水(しけんたんすい)なんですから供用前に水抜いて点検ぐらいしますよ。いうなれば出荷前点検みたいな感じ?」

「なる」


「小魚どれぐらいになりました?」

「出水口の網にいたのを合わせればこまいのは十キロぐらいかな? 食いでもないからリリースかなって思ってる」

「魚粉にはしないんですか? 完全手作業の現状からすれば丁度良い量ですし」

「じゃあ任せた」

「任されました」


魚粉は肥料にするのかと思ったのだが、鶏の飼料にするそうだ。



お湯が沸いたので作業を中断して引き上げさせる。

泥まみれで食事という訳にもいかないから、ぬるま湯で手足を洗って焚き火で暖を取ってもらい、ご飯ができたら昼食の流れ。


俺はその間に瓢池を軽く点検する。

池の底に降りて堤体をざっと目視で確認。

法面は三〇パーセント(約一七度)程度と()()()斜面としては結構な急勾配なのでいくら法面保護の石積みをしているとはいってもある程度の損傷はあるかもしれないと覚悟していたのだが意外なぐらい築堤時の姿を保っている。


堤の上から五〇センチメートルぐらいから下は茶色っぽい藻のヌルヌルに(おお)われていて、どこまで水があったかが良くわかる。不用意に足を踏み入れたら底まで滑り落ちるな。


瓢池は利水専用貯水池なので渇水時を除いて平常時最高貯水位(旧称:常時満水位)を保っているので、水面の線ははっきりくっきり現れている。

多目的ダムだと平常時最高貯水位より高い位置に洪水時最高水位(旧称:サーチャージ水位)を設定していて両者の差分が洪水調整に使える水量で、治水容量(洪水調節容量)と呼ぶのだが瓢池の治水容量はゼロ。


有効貯水容量(通常は洪水時最高水位と最低水位の差分)が二,〇〇〇立米程度しかない溜池に治水能力なんてある訳がない。仮に瓢池が最低水位の時に大雨が降って満水になるまで受け止めたとしても、大川は勿論オリノコ川の水位さえピクリとも変化しない事請け合い。

だから洪水調整機能(そんな物)は端っから考えず、満水になるまで貯め込んだら後は流れてきた水量と同量の水を放流して、大雨だろうが小雨だろうがただただ受け流すだけ。


豪雨を受け流すという事は豪雨による濁流と同じだけの放水量がなければならない。

放水が間に合わず水が堰堤を越えるのを堤体越流というのだが、元々堤体越流させる事を前提として造られている物でなければ大変拙い状況に陥る。特に瓢池で採用しているゾーン型フィルダムは基本的には堤体が土石でできているので破堤して大土石流を引き起こす事も十分有り得る。

だから余剰水は洪水吐(こうずいばき)と呼ばれる設備から放流するのだが、コンクリートダムなら堤体の一部に低い所を造ったり上部に穴を開けて下流側の堤体上に流せばそれで済む事もあるのだが、フィルダムでそれをやると堤体越流と変わらないからその方法は採れないので中々苦労した。


堤体・堤体と自然地形との接合部・洪水吐あたりが重要点検箇所になる。

もっとも、今は男衆が暖を取って昼食ができるまでの時間潰しだからざっとだけ。


「ノリさーん! お昼できましたよぉ」


おっと美結さんが呼んでいる。

“直ぐ行く”と返事して足下に気を付けながら戻る。

本運用のために湛水するのはもうちょい先だから本格的に点検するのは学校の後の午後に地道にやる。


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