表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
文明の濫觴  作者: 烏木
第6章 幕間
103/293

幕間 第12話 早乙女奈緒美の立前……二年秋

お酒を造るにしても食糧をお酒にするのだから皆の理解がないといけない。皆の利益にならないと酒造を続ける事はできない。というか利益が乏しいならマサさんとかノリさんに止めさせられる。場合によってはユヅに何時間も説教される。それだけは勘弁してもらいたい。


私や文昭くんならお酒そのものが利益と思うのだけど、お酒は嗜好品と見做されて優先順位が落ちてしまう。そこで、お酒から派生する各種便利グッズが皆の利益になるという立前で酒造許可をもらった。


その便利グッズの一つが調味料を造るという事。調味料は色々必要というか私も欲しい。調味料といえば“料理のさしすせそ”が有名だけど、あれは味付けに使う順番を指しているので五つで済む訳ではなく他にも必要となる。


塩、砂糖、胡椒、お酢、味醂、料理酒、醤油、味噌、ウスター系のソース(ウスターソース・中濃ソース・とんかつソース)、トマトケチャップ、小麦粉、片栗粉、サラダ油ぐらいがあれば基本的な料理は十分作れる。他にもマヨネーズ、ポン酢、カレー粉、辛子(からし)、マスタード、唐辛子、山葵(わさび)などもあると料理の幅が広がっていく。


現在確保できている調味料は塩、砂糖(含むシロップ)、お酒、小麦粉、片栗粉、サラダ油、唐辛子、和辛子。それから山椒とオイスターソースもある。


一方で当面無理だと思っているのが栽培環境が作れない胡椒をはじめとしたスパイス類とか種苗も無いので栽培が不可能な物……山葵とかポン酢とかがこれにあたる。これらは代用品を探した方がいいかもしれない。


なんちゃってで近い物が作れそうなのがマヨネーズ、ソース、ケチャップ、カレー粉、マスタード。カレー粉はマサさんを買収ゲフンゲフン……説得するため、ベースになるクミン・コリアンダー・ターメリック・チリペッパーの四種の香辛料は品質はともかく今秋には何とかなる見込み。残りは主原料はあるけど香辛料がね……味や風味がぼやけると思う。


そして目処が立ちそうなのが、お酢、味醂、醤油、味噌。

お酢と味醂はお酒の派生品なので今年醸造した中から取り置きしている。

最低でもこの二つは造らないとユヅの大説教祭りか折檻フルコースが待っていると思うと手が抜けない。


■■■

酢という字は酉に乍となっている。

酉は十二支の酉年に使われているから鳥や鶏に関係していると思われがちだけど、醸造、酩酊や酔う、お酒を注ぐ酌、焼酎の酎などお酒と縁が深い部首で、酉はお酒を入れる容器の象形文字でお酒その物を指しているといわれている。他にも酢や酸といったものや醤油など発酵に関連する物も酉が使われている。バターとも乳酸飲料ともチーズとも諸説ある醍醐や酪農の酪など乳や乳製品にも使われるけど……


乍というのは“枝を払う”という感じの象形文字から来ていて、酢というのはお酒から作る物の代表格であるお酢を表している。別説では乍は“○○し(ながら)□□する”の乍なのでお酒を造りながらできる物、お酒を放置していたらできた物という説もある。そこらはどうでもいいけど、実際古今東西お酒があるところにはお酢もある。現実問題としてはお酢というのは“お酒を造るのに失敗した”のがはじまりじゃないかとは思っている。


アルコールを代謝して酢酸を造る酢酸菌は自然界に広く遍在している好気性の菌種が多く、あまり度数が高くないお酒が空気に暴露していると表面で酢酸菌が繁殖してしまう事がある。そうするとお酒じゃなくて酢になってしまうため酒造としては失敗である。


更に酢酸菌が繁殖してしまった器具を使い回すとはじめから酢酸菌が多くいるのでアルコールができる端から酢酸発酵してしまい腐造率が跳ね上がってしまうので器具も新調して育て直さないといけないなど、酢になってしまうのは酒蔵から恐れられていた。だからミツカンが酒粕から赤酢を造りだした当初、周りは“正気の沙汰でない”と諌めたらしい。

美浦ではお酢を造る場所はお酒を造る場所から離して建ててもらった。


醸造酢を造るにはお酒に酢酸菌の種菌を混ぜると空気と接する場所で酢酸菌が繁殖してお酢ができる。そこらに遍在している酢酸菌が入れば種菌がなくても酢にはなるけど、狙った品質になるかは別問題。


お酒と種菌を混ぜたら静かに見守る静置発酵だと水面に張った膜状の部分でしか酢酸発酵しないのでお酢になるまで二ヶ月から四ヶ月ぐらいは掛かる。しかし空気との接触面積が広くなれば酢酸発酵が早くなるのでお酒に種菌をいれた物に空気を送り込んでやると僅か一日、物によっては数時間でお酢ができる。


伝統的な手法は当然ながら前者の静置発酵法・表面発酵法で、近代的な製法の後者は速醸法・連続発酵法などと言われている。


私が今回採用したのは後者の速醸法。大量に均質なお酢を造るのに適した方法なので美浦の現状からするとそぐわない手法ではあるが、この方法にしたのには一応理由はある。それは酢酸菌の種菌が無いって事。


発酵関係の菌株は色々コレクションしていたけど酢酸菌や納豆菌は持っていない。

コレクションはアルコール醸造に関連が深いアルコール発酵酵母・麹菌・乳酸菌が中心になっている。他にもミノッチから要望があったレンネットを産生するケカビなどは何種類かある。リゾムコール・プシルスやR・ミーヘイを何種類か取り寄せてミノッチとどの菌株が良いか色々チャレンジ中だった。


種菌なしの静置発酵法で造れない訳ではないが、そういう造り方をしているところはたいていが昔から造り続けてきたので優良な酢酸菌が居付いている事が多い。


種菌がないし酢酸菌が多い環境でもないから静置発酵法だと酢酸菌以外の菌……例えば火落菌とかが優勢になってしまう可能性もある。だから酢酸菌が優位になるようにエアレーションする速醸法でお酢を造る。そして出来が良い物の中から酢酸菌を選抜しようと目論んでいる。技術史的には逆になるけど酢酸菌の種菌ができれば静置発酵法に移行しようと思っている。赤酢とか黒酢とかにチャレンジしてみたい。


速醸発酵法で必要なのがエアレーション(と撹拌)なのだけど、普通に考えればエアレーションは空気ポンプで吹き込むのだけど空気ポンプがない。


分からないなら分かる人、作れないなら作れる人に聞くのが手っ取り早いからタクさんとサッチの知恵を借りる。


サッチが製鉄や鍛造で使っている(ふいご)が使えないかなとか思って聞いたんだけど否定的だった。


「鞴だと間欠だし圧は大して掛けられない。送風機も間欠でないだけで一緒。難しいと思う」

「あれは吐気先が常圧だから成り立ってると思ってくれ。扇風機や団扇(うちわ)だ。それでエアレーションするイメージ湧くか?」

「……それは難しいわ」

「容器内の空気を循環させないと……外から空気を入れるならその分外に出る空気がないと……原料どれぐらい無駄に空中散布して良い?」


否定的というより駄目出し?


「何か良い案ない?」

「アルキメデス水車はどう?」


アルキメディアン・スクリューとかアルキメデスの螺旋とかいわれる竜尾車とかで使われていたスクリューポンプの事?


「そんなんじゃ空気入らないでしょう」

「逆。空気を下に入れるんじゃなくて液を上に持ち上げる。チーズファウンテンとかみたいに」


鍋でチーズなどを融かしてパンなどに付けて食べるのがチーズフォンデュだけど、その融かしたチーズを滝のように流してそれに食材を付けるのをチーズ噴水(ファウンテン)という。チョコレートでやればチョコレートファウンテン。

なるほど……撹拌と空気との接触面積の増大がはかれるし、密閉容器内で動かし続ければ気化したアルコールや酢酸が抜け出る量も少なくできる。


「……だけど作れるの?」

実戦証明(コンバットプルーフ)はある。アンモニアの収集に使っている」

「ドヤ顔でいうほどの物かよ。第一、作ったのは俺だ。それにアンモニアは鉄でいけるけど酢酸はそうもいかんぞ」

「あっ、恒常的に使うつもりは無いから」

「いや、短時間でも鉄製だとお歯黒ができるぞ」

「……それは嫌だ」

「鉄が使えないとなると隙間とかの処置がなぁ……チーズやチョコみたいに粘性がありゃ多少隙間があっても大丈夫だけど……ちょい待て。そもそもポンプじゃなくてドラム式洗濯機みたいにして容器の方を回して撹拌とエアレーションすりゃいいんじゃね?」

「……天才!」


やっぱり餅は餅屋で聞くべき人に聞くのは大事だね。

上手いこと酢酸菌が取れれば赤酢の成功率がぐんと上がる。


■■■

味醂は時間はかかるけど製法自体は間違いが少ない。

普通の酵母だと活動できないアルコール度数からスタートするのでお酒や醤油や味噌だとありうる腐造のリスクが非常に低い。


味醂は十二から十四度ぐらいのアルコール溶液という多くの菌類が活動できない環境下で糯米を米麹の酵素で分解して造るので原理的には微生物の培養は不要。


麹が産生した各種酵素が蒸米を分解するまでの間、他の菌が繁殖しないようにさえしていれば良いので、極論を言えば無菌状態で長期発酵させた(蒸米と麹を混ぜて造るタイプの)甘酒を濾過してアルコールを混ぜても造れる。


更に言えば別にアルコールを添加する必要もなく、糖分やアミノ酸などを混ぜ合わせてつくる“みりん風調味料”なんて物もある。まあ造れないし造らないけど。


ただ、間違いは少ないけど時間がかかる。恐らく半年以上はかかる。

高温高圧で蒸して酵素反応がよくなるようにする高温糖化法とかで処理したお米で造る方法なら二ヶ月もあれば大丈夫だけど、蒸米からとなると半年から一年ぐらいかかった筈。


日本酒を蒸留して米焼酎的な物を造り、加水して度数を調整した物に蒸した糯米と米麹を加えて後は静かに見守るだけ。

蒸留した事で度数が低くなった原料の方のお酒はお酢の原料に回して使い尽くす。お酒を捨てるなんてもったいない事はできない。


原料のアルコールに焼酎を使うのは、日本酒を使うと生き残りの清酒酵母がアルコール発酵してしまい、味醂にならずに日本酒の出来損ないができてしまうから。

普通の酵母はアルコール度数が十四度ぐらいになると自分が作ったアルコールで死なないよう活動を停止するから、例え野良酵母が入ったとしても問題ないんだけど、清酒酵母は死ぬまでアルコール発酵を続けるから清酒酵母が混じると味醂にならない。


お酢の方はアルコールが造られる端から酢酸に代謝されるから酵母が生きていても問題ない。


■■■

醤油と味噌については原料の大豆の収穫が稲刈りが終わった後なのでそれ以降になる。それと仕込みに適した時季ってのがあるからまだ先の話だけど味噌は今年の収穫分から米味噌を造る予定。


昔は家庭でも造られていたし現代でも自家製味噌キットなどもあるぐらいなのでコストとか品質とかに目を瞑れば何とかなる。だから味噌については静ばーちゃんに米麹と培養した味噌酵母を提供して造ってもらう。味噌とお酒は仕込み時季が被るから手が出し辛いのよ。年明けに仕込んで来年の今頃が丁度いい具合になるかな?


米味噌にしたのは美浦の皆の嗜好を確認したら全員が米味噌文化圏だったからというのと、麦が本格的に採れるのが来年になるからという事、それと大豆は醤油にも使うし豆腐に豆乳に黄粉にと他にも用途が一杯あるので豆味噌は……というのが主な理由。


ただ、米味噌と一口にいっても色の濃淡や甘辛の具合は色々あるからどうなるか分からない。全員を満足させる物にはならないだろうけど“嫌なら食うな”の精神でいきたい。


醤油は、濃口醤油が醤油全体の八割ぐらいを占めるけど、他にも淡口醤油、溜醤油、白醤油、再仕込み醤油、甘口醤油など色々な種類があり用途によって使い分けがあったりする。


淡口醤油が淡いのは色味であって味が薄いのではないから薄口醤油ではなく淡口醤油と書く。食材の色を損ねないので煮物などによく使われる。生産量のシェアは一割強ぐらいあり、濃口と淡口の二つでほとんどを占めている。


ちょっと特殊なのが甘口醤油で、濃口・淡口・溜・白・再仕込みの五種類はJAS規格にあるけど甘口醤油はJAS規格にはない。


甘口醤油というのは砂糖などの甘味料で甘味を加えた醤油のことで九州での支持が高い。九州の空港やターミナルのレストランには甘口醤油と濃口醤油の両方が置いてあって注意書きがあるぐらい。富山も甘口醤油がスタンダードで、砂糖が入っていない醤油は“砂糖なし”と店頭で表示していないとクレームが出るとか聞いた事がある。他の醤油は製法や原料が違うのだけど、甘口醤油は甘味料の添加の有無なので他の区分とはちょっと異なる。


何れ手を出さざるを得なくなる可能性はあるけど当面の間は濃口醤油に絞る。

オーソドックスなタイプだからほとんどの用途で使える。その用途に特化した醤油には負けるかもしれないけど、ほぼ全ての用途で及第点に達すると思う。

原料も限られているからどれに絞ると言われたら濃口醤油しかない。


濃口醤油も淡口醤油も原料の半分は小麦なんだけど、可能ならタンパク質の含有量が多く製パン用の強力粉に使われる硬質小麦が醤油醸造には向いている。


美浦の気候はどうやら少雨傾向なので硬質小麦も問題なく作れている。その分、天ぷら粉とかに使う軟質小麦やうどん粉に使う中間質小麦の水遣りがアレだけど……逆に言えば多雨傾向だと硬質小麦を作るのが難しかったから丁度良いといえば丁度良い。


品種で硬軟はおおよそ決まるけど、水が足りてないとデンプン生成が阻害されてタンパク質の割合が多くなり硬質に寄って行く傾向がある。オーストラリアで干ばつが起きたときに日本のうどん用に栽培していた中間質小麦(中力粉)が硬質小麦(強力粉)並みのタンパク質含有量になってしまい、製パン用に売り払われた事もあったらしい。買い取り価格が何分の一かになって生産者が嘆いていたとか。


醤油を仕込むといっても種取りを除いた硬質小麦自体が少ないので大した量は仕込めない。だけど仕込まないと私の立場が……


それと醤油って結構難しいんだ。自家製醤油キットみたいなのはあるけど、あれって一番難しい製麹が終わった物が入っているから素人でも造れるのであって、大豆・小麦・塩・種麹から造れって言われたら素人では絶対できないと思う。技術的にも衛生的にも施設的にも……


味噌については米麹なら酒造の麹を使っても大丈夫だから味噌はできると思えるけど、ジャンジャンバリバリ研究と実践を繰り返した酒造と違って醤油については正直自信がない。もしかしたら麦味噌の出来損ないになるかもって内心戦々恐々としている。


一平くんに由希さん、念のため魚醤作らない?

ウスターソースにも使えるよ。

日本でウスターソースを作り始めた頃の製法だと魚醤を使ってたらしいから。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ