樹海のマーメイド
読んでスッキリする作品ではないと思います。予めご了承ください。
海が呼んでいる。
でも私は海に行くことができない。
目の前は崖だ。眼下にはまばらに生えた木が織り成す林と浜辺、そして海が見える。
ここから降りていくことが不可能だとして、私が後ろを振り向いたら、この山岳から下りる一本道がある。でもそれは途中で規模の大きい崖崩れに邪魔されて通ることはできない。そこからずれて安全そうな道を通らなければならない。海に行くまでにはとても時間がかかる。
そしてもし海にたどり着いても、私は中に入って泳ぐことができない。海が嫌いになったんじゃない。むしろ大好きで、この高さからでも飛び込みたいくらいだ。でも許されない。私はこの場所に縛られている。瞼を閉じるとあの日の光景が鮮明に蘇ってくるーー。
私はこの地で小さな水族館を営む両親の間に生まれた。小さい頃からすぐそばに海があって、周りには水の中を自由に泳ぎ回る生き物たちがいた。毎日海に入って、毎日 水族館の魚たちに餌をあげていた。
それが続いたのも幼稚園に入って、小学校に上がった頃まで。高校生になった今でも覚えていることは少ない。その頃うちの水族館で唯一 人を呼び寄せることができたピノというイルカと、レオというペンギンの存在くらいだ。あんなに好きだったはずなのに、結局覚えていることはそこに一度遊びにやってきたお客さんと同じ程度。それから幼稚園に入ってから汚い字と下手くそな絵で書き始めたサボり気味で日付が飛び飛びの絵日記が私の記憶をくすぐり、偽の思い出を想像させる。
小学校に入ってからは友達のうちに遊びに行くのが楽しくて仕方がなかった。学校から帰ってくるなり家を飛び出す私を、お母さんもお父さんも喜んで見送ってくれた。
中学校に入ると親と反発して、俗に言う反抗期なるものに突入した。水族館を経営する両親の代わりに、家の仕事をたくさんこなさなければならなかったのに、私は中学2年生の終わり頃から勉強をすると嘘をついて家を開けることが多かった。帰りも遅かった。その間 勉強なんかには目もくれずに一人で近所をぶらついていた。思春期の心がこじれて、同級生とつるむ事さえ許さなかったから、いつも一人だった。まるで小学生の頃の自分とは変わっていた。休みになると平日よりも早起きをして、裏山まで足を運んだ。目的は何もなく、自分が行きたいから行っているんだと思っていた。ただ単に親を避けるためだったということは、最近になるまで気付きもしなかった。
兄弟はいなかったが、私を実の兄弟のように慕ってくれる従兄弟が近くに住んでいた。小学校までは一緒にいることが多かったが、中学になると従兄弟からも逃げるようになった。たまに訪ねて来ようものなら、これから友達と会うから相手をしてあげられないと嘘をついた。自転車にまたがる私を見て愚図りだす。そして近所迷惑な鳴き声を背中で聞きながら私は自転車を走らせる。
中学校生活の終わりが見えてくるとやっと勉強に手をつけ始めた。年の暮れに第一志望の高校を諦めた。
高校に入ると好きな人ができた。それをきっかけに、虫の良い私は両親の手伝いをするようになった。お父さんはこの頃から口数が少なくなった。お母さんは明るかったが、その口から言葉が出るたびに痩せていくようだった。
好きな人と付き合うようになって、また家の手伝いをサボりだした。でも私の好きな人は二股をかけていた。悔しくて悔しくて、涙もたくさん出たが、今まで自分がだらけてきた罰が下ったんだと思った。そしてまた家の手伝いをするようになった。この頃お父さんはいつも片手にお酒を持っていた。お母さんはそれまで嫌っていたはずの暴言を自ら進んで言い出すようになった。
高校2年の終わる3月。お天気雪が降る空の下、そいつはやってきた。私はそいつが呼んだ友達から全力で逃げた。遠くの海から少しずつ、でも確実に速度を上げて近付くそいつを横目に、私は両親に伝えなければ、従兄弟に伝えなければと、そう思った。でも幸いその日は休館日だということに気がついた。従兄弟も中部まで旅行に行くと言っていたことを思い出した。そして私は中学校の時に裏山散策で見つけた穴場に直行した。そいつがここまでやってこれないことを知っていたから。
浜辺に尻餅をついてる人がいるのが見えた。海からやってくるそいつを見て、足がすくんで動けないらしい。自動車もたくさん見えた。みんな一気に逃げようとして出口で渋滞している。私はその人たちの背後から迫るそいつから早く逃げて欲しくて、この崖の上から大声で叫んだ。この声が届かないことを知りながら。私は目を覆い隠すことも忘れて、その人々がそいつに襲われ飲み込まれるところを、一部始終を目の当たりにしてしまった。そのあと私は吐いた。
そいつはここで暮らす人々からたくさんのものを奪い、私から全てを奪った。両親は休館日でも魚の世話をしなければならないから、その時間も館内にいた。水族館は浜辺の綺麗な景色が見える場所にあったから、両親と飼育員の人たちはそいつに襲われてしまった。少し考えれば分かるはずのことだった。従兄弟はまだ戻って来ていない。
私の家はそいつと海からやって来たその友達によって壊された。自転車はいつもの場所にはなかった。車は道路に飛び出していた。学校は私に入って欲しそうにその門を開け放していた。人気はなかった。
私はそれから4日間、昼間は街を徘徊し、日が暮れるとこの崖に吸い寄せられるようにして戻って来た。街を歩き回っても、何が起こったのかを理解することはできなかった。誰にも出会わなかった。
空に雲はなく、今まで見たことのないくらいの数多の星が輝いていた。その夜、私はその出来事から初めて眠りにつき、そして夢を見た。みんながいた。全てが元どおりだった。この世界が本物なんだと思った。さっきまでは悪い夢を見ていたんだと思った。でも朝になって目は覚めて、この世界が本物なんだと思い知る。明日からもこの繰り返しなのかと思うと気が狂いそうな感じだった。
そして、今に至る。
ふと、なんでこんなことになったんだと考えてみた。
そして、きっと私が今までとても悪い子だったからこんなことが起きたんだという答えにたどり着く。
そうか、あいつも、海からやってきたその友達も、本当は私が連れてきてしまったんだと思った。別にそいつを運んできた地球だとか、海だとかが悪いんじゃなくて、本当に悪いのは私だったんだ。
今になって沢山思うことがある。
こんな素敵な環境に生まれたなら、もっと海を愛して海へ遊びに行くんだったなぁ。両親が水族館を営んでいるなら、魚たちの世話をしてやりたかった。ピノとレオに芸を仕込んで、水族館をたくさんの人で賑わせたかった。従兄弟ともっと遊んであげたかった。お父さんの話し相手になりたかった。お母さんに料理を習って、それを作ってあげたかった。もっと、もっと、親の言うことをよく聞いておくんだったーー。
私は今まで、一体何をしてきたんだろう。きっと何もできなかったんだ。それで私一人が残されちゃったんだ。ずっとずっと、悔やんで生きていかなければいけないんだ。目の前に海があるのに、そこにたどり着くこともなく死んでいくんだ。
とてもこんな世の中に一人で生きていける気がしなかった。
いっそのこと逃げてしまいたいと思った。
償いをせずにこの世と別れを告げる罪人の気持ちがわかった気がした。
許されないことだとは分かっていた。
だがそれが何だろう。
逃げ出すことがこの世の人に、もうこの世にいない人達に、神に、許されないからってここで生きていくことに何の意味があるだろう。
私には万人に許されないことよりも、ここで生きていくことの方が辛い。
それに、元々生まれたことに意味も無かったんだろう。
他の人が生き残ったら、もっと生きていたいと願っただろうか。
でも、初めから私しか生き残らない運命だったんだろう。
私は崖から下を見下ろした。
そこで仰向けになると木々のざわめきと風が心地よかった。
ふとさざ波の音を耳にして、私は海に入りたいと思った。
私は立ち上がって、崖から真っ逆さまに落ちた。
落ちている時、一瞬 潮の匂いが鼻にまとわりつき、風の抵抗を受けて海の中だと錯覚した。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。